兄さんの秘密
最近、アイオロスの様子がおかしい。
執務室で事務処理を片付けている最中、サガは横の机でカリカリとペンを走らせるアイオロスを見ながら、そう感じる。
何処がおかしいのか。
妙に落ち着きがないのである。
表現は悪いが、トイレを我慢する子供のようだと、サガは思う。
シオンもそれには気付いているようで、仕事中にサガが教皇に目配せすると、物言いたそうに小さく頷く。
アイオロスはどこかおかしい。
聖域の実力者二人が共通の認識を抱いているのでは、それには間違いがない。
「アイオロスが、ですか」
その日の夕食のこと。
サガがシオンに話したいことがあると持ちかけたところ、
「ではうちで夕餉でも食しながら」
ということになり、サガは白羊宮の晩餐にお邪魔していた。なお貴鬼は、現在東京に出掛けていて不在である。
サガがシオンに自分の考えを語った後、ムウが嘆息まじりに呟いたのが先の台詞だ。
サガは首肯すると、
「ああ。どうにも奴はそわそわしている」
「春先になると脱ぎたがる方が多数出るようですが、今回もそれと似たようなものなのでしょうか?」
「お前、さり気なくひどいことを言うな」
サガが眉間に皺を寄せたが、ムウはあっさりと無視する。
シオンは夕食の天麩羅を頬張りながら、丸い眉を顰めて何かを考えている。
アイオロスが浮き足立っているのは、一体何故なのか?
それを、250年近く生きた頭脳をフル回転させて考えている。
ただ、あまりにも小難しい顔をして咀嚼しているものだから、さすがのムウも心配になってしまって、怖ず怖ずと、
「シオン様……今日のお食事、お口に合いませんでしたか?」
と訊ねる始末だ。
シオンははっと我に帰ると、案ずるでないと、弟子を安心させるかのように笑う。
「今宵も美味いぞ。このサツマイモのかき揚げは特に絶品であるな」
「ありがとうございます」
師に誉められ、ようやく顔がほころぶ。
サガもかき揚げに箸を伸ばし口に運ぶが、シオンが誉めるのもよくわかる味だ。
さっくりとした衣と、甘いサツマイモ、そしてネギと豚肉の旨味と食感が、舌の上で絶妙なハーモニーを奏でている。
テーブルの上には天つゆと抹茶塩が用意されていたので、2個目は天つゆ、3個目は抹茶塩で食べてみる。
「ほぉ……」
偽教皇時代、所謂美食というものは随分口にした。
世の中の美味いものはあらかた食べ尽くしてしまったと思っていたが、いやはや自分の知らないことがまだまだあるものだ。
「どうしました、サガ」
右頬にムウの視線を感じたサガは、やや表情を緩める。
「美味いな、この天麩羅。天つゆで食べても、塩で食べても、美味い」
「フフフ、ありがとうございます。教皇と偽教皇に誉められるだなんて、私の腕も捨てたものではありませんね」
さり気なくサガの心の傷をグリグリしたムウは、微笑んだまま食事を進めた。
……サガはムウの料理は好きだが、白羊宮に来るのはそうでもない。
というのも、ここに来ると、3回に2回は過去の過ちを遠回しに責められるのだ。
ムウの料理は食べたいが、あまり訪れたくはなかったりする。
「教皇、そんな難しい顔で何を考えておられたのですか?」
「ふむ」
みそ汁をすするシオン。今日は白味噌のアサリ汁。
「アイオロスが浮き足立っていた理由について考えておったのだが……なかなか思いつかぬのだ」
「アイオロスの誕生日まで、まだ日がありますしねぇ」
アイオロスは毎年毎年自分の誕生日になると、聖域内の闘技場を借り切り、武道会やらマッスルミュージカルやらを開催しようとする。
当然のことながら、他の人間に嫌がられているのだが、当人にはあまりその自覚がない。
……いや、毎年のように同僚たちが11月末になると聖域を離れたり、教皇に渋面を作られているのだから、恐らく本人も『嫌がられている』とはわかっているのだろうが、『聖闘士は体を鍛え、女神をお護りするのが本分』と信じているので、そのまま自分の道を貫いているのかもしれない。
誕生日絡みでないとなると、一体なんだろうか?
「サガよ、お前は何か心当たりはあらぬか?」
「実は私も、何も」
正直に答えるサガ。もし心当たりがあったら、シオンなり他の連中なりに相談している。
最近のアイオロスはソワソワしていて、一緒に仕事をしていても落ち着かないのだ。
正確無比な書類仕事が売りのサガだが、ここのところ凡ミスが増えており、
『アイオロスの落ち着きのなさが、自分に伝染してしまったのだな』
と、責任転嫁にも聞こえかねない自己分析をしていたりもする。
「執務室の業務にも徐々に影響が出ておるしな。サガにも心当たりがないとすれば……よい。明日私自らアイオロスに問い質してみようぞ」
「御意」
重々しく告げるシオンと、静かに頭を下げるサガ。
台詞だけならそれなりに威厳があるのだが、目の前にある天麩羅と白菜の漬け物のおかげで、中途半端な雰囲気になっているのが惜しい。
ただ、そんな空気の中もムウは、黙々とご飯を食べている。
その翌日。
教皇の間に出勤する途中、人馬宮を通過した時のこと。
シオンは人馬宮の住居部分のドアに、自分宛の手紙が挟まっているのに気付いた。
「?」
引き抜き広げてみると、アイオロスの達者な文字で、
『申し訳ございませんが、本日用事があるので執務を休みます。急な話で本当に申し訳ございません』
と綴られている。
「…………」
微かに、丸い眉の間に皺が寄る。
あの真面目な、超がつくくらいに真面目で仕事熱心(パソコンは苦手だが)なアイオロスが、急に執務を休むなんて、まったく何があったのか。
手紙を丁寧に折り畳み、仕事用の鞄の中にしまうと、シオンは再び先を急ぐ。
今日はサガと二人で仕事をこなさねばならないから、いつもの倍忙しいであろう。
「……何故こうなったのやら……」
予備の机に座って書類をチェックしているのは、報告書提出のためにシベリアからやってきたカミュである。
仕事が立て込んでいたシオンとサガは、渡りに船とばかりにカミュを捕まえ、そのまま多量の書類をカミュの目の前に積んだのである。
押しに弱いところがあるカミュは、なし崩し的に書類の翻訳を引き受けるハメになり、今に至る。
「そういえば、教皇」
「どうした、カミュよ」
「珍しくアイオロスの姿が見えませんが、一体どうしたのでしょうか?」
「知らぬわ。用事で休むとしか聞いておらんわ」
「……アイオロスが、ですか」
カミュもアイオロスの仕事ぶりはよく知っている。生半可な用事で仕事を休むような男ではない。
仕事に対する責任感の強さは、黄金聖闘士随一ではないだろうか。
そんなアイオロスが、執務室に出てこないなんて……。
「妙な話ですね」
特徴ある眉を顰め、カミュがそう呟く。
「妙とは、どういう事だ」
サガがパソコンのディスプレイを凝視したまま問う。ここのところ根を詰めて仕事をしているので、黒サガではないのに目が赤くなっている。
カミュは小さく頷く。
「教皇の手紙で欠席の意を伝えた事です。人馬宮から聖域の外に出る際は、必ず白羊宮を通過する。それなのに、何故人馬宮に書き置きなどという、非確実な方法をとったのでしょうか」
執務室で事務処理を片付けている最中、サガは横の机でカリカリとペンを走らせるアイオロスを見ながら、そう感じる。
何処がおかしいのか。
妙に落ち着きがないのである。
表現は悪いが、トイレを我慢する子供のようだと、サガは思う。
シオンもそれには気付いているようで、仕事中にサガが教皇に目配せすると、物言いたそうに小さく頷く。
アイオロスはどこかおかしい。
聖域の実力者二人が共通の認識を抱いているのでは、それには間違いがない。
「アイオロスが、ですか」
その日の夕食のこと。
サガがシオンに話したいことがあると持ちかけたところ、
「ではうちで夕餉でも食しながら」
ということになり、サガは白羊宮の晩餐にお邪魔していた。なお貴鬼は、現在東京に出掛けていて不在である。
サガがシオンに自分の考えを語った後、ムウが嘆息まじりに呟いたのが先の台詞だ。
サガは首肯すると、
「ああ。どうにも奴はそわそわしている」
「春先になると脱ぎたがる方が多数出るようですが、今回もそれと似たようなものなのでしょうか?」
「お前、さり気なくひどいことを言うな」
サガが眉間に皺を寄せたが、ムウはあっさりと無視する。
シオンは夕食の天麩羅を頬張りながら、丸い眉を顰めて何かを考えている。
アイオロスが浮き足立っているのは、一体何故なのか?
それを、250年近く生きた頭脳をフル回転させて考えている。
ただ、あまりにも小難しい顔をして咀嚼しているものだから、さすがのムウも心配になってしまって、怖ず怖ずと、
「シオン様……今日のお食事、お口に合いませんでしたか?」
と訊ねる始末だ。
シオンははっと我に帰ると、案ずるでないと、弟子を安心させるかのように笑う。
「今宵も美味いぞ。このサツマイモのかき揚げは特に絶品であるな」
「ありがとうございます」
師に誉められ、ようやく顔がほころぶ。
サガもかき揚げに箸を伸ばし口に運ぶが、シオンが誉めるのもよくわかる味だ。
さっくりとした衣と、甘いサツマイモ、そしてネギと豚肉の旨味と食感が、舌の上で絶妙なハーモニーを奏でている。
テーブルの上には天つゆと抹茶塩が用意されていたので、2個目は天つゆ、3個目は抹茶塩で食べてみる。
「ほぉ……」
偽教皇時代、所謂美食というものは随分口にした。
世の中の美味いものはあらかた食べ尽くしてしまったと思っていたが、いやはや自分の知らないことがまだまだあるものだ。
「どうしました、サガ」
右頬にムウの視線を感じたサガは、やや表情を緩める。
「美味いな、この天麩羅。天つゆで食べても、塩で食べても、美味い」
「フフフ、ありがとうございます。教皇と偽教皇に誉められるだなんて、私の腕も捨てたものではありませんね」
さり気なくサガの心の傷をグリグリしたムウは、微笑んだまま食事を進めた。
……サガはムウの料理は好きだが、白羊宮に来るのはそうでもない。
というのも、ここに来ると、3回に2回は過去の過ちを遠回しに責められるのだ。
ムウの料理は食べたいが、あまり訪れたくはなかったりする。
「教皇、そんな難しい顔で何を考えておられたのですか?」
「ふむ」
みそ汁をすするシオン。今日は白味噌のアサリ汁。
「アイオロスが浮き足立っていた理由について考えておったのだが……なかなか思いつかぬのだ」
「アイオロスの誕生日まで、まだ日がありますしねぇ」
アイオロスは毎年毎年自分の誕生日になると、聖域内の闘技場を借り切り、武道会やらマッスルミュージカルやらを開催しようとする。
当然のことながら、他の人間に嫌がられているのだが、当人にはあまりその自覚がない。
……いや、毎年のように同僚たちが11月末になると聖域を離れたり、教皇に渋面を作られているのだから、恐らく本人も『嫌がられている』とはわかっているのだろうが、『聖闘士は体を鍛え、女神をお護りするのが本分』と信じているので、そのまま自分の道を貫いているのかもしれない。
誕生日絡みでないとなると、一体なんだろうか?
「サガよ、お前は何か心当たりはあらぬか?」
「実は私も、何も」
正直に答えるサガ。もし心当たりがあったら、シオンなり他の連中なりに相談している。
最近のアイオロスはソワソワしていて、一緒に仕事をしていても落ち着かないのだ。
正確無比な書類仕事が売りのサガだが、ここのところ凡ミスが増えており、
『アイオロスの落ち着きのなさが、自分に伝染してしまったのだな』
と、責任転嫁にも聞こえかねない自己分析をしていたりもする。
「執務室の業務にも徐々に影響が出ておるしな。サガにも心当たりがないとすれば……よい。明日私自らアイオロスに問い質してみようぞ」
「御意」
重々しく告げるシオンと、静かに頭を下げるサガ。
台詞だけならそれなりに威厳があるのだが、目の前にある天麩羅と白菜の漬け物のおかげで、中途半端な雰囲気になっているのが惜しい。
ただ、そんな空気の中もムウは、黙々とご飯を食べている。
その翌日。
教皇の間に出勤する途中、人馬宮を通過した時のこと。
シオンは人馬宮の住居部分のドアに、自分宛の手紙が挟まっているのに気付いた。
「?」
引き抜き広げてみると、アイオロスの達者な文字で、
『申し訳ございませんが、本日用事があるので執務を休みます。急な話で本当に申し訳ございません』
と綴られている。
「…………」
微かに、丸い眉の間に皺が寄る。
あの真面目な、超がつくくらいに真面目で仕事熱心(パソコンは苦手だが)なアイオロスが、急に執務を休むなんて、まったく何があったのか。
手紙を丁寧に折り畳み、仕事用の鞄の中にしまうと、シオンは再び先を急ぐ。
今日はサガと二人で仕事をこなさねばならないから、いつもの倍忙しいであろう。
「……何故こうなったのやら……」
予備の机に座って書類をチェックしているのは、報告書提出のためにシベリアからやってきたカミュである。
仕事が立て込んでいたシオンとサガは、渡りに船とばかりにカミュを捕まえ、そのまま多量の書類をカミュの目の前に積んだのである。
押しに弱いところがあるカミュは、なし崩し的に書類の翻訳を引き受けるハメになり、今に至る。
「そういえば、教皇」
「どうした、カミュよ」
「珍しくアイオロスの姿が見えませんが、一体どうしたのでしょうか?」
「知らぬわ。用事で休むとしか聞いておらんわ」
「……アイオロスが、ですか」
カミュもアイオロスの仕事ぶりはよく知っている。生半可な用事で仕事を休むような男ではない。
仕事に対する責任感の強さは、黄金聖闘士随一ではないだろうか。
そんなアイオロスが、執務室に出てこないなんて……。
「妙な話ですね」
特徴ある眉を顰め、カミュがそう呟く。
「妙とは、どういう事だ」
サガがパソコンのディスプレイを凝視したまま問う。ここのところ根を詰めて仕事をしているので、黒サガではないのに目が赤くなっている。
カミュは小さく頷く。
「教皇の手紙で欠席の意を伝えた事です。人馬宮から聖域の外に出る際は、必ず白羊宮を通過する。それなのに、何故人馬宮に書き置きなどという、非確実な方法をとったのでしょうか」