兄さんの秘密
「生まれた子馬の名付け親になっていいと言われていたのでな」
「そうなんだ……」
「ああ」
破顔するアイオロス。どうやら彼には、どうしても馬につけたい名前があったようである。
「生まれた馬にはな、“シジフォス”と名付けた」
「シジフォス?」
怪訝そうに眉を寄せる貴鬼。あまり耳にしたことのない単語であるが、アイオロスは何故その名を付けたがったのか。
「……どうして、その名前にしたかったの?」
「先代の射手座の聖闘士の名だそうだ。以前、教皇から伺った」
ほんの一瞬だけ、貴鬼の目が丸くなった。しかし、すぐに貴鬼特有の子供っぽくて生意気だけど、どこか憎めない笑みを浮かべる。
「だったら、最初からシオン様にそう言えばいいじゃん。きっとシオン様、喜んでアイオロスを送り出してくれたと思うよ」
「それは、私も考えた」
だが、競技場の使用を取り消される絶好の言い訳を相手に与えるような気がして、言い出せなかったのだ。
次期教皇は口の中でそう答える。
貴鬼は自分の夕食がまだな事を思い出し、座っていた椅子からぴょこんと飛び降りると白羊宮に戻る事にした。早く戻らないと、シオンの機嫌が悪くなる。
「ね、アイオロス」
「何だ」
「シオン様はアイオロスが考えてるほど、怖い人じゃないよ」
そりゃ、お前は身内だからだよ、教皇の可愛い可愛い孫だからだよと、アイオロスは言いたかったが、この場では黙っておいた。
「教皇は人の情や気持ちを酌んで下さるお方だ。それは私もサガも分かっているさ。だが……」
やや目付きが、質量を帯びる。
「だが私は、それを言い出すほどの勇気がなかった。それだけさ」
「ふーん」
納得できていない事が丸わかりの貴鬼。その視線は、どこか据わっている。
アイオロスが腹の中で別の事を考えていると、彼の顔つきから察したためかもしれない。
「でも、今度はちゃんと、シオン様たちに話してから休んだ方がいいと思うよ?」
「留意しておく」
子供の忠告に、思わず苦笑い。
貴鬼は今度はちゃんとしてね?と念を押すように告げると、アイオロスの部屋から帰っていった。
これからこの子羊は、全力で白羊宮に戻らねばならない。
その翌日。アイオロスはいつも通りに出勤し、仕事場の準備を始めた。
執務室の床をモップで掃除してから、薪ストーブに火をくべる。
次期教皇がモップがけなど……と思う向きもあろうが、執務室内は重要書類が多いので、雑兵に掃除を任せられないのだ。
アイオロスがモップをかけ終えた頃、サガが出勤。
サガの方が遅いのは双子宮の方が遠いためと、市内に出て新聞を何紙か購入してくるためである。
「おや、今日はちゃんと来ていたか」
少々意地の悪い口調で揶揄するサガ。
アイオロスは僅かに眉間に皺を寄せると、ストーブの中に薪を放り込みながら、
「昨日はいきなり休んで、悪かった」
「この時期に馬の出産など珍しいからな。手伝うのも一興だろう」
シオンの机の上に、地元紙を何紙かと、ウォール・ストリート・ジャーナルを置く。
シオンは教皇の間に出てくると、椅子に腰掛けるや否や新聞に目を通すからだ。
アイオロスは、子馬って本当に可愛いよなぁ……とうっとりしたような口調で呟きかけたが、サガの言葉を頭の中で繰り返し、息を詰まらせかけた。
「お、おい!!サガ!!」
「ん、何だ」
パソコンを立ち上げ、メールチェック中のサガ。
グラード財団から何通かメールが届いているので、後ほどプリントアウトして教皇に提出しないと。
「お前、さっき何と!?」
「だから、この時期に馬の出産は珍しいだろうと」
「何故お前が、馬の出産の件を知ってるんだ!?」
慌てふためいて、激しく唾を飛ばすアイオロス。だがサガは、涼しい顔でマウスを操作しながら、
「お前の体を見れば、ある程度の事は想像できる。全身に藁と泥と馬の毛を付着していればな」
淡々と語る、双子座の聖闘士。
自分は懸命に隠し通したつもりだったが、見る人間が見るとバレバレだったらしい。
……なんたる、失態。
ストーブの前で頭を抱えるアイオロス。
ああ、こんな事なら、牧場でシャワーを借りてくればよかった……。
そのアイオロスの背中を横目で見やったサガは、彼の机の上に書類の束をボンと置くと、淡々とした口調で告げた。
「さっさと仕事を進めた方がいいと思うぞ。そろそろ教皇が到着される時間だ」
「……ああ」
アイオロスはサガの言葉に静かに頷く。
教皇の小宇宙が執務室に迫ってきているのは、彼も感じていたからだ。
さて、この後どうなったか。
突然の欠勤をシオンが咎めたかどうかは、サガもアイオロスも語りたがらないし、シオンも『さて、どうであったろうな?』とはぐらかしているので、まったく分からない。
唯一明らかになっているのは。
その日の執務を終えたアイオロスは、幸せそうに笑っていた。
ただ、それだけである。