兄さんの秘密
故にムウは、アイオロスがシオンに直接報告したら角が立つであろうことを、間に貴鬼を挟むことによって穏便に収めようとしたのである。
「……流石だな」
期せずして浮かぶ微笑み。流石教皇の性格を知り抜いた、ムウだ。
「アイオロス?」
急にアイオロスが笑ったのを不審に感じた貴鬼が、小さく名を呼ぶ。
アイオロスは何でもないと腕を伸ばし、貴鬼の頭を撫でるとベッドから抜け出した。
「もうすぐ、子馬が生まれるんですよ」
二週間前の話。
アイオロスが毎週牛乳を買いに出向いている牧場のオーナーが、急にこんな話をし出した。
「子馬が……か?」
怪訝そうに眉を顰めるアイオロス。この牧場に馬がいることは知っている。
ファミリー向けに乗馬クラブを経営しているので、ポニーやサラブレッドなど、色々と飼われているのである。
だが、アイオロスが訝しさを覚えたのは、馬の有無ではない。
今は10月。馬の出産シーズンは主に3~6月だ。動物は発情期があるので、出産時期がここから大きくずれることはほとんどないのに。
何故にもうすぐ馬が生まれるのだ。
流石のアイオロスも皆目見当が付かない。
するとオーナーは、そのアイオロスの表情から彼の考えを読んだのか、種明かしをしてくれた。
「オーストラリアで受胎した馬なんですよ」
「オーストラリア……」
オーナーの話はこうであった。
オーストラリアで牧場を営んでいた知人が、借金のために馬を手放すこととなり、どうしてもと言うので何頭かオーナーが買い受けることにした。
先日その馬がオーストラリアから船便で運ばれてきたのだが、検疫の際に担当の獣医から言われた一言。
「この馬、妊娠しとるね」
「は?」
目を点にするオーナー。
にんしん、にんしん、にんしん……。
言葉と意味が、すぐには合致しなかった。
20秒後、ようやく馬のお腹の中に新しい命が宿っていることが理解できると、獣医に詰め寄った。
「ど、どういうことなんだ?」
「知らんよ。元の持ち主に訊け!」
それもそうだ。
オーナーは馬を牧場に運んだ後、オーストラリアの知人に国際電話をかけた。というのも、購入することが決まった時点では、孕んでいると聞いていなかったからだ。
しかし、相手の答えはあっけらかんとしたものだった。
「ああ~、グルーシェニカはドミートリィと同じ厩舎に居たからな。もしかしたらガキが出来てるかもって思ったけど、やっぱ出来てたかー」
「ちょっと待て。お前はそこの管理は……」
「してたような、してないような……」
「そういう適当なことやってるから、牧場潰れるんだよ!」
怒りのあまり、電話を叩き切るオーナー。
南半球、季節が逆の地域では動物の発情期も違うため、10月以降に出産を迎えても何らおかしくはない。
けれども寒い時期の出産など、長いこと馬の世話をしているオーナーも経験したことはなかった。
そのため、2~3月に生まれた馬の居る厩舎に行って話を聞いたり、獣医と相談したりと色々準備を勧めているようだ。
オーナーがアイオロスに馬が生まれる話をしたのは、その辺の愚痴を聞いて欲しいと言う気持ちもあったのだろう。
「……大変だな、色々と」
「ええ。しかも間の悪いことに、馬の出産にいつも立ち会っているスタッフが…長期休暇中で……。妻はお産の手伝いは、絶対にイヤだと言い張っていますし……」
今の時期は馬のお産がないからと、休みをくれてしまったのが悪かった。
馬の妊娠が判明した後、スタッフに休暇をズラしてくれないかと頼んだところ、船旅の予定を入れてしまったのでどうすることも出来ないという、何ともイヤな返答が。
「……それは災難だな」
心底気の毒そうに表情を沈めるアイオロス。
オーナーは大きなため息をつくと、どこか諦めたような様子で肩をすくめる。
「仕方ありませんよ。こうなったら、出来るだけやってみますよ」
昼間から夕方はアルバイトがいて厩舎の世話をしてくれるが、夜間はオーナーとその妻がこの広い牧場を切り盛りしている。
その話を聞き終え、アイオロスの親切心がゆっくりと首をもたげ。
やがてそれは、彼の唇を動かした。
「あー、オーナー」
「何です」
「私は素人だし、大したことは出来ないが……手伝おうか?力仕事や体を使う仕事なら、いくらでも協力できるが」
オーナーは何を言われたのか、即理解できなかったが。だがほどなく顔を輝かせると、本当ですか?と弾むような手付きで、アイオロスの無骨な手を握った。
「それはありがたい!!是非ともお願いします!」
それほどまでに、一人で子馬を取り上げるのが心配だったのか。アイオロスはそっと相手の手を外させると、
「一ヶ月ほど牛乳を半額にしてくれよ」
と、冗談めかして告げた。
アイオロスは本当に冗談のつもりで言ったのだが、オーナーは本気で受け取ってしまったらしく、一ヶ月分ただにしますよと鬼気迫る真剣な表情で答えるので、アイオロスは少々困ってしまった。
無事に生まれたらそうしてくれと躱すと、連絡先として自分の携帯電話の番号を渡す。
さすがに、人馬宮の電話番号を教えるわけにはいかない。
「生まれそうになったら、そこに電話をくれ。頼むぞ」
「いえいえ。こちらこそ、よろしくお願いします」
深々と頭を下げるオーナー。アイオロスは牛乳とバターを持って牧場を後にしたが、聖域に到着し白羊宮の前を通過したところで気付いた。
「さて、教皇に何と説明しよう」
どういうわけか生き物は、未明から明け方にかけて産気付くことが多い。
なので、出産を手伝っていたら……執務を休まざるを得なくなる。
この事を正直に教皇とサガに話すべきだろうか。教皇ならば欠勤を認めてくれるだろうが、11月末に自分の誕生日イベントで闘技場を使わせてもらうことになっているので、あまり無理を言いたくない。
いや、教皇は喜んでお産手伝いのための休みをくれるかもしれない。
『ああ、構わぬよ。新たな生命の誕生を見届けるのは、決して悪いことではあらぬ故。しかし、今月末の闘技場の使用は見送ってもらうぞ?』
と、重厚さと威厳を兼ね備えた笑顔で言ってくれるに違いない。
むしろ、お産のための休みはくれてやるから、闘技場は諦めろと遠回しに言ってくるに違いない。
アイオロスは、それだけはイヤだった。
「……仕方ない」
ここは強硬突破しかない。
アイオロスは出産当日の欠勤を決意する。
手紙で欠勤の意を伝えたのは、あのシオンの前で休む理由を黙っていられる自信がないからだ。
「……大体はこんなところだ」
ホットサンドをかじりながら、そう締めくくるアイオロス。
思ったよりも長い話になってしまったのには、自嘲した。
貴鬼はホットミルクを飲みつつアイオロスの話を聞いていたのだが、小首を傾げつつ彼に訊ねる。
「最近ソワソワしていたのって、子馬が生まれるからだったの?」
「ああ」
素直に肯定する。貴鬼はアイオロスの表情を覗き込むように、更に首を横に曲げた。
「でも、シオン様とかの話を聞いてると、アイオロスチョーウキウキしてたらしいじゃん。馬生まれるくらいで、そんなにウキウキする?」
貴鬼のその問いに、アイオロスはほんの少しだけ頬を赤らめると、嬉しそうに、心底嬉しそうに、教えてくれた。