体育会系の恋
「……上手くいってよかったよ」
その翌々日のこと。アフロディーテの姿は再び白羊宮の居間にあった。
彼の傍らに大きなスーツケースがあるのは、これから海外出張に赴かねばならないためだ。
「この二日で色々と面白いものが見られましたよ」
アフロディーテの前に、紅茶とお茶請けのクッキーを置くムウ。
今貴鬼は教皇の間でシオンに勉強を教えてもらっているため、ここにはいない。
歴史の講義なので、史料の多い教皇の間の方が教え易いのだ。
「アイオリアもあんな顔するのですねぇ。フフフ……」
魚座の聖闘士の向かいに座ったムウは、自分のカップに口を付けながら笑う。
「まったくだね」
そう応じながらアフロディーテは、ジラール・ペルゴのフェラーリモデルをのぞく。
飛行機の時間に間に合うように聖域を出発しなくては。
「それにしても。日本では『月が綺麗ですね』が『I love you』の意味になるだなんて、貴方に教えて頂くまで知りませんでしたよ」
「ああ。昔の文豪がね、生徒が『I love you』を『我君ヲ愛ス』と翻訳したところ、『月が綺麗ですね、と訳しなさい。日本人にはそれで伝わる』と教えたそうだ。この文豪の時代には『愛』という概念があまりなかったようだから、そういう話になったらしいよ。他の文豪は『I love you』を『あたし、 死んでもいいわ』と翻訳したそうだしね」
と、ムウが丸い眉を寄せていることに気付いたアフロディーテは、咳払いを一つすると、
「君の部屋のカレンダーを見たら、満月が間もなくだったからね。それでひらめいたんだ」
白羊宮のカレンダーは星見のスケジュールを組む都合上、月齢表が記載されているものを使用している。
アフロディーテはそこからアイディアを得たらしい。
「『魔鈴に“月が綺麗ですね”って言ってみるといい。日本では“I love you”の意味だから』なんてバーベキュー前に教えておいたけど、無事に済んでよかったよ」
そう言って、美しさに定評のある聖闘士は笑う。
「よくそんな、日本の文学の話を知っていましたね」
「カミュに昔教えてもらったのさ。魔鈴は日本人だから、もしかしたら通じるかも知れないと思ってね」
「カミュが、ですか」
あの人も変わったことを知っているものですねぇ。
その言葉は、クッキーとともに胃の中に流し込む。
紅茶を飲み干したアフロディーテは、滑らかな動きでソファから立ち上がると、スーツケースの取っ手をつかんだ。
「ごちそうさま、ムウ。私はそろそろ行かなくては」
「こちらこそ。ためになるお話をありがとうございました」
慌ただしく去っていくアフロディーテ。
パタンと玄関のドアが閉まった後、ムウは緊張が解けたかのように小さく息を吐いた。
……正月とイースターとクリスマスが一度に来たような顔のアイオリアが白羊宮を訪れたのは、昨日の話だった。
「ムウー!!」
あまりにも乱暴に玄関ドアを開けてくれたものだから、いっそ殴ってやろうか……と工房で小宇宙を高め始めたムウであったが、訪れた獅子宮の主人の表情があまりにもデレデレだったので、拳を叩き込む気持ちが急速に萎えた。
エプロンについたオリハルコンの欠片を払い玄関に出ると、柔和にもかかわらずどこか殺気を感じさせる眼差しで、アイオリアのたるみきった顔を一瞥する。
「どうしたのですか、アイオリア」
「うむ。今日はどうしても人に話したいことがあったのでな」
話したくて話したくて、口元がうずうずしているのがわかる。
ムウは剣呑さを押し隠した口調で、
「いつもはシャカにお話していますよね」
「あいつは今インドに帰っている。昨日のバーベキューにいなかっただろう」
「それもそうですか」
ムウは今聖域を離れているシャカを、少々恨めしく思った。
いや、シャカにそんな感情を持つのは筋違いなのだが、感情は理性とは別の答えを求めることがある。
「で、アイオリア。何の御用なのですか?」
居間のソファーに勝手に座るアイオリアに立ったまま冷ややかな目を向けるムウであったが、幸せそうに浮かれているこの男には全く通用しない。
アイオリアは花が飛び散りそうな笑顔で、
「今度魔鈴と二人で訓練を行うことになった。その後、一緒に食事に行こうかと」
「ああ、そうですか……え?」
少々信じ難い言葉を聞いたので、ムウの動きが止まる。
「……今、何と?」
「魔鈴と食事に行くことになったのだ!」
ああ、今のアイオリアがいれば、夜も灯りをつけなくて済みますね。全身が輝いていますから。
そんな現実からかけ離れたことを、ムウは考えた。
アフロディーテは朴念仁のアイオリアをどうにかしたくてアイディアを出したが、実を言うとムウは、アイオリアの恋が成就しようがしまいがどうでも良かった。
アイオリアの滅多に見られない顔を見たかったというのが、ムウの本心であったからだ。
「……つまり、それはお付き合いを始めたという認識でよろしいのでしょうか?」
「そうはっきり言ってくれるな」
立派な体躯のアイオリアがソファの上で照れる様は、初々しくも微笑ましい光景ではあった。
……白羊宮の家主がどう感じたのかはわからないが。
アイオリアは、そんなムウに向かって深々と頭を下げる。
「お前とアフロディーテには感謝しているぞ。お前らの手助けがあったから、この結果を出すことができた。心から礼を言いたい。ありがとう、ムウ」
思わずムウの呼吸が止まる。
「……アイオリア」
色々と含むところはあるが、こう素直に礼を言われると悪い気はしない。
元々アイオリアは率直で素直な男だ。気持ちのままに行動することが多々ある。
それ故、言わないでいいことまで言ってしまうこともあるが。
ムウは深く息を吐くと、困ったように笑う。
「まったく、貴方にはかないませんよ」
「何がだ?ムウ」
「いえ、こちらの話です。良かったですね、アイオリア」
「ああ、お前たちのおかげだ」
そう告げるアイオリアの笑顔は、ムウが彼と知り合ってから見たものの中で、最も素晴らしかった。
昨日のことをぼんやりと回想したムウは、お茶の後片付けをしながら独り言を呟く。
「聖域に戻ったシャカがこの話を聞いたら……どんな顔をするでしょうね?」
神に最も近い男のリアクションを想像し、形のいい唇を微笑むかのように曲げた。
なお、顔に紅葉型の跡をつけたアイオリアが半泣きの顔で処女宮を訪れるのは、これより2週間後の話。