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深夜特急

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* * *


タタン、タタン、
 

 規則正しい振動と音に、ハンガリーはゆっくりとまどろみから醒めた。
 頬にあたる分厚いコートの生地がこそばゆい。その、古めかしいが上質な仕立ての布地と、どこか懐かしい匂い。
 記憶に覚えのあるそれが、呆れるほど物持ちのいいあの男の物だと気付いて、ハンガリーは慌てて体を起こした。
「よう、起きたか」
 車窓を背に、お気に入りの一張羅に身を包んだ男の赤い目がニヨリと笑って、彼女の口元をゆび指した。
「ヨダレ」
「…っ!」
 瞬間的に真っ赤になって、ハンガリーは口を押える。が、ぬぐった手にそれらしい跡はなく、すぐにかつがれたと気付いた。
「っの…!」
 睨み付ければ、かたちだけは端正な横顔が、いつもよりは多少押えた声で、けしし、と笑う。
 ハンガリーは貴婦人らしくレースにつつまれた手で、不愉快きわまる男の胸倉をつかむ――しかしその時、やわらかなバリトンの声が、それを中断させた。
「お客様、切符を拝見致します」
「えっ、あっ、はい、」
 そうだ、ここは特急の車内だった。いけない、どこにしまったかしらと、荷物のなかを探そうとすると、
「ああ、ここだ」
 プロイセンが懐から二枚の切符をとりだした。
「頼む。二人分だ」
 車掌の白い手袋がそれを受けとり、ぱちん、ぱちんと小気味良い音をたて穴をあけた。
「ご夫婦で、ご旅行ですか」
「…ごふ…!?」
「ああ、そんなところだ」
 動揺した手をぎゅっと握られ、声を失うハンガリーの隣で、澄ましかえった大人の顔でプロイセンが笑ってみせる。

――そうだ。
 これは任務だった。
 『夫婦のふり』のまま、この男を『目的地』まで送らなくてはならないのだ。
 ハンガリーはさっと姿勢を正す。
「お美しい奥様で、お羨ましい」
「ほ、ほほほ、お上手ね」
 口に手をあて、ひきつる笑顔を誤魔化した。車掌の去ったあと、隣の男にだけ聴こえるよう低く、恨みの声をこぼす。
「夫婦のふりなら、相手はローデリヒさんが良かったわ…」
「んだと、この期に及んでおまえ…!俺だってなあ」
「知ってる。『俺だって、イタリアちゃんとかヴェストとがよかったぜー』でしょ。なにそれ萌える」
「萌えるなよ。………いや、」
 プロイセンは、考え込むように顎に手をあてた。
「今日ばっかりは……やっぱり、どうしても、お前だな」
 え、と見返すハンガリーをまっすぐに見つめ、
「おまえ以外、駄目だ」
「…ごめんなさい。そんなに、タフな任務とは知らなかった。ちょっと気合い、入れ直すわね」
 ハンガリーは生真面目に背筋を伸ばした。隣でプロイセンはくくっと喉を鳴らす。
「おう。頼むぜ」


作品名:深夜特急 作家名:しおぷ