深夜特急
タタン、タタン、
規則正しい振動は続く。
窓の外は闇だった。時折、いくつかの光が通り過ぎていく。
素知らぬ顔でそれを眺め続ける男を、ハンガリーも、見るともなしに眺める。
精悍になった顎のライン。高い鼻梁。
幼い頃から見馴れた筈の横顔だが、こんな風にゆっくりと見るのは、随分久しぶりな気がする。
「…夜の列車って」
「あ?」
「夜の列車って、苦手だわ。なんだか、寂しくて」
ぽつりと呟く。からかわれるかな、とも思ったが意外にもプロイセンは、そうか、とちいさく頷いた。
「お。見ろよ」
川面からゆらゆらと湯気が立ちのぼっている。まるで水上の雲のようだ。ぽつぽつと、いくつもの灯りに照らされて、夢かと思うほどに美しい。
「すごい…!あれは、地熱?」
「だな。たぶん、このあたり川の水は温泉なんだろ」
「すごい… 」
温泉好き国家のハンガリーは目を輝かせる。
「降りられないのが残念…!どこの駅なのかしら?落ち着いたら皆で遊びに来たいわね」
そうだな、と笑って、プロイセンは思い出したようにポケットの中を探った。
「忘れてた」
ハンガリーのレースの手に、小さな金属を放る。
「つけとけよ…夫婦だろ、今は」
それは、銀色に光る古い指環だった。プロイセンの選んだものにしては、随分と品の良い、上等の品だ。
「う、うん…」
ハンガリーは黒いレースの手袋を外し、ちょっと考えてから、おそるおそる、それを右の薬指に嵌める。
慣れぬ感触に手を握ったり開いたり、動かしているとふいにプロイセンが微笑んで、その手を軽く握った。
「やっと、渡せた」
「…え?」
「大事にしろよ。800年越しの代物だぜ」
「…!そ、れって…」
遠くの灯りがゆっくり流れていく。すい、とそれに目をやって、プロイセンが呟いた。
「確かに、寂しいよな。夜の森に、ちょっと似てる」
「え…、ええ」
ほんの子供の頃、ふたり、夜の森に迷い混んだことがある。
帰り道がわからなくて、一晩中、暗い森を歩き回った。不安な気持ちを励まし合うよう、どちらからともなく、きつく手を握りあった。
ああ、こいつも、怖いのは一緒なんだと、
握られる手の感触に、危険が薄れたわけでもないのに、どこかほっとしたのを覚えている。
深い闇。一寸先も見えない、真っ暗な夜の森のなか。
あの時、握りあった互いの手だけが、唯一、確かなものだった。
つつまれた手を、おそるおそる、握りかえしてみる。
するとそっぽをむいたままのプロイセンの耳にみるみる朱が立ち昇るのが見えて、ハンガリーも思わずうつむいた。
人の子のような、生殖の本能などないはずの身体で、何故か、深く抱き合う仲になった唯一の相手だった。
悪夢だ、と苦しんだことも、かつてはあった。
今となっては、少し、奇跡だったのかもしれないとも思う。
時代という、一寸先も見えない激浪の中、無我夢中で進みながら――離れそうになる手を、何度も握りあい、恐ろしさに耐えてきたのだ。
今日は、不思議だ。不思議な、旅だ。
この腐れ縁の幼馴染みと、喧嘩もせずに、隣に座って、穏やかに手を握りあっている。
このまま、目的地に、つかなければいいのに、と、夢のようなことすら、考えてしまう。
――次は……――次は……――
――お降りのお客様は――
車内放送が響き渡る。はっと顔をあげると、目の前に先ほどの車掌がいた。
「奥様、まもなく扉が閉まります。お急ぎを」
「え、あ。はい。プロイセン、着いたみたい」
慌てて荷物をまとめ立ち上がる。
振り返ると、プロイセンはまだ座ったまま、彼女を見上げていた。
「プロイセン…?」
「…ハンガリー」
ゆっくりと、確認するように名を発音される。
「――悪いな。ここで、お別れなんだぜ」
眩しげに目を細めて彼女を見つめ、やけに、はっきりとした声で。
「なに、なにが…?」
「おまえは、後からゆっくり来いよ、頼むから」
そう言って、プロイセンは、静かに笑う。
「ここから先は、俺ひとりだ」
いつもの、腹のたつケセセ顔ではなく。
心の底から沸き上がるような、いとおしげな、笑顔だった。
「おまえと来れて、嬉しかった」
「ありがとう。エリザ、」
「おれは、――――――。」