バー・セロニアスへようこそ 前編
数日前・1
「やぁ、ファラオ。ごきげんいかが?」
相変わらずの物柔らかい微笑みを浮かべて、冥界在住の居候ミュージシャン聖闘士が手荷物持参でファラオの家を訪れた。
目にした事のない小振りな紙袋であるため、菓子ではない事は確かだ。
(菓子マニアのバレンタインやブランド菓子店好きのオルフェのおかげで、ファラオも菓子店の包装に詳しくなっていたのであった)
ケルベロスの横で食事中であったファラオは、黒い目に訝しむような色を浮かべ、
「何だ、その包みは」
この神経の図太い音楽家はミーノス以上に曲者であると、永年の経験から知っている。
問われたオルフェは実に屈託ない笑顔で丁寧に包装された箱を袋から取り出すと、
「しばらく前に一緒にテレビ見ていた時、欲しいって言ってただろう?タグ・ホイヤー。だからプレゼント」
よくよく包みを見ると、タグ・ホイヤーのロゴが描かれている。
スイスが誇る超高級腕時計タグ・ホイヤー。
「ほぉ・・・」
思わず嬉しそうに目を細めるファラオ。
二ヶ月程前の話だ。
ファラオの家にはテレビがないため、彼は気になる番組があるとオルフェの家にテレビを見せてもらいに行っていた。
ファラオが見たかったのNBAのプレーオフ。
そのためスポーツチャンネル(冥界はわりとオタク率が高いため、テレビのある家は自動的にスカパーが見られるのである。
オルフェが地上に帰りたがらない理由がここにもある)をひねったところ、タグ・ホイヤーの腕時計を付けていたタイガー・ウッズの姿が。
単なるスポーツニュースの為、別に腕時計を強調して撮影していた訳ではないのだが、ファラオはそのシンプルで上質な輝きに目を奪われてしまい、隣でロック雑誌を読んでいたオルフェにこう漏らした。
『あの腕時計、カッコいいな』
『ああ、あれ。タグ・ホイヤーだね』
オルフェは雑誌から目を離さない。
彼はコールドプレイの新譜がCCCDで発売された事にえらく腹を立てており、そのうちEMIに殴り込みをかけに行こうか、本気で思案中だった。
オルフェからブランドを聞いたファラオは目を丸くすると、
『知っているのか?』
『タイガー・ウッズとブランド契約しているんだよ。だから、ウッズの腕時計はタグ・ホイヤー』
パサッと雑誌を閉じる。
そして腕を伸ばしてソファーの側面についたマガジンラックからモータースポーツ雑誌を引き抜くと、時計の広告が打たれたページを開きファラオに渡した。
『時計ブランドの中じゃ、ロレックスに次いで有名なところじゃないかな?ウッズの他にも…亡くなったアイルトン・セナや今マクラーレンにいるライコネンも愛用してたりするから、若い男性にもファンが多いのだけどね。一生もののとてもいい時計だから、ファラオは見る目あるよ』
この男、元彼女持ちだけあって、そういう事にはやたら詳しい。
説明を受けた後、オルフェから雑誌を受け取るファラオ。キラキラした目で、紙面をのぞく。
『買える値段だったから。ぜひとも手に入れたい』
そう思わせる魅力が、タグ・ホイヤーにはあったのだ。
さてそのお値段。
『クロノグラフ タキメーター ¥336,000』(都合により日本円掲示)
ファラオのおかっぱが、肩が、腕が、フルフル震えている。
買えない、とてもじゃないが、こんな値段の時計、買えない!!
ガックリと肩を落としつつオルフェに雑誌を返すファラオ。ああ、欲しかったのに。
やっぱりいいものは高いのか…。帰宅してからファラオは、ケルベロスの前で悶々と悩む事になる。
・・・そう落ち込む事二ヶ月。まさかこんな簡単に欲しかったものが入手できるとは思わなかった。
「しかし、こんなに高価なものを一体どうしたのだ!?」
尋ねるファラオの声が弾んでいる。オルフェは笑顔を浮かべたまま、
「この前アルバイトでグラード財団のCMソング作ってね……」
彼の話によると、現金では相手方も色々都合が悪いらしく、ギャラを現物支給という形で払ってくれたのだが、その現物がこの『タグ・ホイヤー』と『メルセデス・ベンツ製のマウンテンバイク』だったそうだ。
「玄関前に止めてあった高そうなマウンテンはそれだったのか」
「そう。でも僕はお気に入りの時計があるから、これはファラオにあげるよ」
「本当にいいのか?」
「いいよ。引き出しの中で眠っているよりはずっといいだろうし、欲しい人に使ってもらえれば時計も本望だろう」
「そうか、では!」
包みを開けるファラオの顔が綻ぶ。
前々から欲しかったが値段が値段の為になかなか踏ん切れず、ずっと憧れの商品となっていたのだ。
「タグ・ホイヤー…リンクキャリバー36だ……」
地中海の太陽のようなファラオの笑顔。浅黒い顔をやや紅潮させ、銀色の時計を目の前に掲げてじっくりと眺める。
ああ、雑誌の中で、テレビの中で輝いていたあの時計が、今自分の手の中にある!
憧れていたあの重量が、今目の前にあるなんて!
だめだ、胸がドキドキする、呼吸が定まらない!
「お前からこれをもらうとはな!嬉しいぞ!恩にきる!」
こんなに喜んでいるファラオを見るのは初めてなオルフェ。彼は全く笑顔を崩さない。
「喜んでもらえて僕も嬉しいよ。で、ファラオ。すまないが君に頼みたい事があるんだ」
「頼みごと?」
オルフェの言葉を聞き、まるで砂浜から波が引くようにファラオの顔から笑みが消えた。
「そう、頼みごと。でも大した事じゃない」
居候聖闘士は相変わらずニコニコしている。だがその笑顔が、ファラオには不気味に映った。
この男がこんな顔をする時は、大抵冥界の人間をはめる事を考えているのだ。
オルフェはファラオが全身で警戒しているのを察すると、軽く肩を竦めた。
「疑われたものだな。君が考えているような事はないよ」
「貴様の場合、前歴が前歴だ!!」
「まいったな」
ため息を付いたオルフェは、ファラオの目の前に置いてあった時計の箱をスッと自分の方へ引き寄せる。
「じゃ、僕の事を疑っているのではこれも無しだね。もしかしたらこれにトラップが仕掛けてあるかも知れないだろう?時計仕掛けのオレンジならぬ、爆弾仕掛けのタグ・ホイザーなんて」
その目。明らかに計算づくのその目。ファラオが時計を諦められないと踏んでいる、目。
「ああ、非常に残念だよ」
声音だけは非常に誠実なのが、この男のなんともイヤなところである。
ファラオはぎりぎりと唇を噛む。欲しい、ものすごく欲しい・・・。
タグ・ホイヤーのリンクキャリバー36は、日本円にして70万円。
一生懸命お小遣いをためても、なかなか手の届く金額ではない。
「さて、オークションにでも流すか」
タグ・ホイヤーを丁寧に梱包し、紙袋の中にしまいこむオルフェ。そして滑らかな動きで席を立ち、
「食事中悪かったね」
ひらひらと手を振りつつテラスから降りる。
その間、じっとオルフェの手の動きを眺めているファラオ。
ああ、憧れの品が、あんなに欲しかった憧れの品が、自分の物になるはずだった憧れの品が!!
欲しい、欲しい、欲しい!そうだ、用件を聞いてやろう、そうすれば手に入る!
だがそれと同時に、ファラオの頭の中では「このままオルフェに返してしまえ」と警鐘が鳴っている。
鐘の音は最大音量。
作品名:バー・セロニアスへようこそ 前編 作家名:あまみ