バー・セロニアスへようこそ 後編
午後9時30分
……以上のことを一瞬で思い出したシュラは、あの冥闘士が今夜ここにいるのは、聖域から冥界に出向している不良音楽家聖闘士のせいであると見抜いた。
今日は給料日でたくさんの聖闘士が店にやってくると読んだのであろう。
その読みは、悲しいくらいに正しかった。
『……あいつも気の毒だから、そっとしておいてやるか……』
隣の席のカミュに目配せする。
カミュもシュラの考えていることが理解できたようで、憐憫の情のこもった表情でうなずいた。
だが勝手に通じ合うシュラとカミュの姿は、ミロからすれば自分を除け者にしているようであまり気分の良いものではない。
「おい、お前ら。何二人で納得してんだよ」
ミロの突っかかりにもカミュはクールさを保ったまま、
「世の中には色々と大変な事が存在するという話だ。そして我々にできるのは、ただでさえ負担のかかっている人間をこれ以上苦しめないという事だな」
ひどく抽象的な物言いになってしまったが、相手の立場を考えるとこの程度が限界であった。
……いや、普段のカミュならばもう少し上手に言ってのけたのかも知れないが、やはりアルコールが回っているためかいつもより頭の回転が鈍っていた。
シュラは煙草を吹かしつつ、今夜のギタリストの演奏に耳を傾ける。
彼も音を武器とする戦士なのだろう。オルフェまでとは言わないが、彼もかなりの技量の持ち主だ。
「……悪くないな」
少しチップを渡してやるかとシュラが席を立つと。
頭に完全に血が上った様子のミロが、ガン!と両拳をテーブルに叩き付けて、カミュに何やら八つ当たりしている。
「お前らはいつもそうだ!お前らはいっつも俺をハブる!」
激昂したミロの言葉。
シュラもカミュも場の空気を読んだだけなのだが、そのような行為が苦手なミロにとっては、彼らの無言の会話は自分を置き去りにしているようで全く面白くないようなのだ。
「お前らだけじゃねぇな。他の連中もそうだ。勝手に納得して、話を進めていって。ムウや老師なんて特にそうだろう!俺が海底神殿に乗り込むって言った時も、難癖つけてストップかけるしよぉー。お前らとサガがシャカをアテナエクスクラメーションでぶっ殺したから、天蠍宮から敵討ちに出向けば、ムウからは『勝手に出て来たのか』とか言われるしよぉ、俺ってすげー可哀想じゃね?」
「しかしミロ、どれにも事情はあっただろう」
「ならどうして、俺に言わねぇんだよ!!」
もう完全に駄々っ子になっている。
おもちゃ売り場で泣きわめく子供を見るような視線で同僚を見やったシュラは、財布からユーロ札を引き抜き、本日のギタリストに歩み寄った。
「おい、そこのバイト冥闘士」
黄金聖闘士からそう声をかけられるとは思ってもいなかったファラオは、ビクンと肩を震わせると、手を止めぬまま怖ず怖ずと顔を上げた。
……正体がバレている。その自分に、一体何の用事だ。
黒い瞳には明らかに『怯え』が浮かんでいる。
黄金聖闘士複数では、流石の自分も対処できない。
シュラは苦笑いすると、
「そういう顔をするな。心配するな、何もしない。俺はオルフェが普段ここでバイトをしていることも知っているしな」
「ああ……」
ようやく表情を和らげるファラオ。
「私に何の用事だ」
「チップを渡しに来たのだが」
小さく折り畳んだユーロ札を、ファラオのシャツの胸ポケットにねじ込む。
「……で、リクエストですか?お客さん」
ファラオの黒い目が、微かに光る。シュラは頷くと、
「お前は人を眠らせる曲はできるか?」
「できないことはないが、幻覚を見せる曲の方が得意だ」
「ならば。あそこのテーブルで管巻いている奴をどうにかしてくれ。眠ったらすぐに連れ帰る」
「だが……」
ファラオの手はエマニエル夫人の主題歌を奏で始めている。他の客からリクエストがあったのだ。
「一応相手は仮にも黄金聖闘士だろう。私の技が通用するのか?」
下手に聖闘士に手を出して、返り討ちに合うのは真っ平ご免だ。
するとシュラはやや目を細めて、自分たちのテーブルを眺める。
「カミュと俺でどうにかする。とにかく頼む」
ファラオのポケットに更にユーロ札を突っ込み、元の席に戻っていってしまった。
「おい、待て!」
ファラオが呼んでも全く応じず、シュラはさっさと椅子に座ると新しい煙草に火をつけ一服し始めた。
「……ったく」
チッと舌打ちするファラオ。
今の奴といい、今日のバイトを押し付けた奴といい、どうして聖闘士ってのは人の話を聞かないのだか。
しかし、ユーロ札を受け取ってしまった以上、何もしないでいたら……
あのテーブルの黄金聖闘士たちに半殺しにされたり、氷漬けにされたりするような気もする……。
『ええい、ままよ!!』
エマニエル夫人の演奏を終えたファラオは、弦を弾く指に静かに小宇宙を込める。
作品名:バー・セロニアスへようこそ 後編 作家名:あまみ