振り返れば奴がいる 前編
「アイオリアがね……」
長い睫毛を伏せ、含むところがあるように独語するアフロディーテ。
その日の夜、白羊宮の夕食の席に魚座の美しい聖闘士も同席していた。
別に白羊宮に食事をせびりにきたわけではない。
アフロディーテはマルチリンガルな上に見栄えも良い事から、出張やアテナ護衛(黄金聖闘士の中では強い方ではないが)の仕事が多く、また彼に資金を提供してくれるパトロンも相当数存在するので、収入面では黄金聖闘士随一を誇っている。
そうでなければ、フェラーリの維持などできやしない。
ではそのアフロディーテが何故に白羊宮で食事を摂っているのか。
最近彼はムウの依頼で貴鬼に英語を教えており、講義の後はレッスン料としてムウが夕食を用意してくれているのだ。
ムウも意思の疎通は出来、英字新聞を読める程度の英語力はあるのだが、教えるほど得意なわけではない。
そこで、黄金聖闘士の中で一番英語が達者なアフロディーテに白羽の矢を立てたのであった。
ムウはアフロディーテの言葉に何か引っかかるものを感じたのか、
「アイオリアが参観すると、何か不都合があるのですか?」
「いや、日本語ができないという点を除けば、アイオリアは適任だと思うけれど」
サラダのホワイトアスパラガスをフォークに刺すアフロディーテ。
わりとはっきり物を言う彼には珍しく、どうにも歯切れの悪い言い方だ。
「お前のその口ぶりでは、何か重大な欠点がこの案にあるようだが」
シオンも気になったのか、美しい聖闘士に問う。
アフロディーテははじめ綺麗な色合いの瞳を泳がせていたが、羊師弟の視線に耐えられなかったのか、意を決したように頷くと、今度ははっきりと言った。
「アイオリアはあの雑兵服以外のワードローブを持っているのでしょうか?」
「!!」
指摘を受け、固まるムウとシオン。
貴鬼は不思議そうな顔で、保護者たちのリアクションを眺めている。
「ムウ様、シオン様、どうしちゃったんですか?」
その声を受けたムウは翡翠色の目を弟子に向けると、
「貴鬼、アイオリアが雑兵服と聖衣以外の服を着ていた記憶がありますか?」
「うーん……」
考え込む貴鬼。そういえば、あったっけ?
「うーん……一回だけ黒ジャージを着ていたのを見たことがあったような……」
「……アイオリアはそれくらいしか服を持っていませんからね」
「それなんだよね」
アフロディーテは身なりに細心の注意を払う任務が多いので、アイオリアのワードローブが気になって仕方なかったらしい。
「彼はいつもハイセンスなあの服だろう?さすがにアレでは、学校に行けないだろうと思うのだけど」
「そうですねぇ」
アイオリア本人は拘らないかも知れないが、あの格好で参観に来られたら星矢が可哀想である。
「……とにかく、アイオリアに言ってそれなりの服を用意した方がいいと思うのだけどね、私は」
「お前の申す通りだな、アフロディーテ」
シオンの表情が沈んでいる。
そうだ。アイオリアには服がない。
ミロはああ見えてもファッションにはうるさい方なので、フォーマルからカジュアルまで色々所有している。
センスは悪くなく、いつもミロにキツい言葉を投げかけているムウですら、
「一般の方の身なりをして、普通にしていれば女性にモテるでしょうねぇ」
と評するくらいにオシャレだ。
しかしアイオリアであるが……無骨なアイオロスの弟と言うべきなのか、戦う事、体を鍛える事に重きを置いていると言うべきなのか。
服装に全くこだわらなかった。
街に出る際は辛うじて黒のプレイボーイのジャージであるが、聖域内にいる時はいつも、いつもいつもあのハイセンスな雑兵服なのである。
ムウもジャミール服にエプロンが多いが、東京に出向いたり、市内に買い出しに出る事も多いため、一応普通の服も持っている。
シオンと同居し始めた頃、フォーマルの上下を師に仕立ててもらったので、少々格式張った場所での任務も困らない。
けれども生来の性格が災いしてかアイオリアにはそのような任務は回ってこず、故に服を必要とする機会もなかった。
「……アイオリアはそれに気付いていないのではないかな?早く何か言わないと、彼の事だ。ジャージで行事に出るよ」
アフロディーテの物言いは、まるでテレビのコメンテーターのようであった。
ムウはコップの水で口の中を潤す。
「そこは早々に確認しないとダメでしょうねぇ」
アイオリアが恥をかこうが何をしようが、ムウは一向に構わない。
けれどもそれで星矢が恥ずかしい思いをするのは可哀想であるし、恥ずかしい格好をしたアイオリアが参観に来たとアテナの耳に入れば、アイオリアを派遣した教皇シオンの責任問題にもなりかねない。
……それだけは、避けたい。
「アフロディーテ、よろしけれ……」
「ああ、私は明日から二週間バカンスだ」
ムウの言葉を遮るアフロディーテ。ムウの考えなど、アフロディーテはとっくに読んでいた。
アイオリアの服の見立てなど、真っ平ご免だ。
「アイオリアの服をどうにかして頂きたかったのですが、ダメですか?」
「ダメも何も。私はバカンスなんだって。ここのところ、ずっとアテナのボディーガードを務めていたんだよ?少しは羽を伸ばさせてくれないかな?」
もう人のお守りはイヤだと、言外にアフロディーテは訴えていた。
それを聞いてしまった羊師弟は、押し切れなくなってしまう。
アテナの護衛がどれだけハードワークなのか。
『あの』シャカが真っ青な顔で『アテナの供をしていた件については何も語りたくない』とぼやいていたくらいなので、推して知るべしである。
「私以外にも服に拘っている人間はいるから、そっちに話を持っていって欲しいな」
「……仕方あるまいな」
箸を置き、しばらく考えるシオン。
「彼奴のせいでアイオリアが不憫な少年時代を過ごしてしまった故、彼奴に頼むとする」
「彼奴?」
同僚たちの私服を思い出しつつ、睫毛の長い瞳を瞬きさせるムウ。
アフロディーテはいつもファッション誌のモデルのようだ。
ミロも結構オシャレである。
デスマスクはイタリア人だけあって、そのセンスは流石と言うべきだ。
「……ミロかデスマスクですか?シオン様」
「ミロは昨日からシベリアだ。それに、だ。デスマスクが真面目にアイオリアの服を選ぶと思うか?」
「思いません!」
ムウ、貴鬼、アフロディーテの三人で唱和する。流石のシオンも、それには噴きそうになった。
「ははは。まぁよい。その辺は私も理解しておる故、しかるべき人間にアイオリアの服の件は頼む」
「私はやりませんよ、教皇。休みたいのです」
アフロディーテの秀麗な顔には、『必死』の文字が朱書きされている。
今回の護衛はかなりキツかったのだ。しばらくゆっくり休養したいのだ!
部下の必死さに、シオンは困ったように笑う。
「安心せい。私とて休暇中の人間に用事を頼むほど鬼であらぬわ」
「信じていますよ、教皇」
「わかった、わかった」
「ならば安心しました」
食事を続けるアフロディーテ。
今日の夕飯は、スープチャーハンに海鮮サラダ。
ムウの中華料理は老師仕込みなので、味も見た目も素晴らしい。
「……ムウ」
「何でしょう、アフロディーテ」
「君、本当に聖闘士だよね?」
作品名:振り返れば奴がいる 前編 作家名:あまみ