振り返れば奴がいる 前編
その翌日。
アテネ市内の洋服店の駐車場に、一台のガンメタのベンツが停まっていた。
少々値の張りそうなこのベンツ、双子座のサガの愛車である。
話によると、偽教皇時代に買った株が大当たりしたので、その儲けで購入したらしい。
そのベンツが何故こんなところに停まっているのか。
サガがアイオリアを伴い、買い物に訪れているのだ。
「サガ、何故こんな堅苦しい服を買う必要があるんだ?星矢の成長を見に行くだけなんだぞ?」
試着室で白いワイシャツに袖を通したアイオリアが、不満げに呟く。
サガは生のコーヒー豆を噛み潰したような表情で、
「お前もTPOをわきまえた服装をしろと言うのだ。学校の公式行事にジャージで行くヤツがいるか」
「だが、あまり堅苦しくない格好でいいと星矢に聞いたが」
「……何事にも、限度というものがある」
サガは胃の辺りがしくしく痛むのを感じる。
アイオリアは逆賊アイオロスの弟として、辛い少年時代を過ごしていた。
シオン在命中に黄金聖衣を拝領していたので、周りからは黄金聖闘士としてそれなりの扱いを受けていたが、陰では逆賊の弟と散々蔑まれていた。
周囲の人間の負の言葉や視線は、真っ直ぐな少年の心を知らず知らずのうちに蝕んでたのだろう。
気が付けばアイオリアは、『いいヤツなんだけど、好漢なんだけど、どっかヅレてる』男になっていた。
それを知ったアイオロスはえらく落胆していたが、その飲みの席に付き合っていたサガは、
「弟の事情も知らずにいきなり『死ね』言うお前も、かなり大概だぞ」
と言いたかった。
しかしそれを言ってしまうと、シオン教皇を殺した自分に話が向けられ、結果墓穴を掘ってしまうことが目に見えているので、サガはスコッチと共にその言葉を胃に流し込んだ。
それはともかく。
……サガが今回アイオリアの服選びに付き添っているのはシオンの命令もあったが、サガなりに贖罪の気持ちがあったからだったりもする。
アイオリアに大人のTPOを教えるのは、元来兄のアイオロスの役割だったかも知れないが、彼はサガの乱により落命してしまう。
『ならばせめて、アイオロスの代わりに世話を焼いてやろう』
サガは自分の弟の服を選ぶように、親身になってアイオリアの面倒を見てやっていたのであった。
「どうだ、アイオリア」
「少し肩の周りがキツいな」
「お前は無駄に筋肉があるからな。もうワンサイズ上のものを出してもらって、それを少し直すか」
真剣にアイオリアのスーツを吟味するサガ。
初めてのスーツなのだ。それなりのものを選んでやらないと。
「お客様、ズボンはどれくらい裾を上げられますか?」
「そうだな……5センチほど上げてくれ」
「かしこまりました」
あまり乗り気でないアイオリアをよそに、テキパキと事が運んでいく。
アイオリアはまるで着せ替え人形だ!と少々機嫌を損ねていたが、サガは苦笑いするだけに留めた。
「お前の服なのだぞ。お前に着せなくては、始まらない」
「それもそうだが、何回も着替えるのではな」
やや疲れた様子のアイオリア。
慣れない事をやっているので、やはりしんどいらしい。
着替え程度でこのていたらくでは、オーダーメイドのスーツなど到底無理だなと、サガは思う。
下着姿に近い格好になり、赤の他人に全身を採寸されるなんてことになったら、アイオリアは多分、恐らく、きっと、発狂寸前まで行くのではないか。
『無意識のうちに相手を殴っていそうだよな』
洋服屋にとって最悪な客になること請け合いである。
取り敢えず今日は、着回しの効く黒のフォーマルスーツ一式。
冠婚葬祭にマルチに使える便利な一着と、グレーのスーツ、そして茶色のジャケット、薄手のベージュのトレンチコートを買った。
ブランドものではなく、一般の衣料品店で売られている代物なので、一着一着は大した値段ではないのだが、これだけ買うと結構値が張る。
けれどもサガはあまり気にならなかった。
今回の支払いはシオン名義のクレジットカードなのだ。
後ほどシオンがその支払額を確認し、アイオリアの給料から天引きする。
荷物をトランクケースに積み込み、聖域へベンツを向けるサガ。アイオリアは助手席で、
「別に、車を使う必要はなかったのではないか?」
「たまには使わないと、バッテリーが上がる」
だったら車など持っていなければいいのにとアイオリアは思うのだが、アテナを迎えに行く時や、テレポーテーションを使えない人間と出かける場合に車がないと不便なのだと、サガは言う。
「たまにアテナの家の執事も来るだろう」
「ああ、あの髪のない男か」
ソロ邸で護衛をした際に会っているが、アイオリアの印象はあまり良くなかった。
ほとんど面識のない自分にぞんざいな口を利いてくるような男だ。
細かいことを気にするのは男らしくないが、それでも辰巳の言動は、アイオリアの心にあまり好ましくない印象を残した。
アイオリアは日中は闘技場に出ていることが多いので、辰巳と顔を合わせる機会はほとんどないが、もし会ったとしたら、あからさまにイヤな表情をしそうだ。
サガはハンドルを握りつつ小さなため息をつくと、
「お前は本当、アイオロスの弟だよな」
「どういう意味だ?」
アイオリアがその言葉を聞き咎めてサガを見やると、
サガの端正な口元には苦笑いとも微笑みとも取れる薄い笑いが浮かんでいる。
「サガ?」
くっきりした目を瞬きさせるアイオリア。
サガは更に唇を緩めると、
「お前は真っ直ぐだってことだ」
よくも悪くもな。
口の中でそう付け加えて、ゆっくりとアクセルを踏み込むサガ。
ベンツの加速は、恐ろしいほど静かで滑らかである。
『次もベンツにしよう』
大して乗りもしないのに、そんなことを考えるサガであった。
作品名:振り返れば奴がいる 前編 作家名:あまみ