CoC:バートンライト奇譚 『猿夢』 中
4、無人駅と幼女
バリツの意識は急激に回復した。
深く暗い水底から、一気に地表へと引き戻されたかのようだ。
荒い息をつきながら、周囲を見渡そうとして、周囲のまぶしさに目を細める。
とはいえ、周りが極端に明るかったわけではなかったが――数え切れない時を、暗闇の中で過ごした後のようだった。
自分が今一度、電車の座席に腰掛けていることに気づいた。
とはいえ、塵芥川と分かれた後に乗り込んだ電車ではない。
遊園地のアトラクションめいたそれと同じだ。
(夢から醒めたのではないのか?)
バリツは戦慄するが、様子があの時とは異なっていることをすぐに把握した。
体は動き、手と指は思い通りに応えてくれる。
立ち上がり、車内を見渡すと、バラバラの座席に、見覚えのある姿があった。
怪訝な顔つきで周囲を伺うバニラ。
青ざめた顔で、座席から立ち上がれずにいるタン。
それぞれの困惑を胸にした二人と、バリツは視線を交錯させる。
「……斉藤君は?」
疑問に答えるかのように、通路の突き当たりの扉が開き、前方車両から斉藤が慌しく現れる。
「おーい! 皆、無事だったか?」
「斉藤君! 大丈夫だったのかね?」
「ああ! びっくりしたけどよ。猿達はやはり、俺の友達だったぜ」
「んー、いやちょっと待って。斉藤」
バニラが斉藤を相手に身構える。
「斉藤。君が猿達に担がれて、電車を抜け出した所を見た。猿に俺たちを売り払おう……なんて魂胆じゃないよね?」
あの時は姿を視認できなかったが、バリツと同じく、バニラも全容を俯瞰していたようだ。
バリツは、尾取村での怪異を共に乗り越え、その後も交流を保ってきた斉藤を信頼していた。少なくとも、そうありたいと心の底から願っていた。
だが、自分達と知り合って間もないバニラの反応も、自然であると認めざるを得なかった。
「あー……まあそう思うのも無理はないのか」
斉藤は言葉を選んでいたように見えたが、答える。
「猿アンド、お前達。みんなの味方……というのはダメだろうか?」
バニラがバリツに視線を送ってきたのがわかった。
その目が言わんとすることは、簡単に分かった。
――信頼して良いのかい?
バリツは頷いた。
「バニラ君。斉藤君は共に怪異を乗り越えた仲だ。信用していい」
「ま、まあ、せやな」
「んー……まあ今は疑っても仕方ないね。すまない斉藤」
「いいってことよ。バリツ、ありがとな」
「気にすることはないさ」
誰からともなく、一同は車窓に目を遣る。そこに暗黒の深淵はなかった。
自分達の電車が、駅のホームに停車していることがわかった。
数刻見るだけでわかるほど、ひどく寂れたホームだ。
車内から空は見えなかったが、外は仄かに明るかった。
嫌な静けさを伴った、激しい雷雨の前であるかのように。
「一体どこに来ちまったんや……」
「とにかく皆、降りようぜ」
語るなり、斉藤は先陣を切るように電車から降りる。
「私も続こう」
「そうだね」
「ま、待ってや。ちょっとまだ例のアレのショックが……」
「無理もないが……ここにいても仕方がないぞ。タン君」
タンは腰が抜けたかのように立てない様子だったが、バリツは彼を支え、半強制的に立ち上がらせる。
この電車に乗っていると、とんでもないことが起こる……そんな予感がしたのだ。
予感に答えるかのように、電車から降りた途端、かのチャイム音。
そして、車内を流れる不気味なアナウンスが、仕切りのない窓越しにはっきりと聞こえてきた。激しいノイズを伴って。
「次は~……ガガ……おしまい、です。「『おしまい』……ガー……でス」
最後は大げさなスローモーションめいた、ゾッとするほどの野太い声。
のっそりと進行した電車が、ホームから離れていくのを見守らずにはいられなかった。
悪夢のショーを満載した乗り物は離れゆき、後には沈黙が降りる。
もしあのまま乗っていたら……? 考えるだけでも、おぞましかった。
線路を隔てた先には、反対側のホームはなく、横一面に雑木林が広がっている。
枝葉は所狭しと、信じがたいほどの広さで生い茂り、線路の上まで覆っていた。空の様子はハッキリとは見えないが、晴れてはいないようだ。
だが、少なくとも夜ではないように思えた。
ホーム内は、ところどころに明りが薄く灯り、見渡すことに差し障りはなかった。
真正面には、駅構内に続く入り口がある。
昭和の建築を思わせる、木造の概観だ。
「ホントどこやねんここ……」
「どこかの田舎駅だろうか? ……現在地を確認してみよう」
バリツは懐からスマホを取り出すが、すぐに異変に気づいた。
電源が落ちている。先ほどまでは、少なくとも半分以上のバッテリーはあったはずなのに、だ。
作動を試みるも、電源が入る様子はなかった。
「どういうことだ?」
「所長、俺のスマホもダメや」
「また厄介なことになったものだな……斉藤君は?」
「俺はそもそもスマホ忘れてたぜ!」
「あ、うん……」
ふと見やると、バニラが懐から取り出したのだろうデジタルカメラで、周囲の撮影を開始していた。怪異の証拠を残す、抜かりのない姿だ。
それにしても、スマホが沈黙している状況下で、何故彼のデジタルカメラの電源は生きているのだろうか――?
「うへえ何や、これ」
タンの声に振り向くと、彼は雑誌の切れ端のようなものを拾い上げていた。
それは赤黒い何かに、びっしりと覆われていた。
「血がついてるんか? 87ページっての以外読めへん……」
タンは近寄ってきたバニラに、その切れ端を見せる。
「あのさ、おまえさんの写真術で何とかならん?」
「君は何を言っているんだい……」
「タン君、この血を落すのに写真術は関係ないと思うぞ。それにしても周囲にゴミはないのに、その切れ端だけはあるというのは気がかりだな……」
「教授の言うとおりだね。血は乾いているみたいだけど……」
「まあ、よくわかんけど、いちおう持っておくで。バッチイけどさ……」
愚痴りながらも、タンはそれを畳み、ズボンのポケットに挿し込む。
その時、ホームの壁に向き合っていた斉藤が声を上げる。
「皆、こいつを見てくれ」
斉藤の指差す先に、ひどく文字の薄れた掲示板があった。
掲示板の塗装は剥がれ、色合いは、風化しつつある壁との境目があいまいになっていた。斉藤の指摘がなければ、見落としていた可能性もあったかもしれない。
駅名の看板を見やる……『き さ ぎ 駅』。
『さ』と『ぎ』の間は真っ黒に汚れて読めなかったが、どうやら文字が一つ入るようだ。
すぐ真下に、時刻表と思しき紙。汚れておりほとんど読めなかったが、元より発着する電車はそう多くないようだった。
そして、唯一、紙の下方にて、読み取れる文字が伺えた。
『普 1 :00』 『さ :30』
「どういう意味だ……?」
バリツは首をかしげる。
これだけでは、いつ、どの電車が来るというのか、わからなかった。
「後で何かのヒントになるかもしれないね」
言いながらバニラは、一連の掲示物も、カメラに収める。
作品名:CoC:バートンライト奇譚 『猿夢』 中 作家名:炬善(ごぜん)