CoC:バートンライト奇譚 『猿夢』 下
8、差し迫る死
幼女が待つホームに至るには、20メートル以上といったところか。
バリツの背後で、甲高い叫び声と、チェーンソーめいた機械音の、けたたましい大合唱が始まる。
捕まれば無事では到底すむまい!
にわかには信じがたいことが、唐突に起きた。
先頭を切って駆け出したバニラが、目の前で足を滑らせ、激しく転倒したのだ。
「何だと?!」
バリツは一瞬躊躇ったが、足に力を込めて無理やり立ち止まり、バニラに駆け寄る。
斉藤も釣られて踏みとどまりかけるのをみて、バリツは叫んだ。
全滅だけは避けねばならない。
「あの幼女を頼む!」
「任せろバリツー! 死ぬな!!」
(にしても気のせいだろうか。タン君だけわき目もふらず逃げてってるのは……)
巨体を揺らしながら駆ける助手。逞しいフォームでそれに続く陶芸家。
ホームへかけていく二人を見届け、バニラを助け起こす。
「私だけ逃げるというのは、性に合わぬのでね……!」
「助手はスタコラ逃げてってるみたいだけど」
「ぅ~~~~ッ! ……よ、幼女を託しただけのことさ!」
ちらりと振り返る。血相を変えた猿たちが、肉咲き機、挽き肉マシンともいうべき器具を手に、次から次へと追いかけてくる。猿達の見た目は、やはり「エリック」以上に、サイボーグというべき存在に近しい姿だ。ゾッとするようなフォルムであるが、最大の恐ろしさは、その数であった。
一匹、二匹、ああ、あそこにも。ああもはや何匹だ?
最低でも20匹はいよう。だが、更に増えかねない!
バニラを助け起こすなり走り出そうとしたが、その数を前に一瞬足がすくんでしまい、出遅れた。
バニラも転倒の衝撃からか、ほぼ同様の状況だ。
今から駆け出しても、恐らく背中をとられてしまうだろう!
改札と駅長室の間には柱や、積み重ねられた木箱があり、隠れたことで走っていったと誤認させられる可能性もあった。
だが、もはや猿たちが目の前に迫ったこの状況では、容易なことではない。
「ここが俺の死に場所か――!」
つい一人称が変わってしまうほどの、差し迫った危険だ。
その時、隣のバニラが脱兎の如く柱に駆け寄ると、高く詰まれていた木箱をひっぱり倒した。
自分達と猿の間に遮蔽物を作るような格好だ。
ところが猿達は一瞬ひるんだものの、意に介さない。
崩れたガラクタの一つが目に留まり、バリツは反射的にそれを拾い上げた。
それはひとつの杖。
柄こそ薄れているものの、つくりは明白に頑丈な代物だ。
立ち止まった猿たちを前に、バリツは仁王立ちする。
バリツは、奇しくも自身と同じ名前を持つ格闘技――マーシャルアーツ「バリツ」の心得を有していた。かのシャーロック・ホームズが身につけ、ライヘンバッハでの死闘を生き延びたという護身術だ。
尤も、彼がその後継者を自称するインストラクターから習ったのはもう10年も前だが。それ以降は執務室で、時折ストレッチがてら型をやったり、杖を振る程度であるが。そもそも実戦経験もほぼ皆無だが。
ともあれ、ただ黙って死ぬのだけは、真っ平ごめんであった。
「――このバリツを舐めるな!」
声を張り上げ、威嚇しようと杖をヌンチャクさながらに勇猛に振るってみせる。
猿達が一瞬、警戒し、身構えるのが分かった。
一瞬勝ち誇った気持ちのバリツであった。
ところが、どうやら薄いベニヤ板に足を乗っけてしまったらしい。
そのまま足を滑らせ、背中から地面にすっころんだ。
「んなあああッっ、ぐはぁ!!??」
この肝心なときに!
地面を強打した衝撃の中、焦燥が身の内から湧き上がる。
喚きまくる猿が迫る。唸りをあげる殺戮機械が迫る。
死が迫る!
「ヘイ!!」
バニラの叫び声。
一瞬の大きな光が、視界を白く塗りつぶした。
カメラのフラッシュだ。
小型のデジタルカメラにしては異常な光量だ。非常時に備え、自身のカメラに、改造を施していたというのだろうか。
その眩さに、猿達が苦悶の叫びを上げ、バリツの顔面のすぐ側を、マシンが過ぎった。間一髪だ。
「バリツ!」
今度はバリツがバニラに助け起こされる番だった。
心境の変化があったのか。バニラの「教授」呼びも、いつの間にか皆と同じ「バリツ」だ。
弾かれたように、二人の男は悪夢の群れから逃れんと駆け出す。
隣のバニラも、焦りは明白だ。恐らく、カメラのフラッシュはもはや通用しない。
駅のホームは、無人の改札の先。
斉藤とタンは、先に到達しているようだ。
ところが、かの看板を有していた幼女が動き出している気配はない。
ただならぬ気配のあの幼女。
しかしながら、この非常事態に頼るのは、あまりに期待が過ぎたのか!?
思考にちらついた絶望を振り払おうとするかのように、バリツは速度を上げようとする。
だが、人間の膂力は、どこまでも人間の膂力だ。
猿達の気配も、殺戮マシンの気配も、どんどん距離を縮めてくる。
――その時だ。
世界の反転。一瞬の無重力。
体がふわりと、乱雑に浮き上がった感覚。
巨大な何かにつかまれたような、感覚。
(猿達に、捉えられた!!?)
続いて体が地面に叩きつけられる。
死! 死――! 挽き肉――!
バリツは悲鳴を上げた。
作品名:CoC:バートンライト奇譚 『猿夢』 下 作家名:炬善(ごぜん)