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BLUE MOMENT16

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BLUE MOMENT 16


 閉まった扉から手が滑り落ちた。ふらつく足で後退って、何が起こったのかを考えようとした途端、膝から力が抜けた。
「ぁ…………っ、ぅ、あぁ……ぁ……」
 何がなんだかわからなくて、言葉ではない音が口から漏れた。
(なんで……?)
 俺は、何を間違った?
 俺は、アーチャーに何をしたんだ?
 わけがわからなくて、頭を抱えた。そんなことをしても答えは得られず、そのままうずくまって、拳で床を打ち続けていた。
(どうして、俺は……間違えてしまうんだ……っ!)
 二度と、アーチャーを見ることができない。もう言葉を交わすこともできない。触れることも、その熱を感じることも、アーチャーが俺を呼ぶことも……、ない。
「ぅ、……ぅ、っ……、うぅ……」
 唸っていたらどうにかなるわけじゃないけど、床に何度か拳と額を打ち付けて、その痛みでこの苦しさを紛らせたかった。

 どのくらいうずくまっていたのか、身体があちこち痛んできたから、そのまま横倒しになる。硬い床は寝転がるには不向きだけど、立ち上がる気もしないから、そのままぼーっとしていた。
 とりあえず、俺の不手際を見つけようと思って、いろいろ思い返したけれど、どれもこれもが間違いな気がして、これといった原因に辿り着けない。
 だったらアーチャーの言動を思い出してみればいいと思って、アーチャーと交わした言葉を思い出してみる。だけど、考えることにも疲れてきてしまって、ただ単にアーチャーとの記憶を思い出しているだけだ。
 殺気を山ほどぶつけられた。
 殺すとはっきり言われた。
 消し去ってやると吐き捨てられた。
 理想を抱いて死ねと嗤われた。
 お前が倒せと背中を押された。
 俺の腕などどうでもいいと助けられた。
 何を知っているのかと詰め寄られた。
 殺せば胸が空くと嘲笑された。
 宿願が叶うと剣を刺された。
 傷口に歯を立てて肉を食われた。
 俺の過去の抹消を望まなかった。
 冷えきってしまう身体を温めてくれた。
 調子が悪いことに気づいてくれた。
 普通に接しろと気遣われた。
 子供みたいに縋ってきたことがあった。
 甘えていいというようなことを言われた。
 ここで泣けと抱き寄せられた。
 傷つくなと辛そうに吐露された。
 俺のことを知りたいと思われた。
 仲間を敵に回して俺を救ってくれた。
 よく頑張ったと褒められた。
 何度も抱き合った。
 快感を植えつけられた。
 発情していると言われた。
 部屋を追い出された。
 冬木にまで迎えに来てくれた。
 傍にいてくれと望まれた。
 好きだと抱きしめられた。
 恋人になりたいと願われた。
 カルデアでの時間は青の瞬間だと言いきった。
 その瞬間をともに過ごしていたいと言われた。
 なのに……。
 二度と顔(ツラ)を見せるなと怒鳴られた。
「っ、ぅ……、ひっ、ぅ…………」
 なんで俺、泣いてるんだろう。
 アーチャーといた時間がそんなに短くはなかったんだと、今になって気づいている。なのに俺は、アーチャーの言っていることが全然理解できていない。
「……っ、わか……っん、な……ぃ……」
 子供みたいに泣いているしかない。
 アーチャーのことが俺にはわからない。
 わからない。
 わからない。
 なに一つ、わからない……。
 ただわかっているのは、もうアーチャーと時間を共有することはなくなったということだけ。
 アーチャーが例えた青の瞬間(ブルーモーメント)は、もう終わってしまったんだ。日の出、日の入りに関係のない一瞬らしいけど、俺にはもう、ただ日没だけが待っているとしか思えなかった。



*** *** ***

 ガリ、ガリリ、ボリ……、ボリ……。
 空気すら凍っているのかと思える寒さの中で、ガリ、バリ、ボリ、と咀嚼音がくり返されていた。
「はぁ……」
 このように寒い場所で吐かれる息は、さぞ白いのではないだろうか。
 だが、ため息をこぼす唇からは、たいして白い息は出ていない。
 ということは、その者の吐く息は、熱を籠らせていないのだろう。人であれば体温というものがあるのだが、彼は人であるというのに、さほどの熱を持っていないのか、あるいは、吐く息に熱がこもらないほど身体の芯まで冷えきっているのか……。
 琥珀色の瞳は、中空をぼんやりと見ているだけで、意志というものすら感じられない。
「さむ……ぃな……」
 先ほどから吐き出されるのは“さむい”という言葉ばかり。他に言葉を交わす者がいないため、そのような独り言が繰り返し呟かれるのは道理だ。
 ここは、カルデアの修復作業現場。
 はじめは何人かで作業をしていたものの、寒さからか、それとも作業に不得手な者ばかりだからか、今ここで作業をしているのは彼一人だ。
「仕事、しないと……」
 これも繰り返される言葉の一つだ。彼は先ほどから、いや、もう何日か前から、二、三種類の言葉しか発していない。
 手のひらに残る保存食のかけらは口に放り込まれ、テトラパックの栄養ドリンクで流し込まれる。その身体の血肉となるべく、ただ押し込まれていく栄養は、どうにかエネルギーとして使われているようではある。
 しかし、作業用のつなぎの上に防寒具を上下着込んでいるというのに、その身体は芯まで冷えきっている。だからなのか、手も足も油切れのように動きが鈍い。口から入る栄養は、その身体を維持するのが精一杯で、熱を起こすほどのエネルギーにはなれないようだ。それでも、
「……アー、チャー…………」
 掠れて皆目音にはなっていなかったが、想うその名を口ずさめば、いくらか彼の胸は温まる。
 立ち上がり、フラフラと歩いて、少し前まで作業していた脚立の側に戻る。脚立に手をかけて上る途中で裸電球に肩が触れた。
「ぁ…………」
 ぶらぶらと揺れる電球が、いつか見た、理想を追った男の末路と重なる。
「あ…………っ、ぅ……」
 どうして、こんなに苦しいのか。
 どうして、冷え切った頬を伝う雫は温かいのか。
「う……」
 どうして、かたく瞑った瞼に赤い外套が浮かぶのか。
「っ……ふ……、っぅ…………ぅう……っ…………」
 ひとしきり嗚咽を漏らせば、少し楽になる。引き攣る喉を無理やり宥めるように彼は、ふう、と一つため息をこぼした。
(アーチャー……)
 熱いほどの肌が恋しい。
 低く甘い声で名を呼んでほしい。
 欲望がとめどなく溢れてしまって、どうすることもできない。
(苦しい……)
 好きだと想う、たったそれだけだというのに、この感情はなんとも苦しいものだ。
 嗚咽を必死に押さえ込みつつ、彼は厚い手袋をはめた手を眺める。
 切り結んだ重い衝撃、切り裂かれた痛み、何一つ忘れ得ない憧憬。
 こんなにも深く己に刻まれている存在を、彼はもう、視界に入れることもできなくなった。
「アーチャー……」
 囁くように呼んでみる。
 誰に聞き咎められるともしれないために、腹の底から声を絞り出して呼ぶことなどできない。いや、もう、その存在に向けては、絞り出す声も出せない。
 レンチを握りしめ、袖で目元を拭う。防寒具は水気を吸ってはくれず、ゴワゴワしていて擦れた瞼が痛んだ。
作品名:BLUE MOMENT16 作家名:さやけ