その先へ・・・3
(1)
「愛しいヴェーラ。わたしは……」
「エフレム……」
ユスーポフ家の令嬢ヴェーラ・ユスーポワは愛しい男のたくましくも優しい胸にもたれかかり、そっと唇を這わせた。
エフレムと呼ばれた男も、ヴェーラのやわらかな体を抱きしめ、乱れた黒髪にキスを落とす。
まだ熱く愛を交わした名残が互いの体の中にくすぶっていたのだろう。
ヴェーラは顔を上げ、優しくエフレムの頬を包み、潤んだ瞳で見つめる。
ゆっくりと、互いの熱を相手に移すようにくちびるをかさねた。
同じ邸の中にいても、言葉を交わすことはおろか、目を合わすことも許されない二人。
侯爵令嬢でも、使用人でもない、ただの恋人同士として過ごせる時間はどんなものにも変えがたい。
二人はいっそうきつく、互いを抱きしめ合った。
今夜、主であるレオニード・ユスーポフ侯爵は邸を留守にしている。
兄のいない隙を見はからっての二人の束の間の逢瀬。
そんな貴重な夜でも雪は容赦なく降り始め、しかもだんだんと激しく窓に叩きつけてくる。
ガタガタと響く音に反応したのは、エフレムだった。
「吹雪いてまいりました。あの方が怯えているのでは?」
「……ええ、そうね。今夜はおにいさまがいないもの、ね……。行ってやらないと」
名残惜しい想いをエフレムへのキスで心の奥へしまい込み、ヴェーラはゆるゆると起き上がり、乱れた髪をそっと撫でつけた。
白い背中をエフレムの方へ向け、ガウンをはおりながらドレッサーの前に座り、ブラシで豊かな髪をとかす。
そうやって身支度をしていき、ゆっくりと恋人から主家の令嬢へと戻っていく様を見ていると、エフレムは激しい喉の渇きをおぼえる。
すぐ手を伸ばし、またやわらかな体を思う存分抱きしめたい。
渇く喉も、心も、すべてを恋人のぬくもりで潤したい。
使命、任務、思想。
階級や、身分、自分たちに絡みつく何もかもを忘れふたりで行き着く所まで……。
胸に重くのしかかる苦しみを抱え、エフレムも身支度を始めた。
黙っていると、決して言ってはならない事を告白してしまいそうで、話題をユリウスの事へと集中させた。
ユリウスの事は、エフレムにとっても把握しておきたい事の一つだったからだ。
「あの方の記憶は、まだ戻らないのですか?」
「ええ。何も。自分の名前すら思い出せないのよ。なんて可哀そうな」
「……アレクセイ・ミハイロフ、の事も?」
「ええ。自分が命がけで追ってきた恋しい男の名前すら思い出せないのよ。アレクセイ・ミハイロフの事を思い出させせてはいけない。本当の事を教えてはいけない。とおにいさまはおっしゃるのだけど、果たしてそれが良いことなのか、どうなのか」
エフレムは、記憶を失う前のユリウスを思い出した。
この国で『アレクセイ・ミハイロフ』の名を平気で口にする異国から来た少女。
アレクセイと少なからず縁がある身としては接触をしてみようかと何度か思った。
しかし、この少女はあまりにも無防備で侯爵の事も、このロシアという国の事も何も知らなかった。
下手に接触しては自分の身も危うくなりそうに思い、しばらく遠くから様子を伺うだけにした。
アレクセイの恋人だったらしい事から、自分を取り巻く事情を理解し、落ち着いてくればいずれ利用は出来ると思って、同志を通じてアルラウネに連絡をした矢先、彼女は記憶を失ってしまったのだ。
「お気の毒……です、ね」
「……ねえ、エフレム。あなた、伝説の不思議な窓って……信じる?」
「不思議な窓……?」
ヴェーラは 簡単に髪を結いガウンの前をしっかりと止めてエフレムに向かい合う。
「記憶を失う前、ユリウスがリュドミールに話したそうよ。あの子、私たちにはあまり心を開かなかったけれど、リュドミールには心を開いていたのよ」
ヴェーラはそっとエフレムの肩に頭を寄せ、穏やかな声で話し始めた。
「ユリウスの故郷の音楽学校に古い塔があって、その塔には不思議な窓があるそうなの。その窓から下を見下ろした時に初めて出会った女性と運命的な恋に落ちるのだとか」
「なんと……」
「でも、その恋は必ず悲恋に終わるのだそうよ。なんでも『オルフェウスの窓』って言うのですって。オルフェウスとエウリディケの悲恋になぞらえているのでしょうね。ふふ……なんともロマンチックな話じゃない?」
「いかにも、メルヘンの国らしい話ですね」
「これは私の想像なのだけど、たぶんユリウスはその窓でアレクセイ・ミハイロフに会ったのではないかと思うの」
「!」
「その窓で二人は出会い、運命的に恋に落ちた。けれどアレクセイはロシアで地下活動を行う為帰国。ユリウスは危険を冒してまでも彼を追ってロシアへやってきた。けれど反逆者であるアレクセイと、この邸に閉じ込められたユリウスが出会える術も無い。やがてユリウスは偶然とは言え記憶を失いアレクセイの名前すら忘れてしまう。2人の恋は永遠にかなうことは無いのよ。窓の伝説に結び合わされた悲恋にふさわしいと思わないこと?」
エフレムは以前1,2度会った事のあるアレクセイを思い出した。
ちょうど彼がドイツから帰国して間もなくだったと記憶している。
ドミートリィ・ミハイロフの弟として、アルラウネの指導のもと懸命に活動をしていた。
物おじせず、明るく、不思議と人を惹きつける魅力を持った好ましい男だった。
その彼が悲恋のかたわれ、『オルフェウス』だとヴェーラはうっとりと言うのだ。
つくづく、女性というものは『伝説の恋』やら『運命的な悲恋』などという言葉にロマンスを抱いているものだ、と思った。
自分とヴェーラの方こそ、悲恋の要素を多くはらんでいるいるというのに……。
エフレムは自分の肩によりかかるヴェーラをより愛おしく思い、そっと額にキスをおとした。
「……創造の翼がたくましいですね。ヴェーラ」
少し寂しげに笑ったのだが、ヴェーラは気がつくはずもなかった。
まだ少し乱れたままだったエフレムの髪をヴェーラはそっと直した。袖口から覗くほっそりとした手首に、今夜自分がつけた紅いあとを見つけ、心がうずく。
「ねぇ、もしあなたがアレクセイ・ミハイロフであったなら……私を残しロシアへ帰る?」
「えっ?」
「もし私たちがその窓で会っていたとしたら、あなただったらどうしますか?」
「ヴェーラ、私は……」
「答えて。エフレム」
ヴェーラの顔は真剣だった。
アレクセイとユリウスの事を言いたいのではない。自分たちの事を彼女は言いたかったのだ。
侯爵家の令嬢と使用人である男の恋を 兄であるレオニードに露見した時の覚悟をヴェーラは聞きたかったのだ。
エフレムは息を飲んだ。
ただの身分違いの恋ではすまない事をヴェーラは知らない。
真実は決して言えない。彼女に言う位なら、死んだほうがましだと思っている。
「……わたしは……。私がアレクセイなら……」
エフレムは答えられず、視線をヴェーラから外し押し黙ってしまった。
その時、ドアの向こうからヴェーラ付きのメイドが声をかけてきた。
「あの、お嬢様!ユリウス様が、大変でございます。また吹雪の音に動揺されて……」
「愛しいヴェーラ。わたしは……」
「エフレム……」
ユスーポフ家の令嬢ヴェーラ・ユスーポワは愛しい男のたくましくも優しい胸にもたれかかり、そっと唇を這わせた。
エフレムと呼ばれた男も、ヴェーラのやわらかな体を抱きしめ、乱れた黒髪にキスを落とす。
まだ熱く愛を交わした名残が互いの体の中にくすぶっていたのだろう。
ヴェーラは顔を上げ、優しくエフレムの頬を包み、潤んだ瞳で見つめる。
ゆっくりと、互いの熱を相手に移すようにくちびるをかさねた。
同じ邸の中にいても、言葉を交わすことはおろか、目を合わすことも許されない二人。
侯爵令嬢でも、使用人でもない、ただの恋人同士として過ごせる時間はどんなものにも変えがたい。
二人はいっそうきつく、互いを抱きしめ合った。
今夜、主であるレオニード・ユスーポフ侯爵は邸を留守にしている。
兄のいない隙を見はからっての二人の束の間の逢瀬。
そんな貴重な夜でも雪は容赦なく降り始め、しかもだんだんと激しく窓に叩きつけてくる。
ガタガタと響く音に反応したのは、エフレムだった。
「吹雪いてまいりました。あの方が怯えているのでは?」
「……ええ、そうね。今夜はおにいさまがいないもの、ね……。行ってやらないと」
名残惜しい想いをエフレムへのキスで心の奥へしまい込み、ヴェーラはゆるゆると起き上がり、乱れた髪をそっと撫でつけた。
白い背中をエフレムの方へ向け、ガウンをはおりながらドレッサーの前に座り、ブラシで豊かな髪をとかす。
そうやって身支度をしていき、ゆっくりと恋人から主家の令嬢へと戻っていく様を見ていると、エフレムは激しい喉の渇きをおぼえる。
すぐ手を伸ばし、またやわらかな体を思う存分抱きしめたい。
渇く喉も、心も、すべてを恋人のぬくもりで潤したい。
使命、任務、思想。
階級や、身分、自分たちに絡みつく何もかもを忘れふたりで行き着く所まで……。
胸に重くのしかかる苦しみを抱え、エフレムも身支度を始めた。
黙っていると、決して言ってはならない事を告白してしまいそうで、話題をユリウスの事へと集中させた。
ユリウスの事は、エフレムにとっても把握しておきたい事の一つだったからだ。
「あの方の記憶は、まだ戻らないのですか?」
「ええ。何も。自分の名前すら思い出せないのよ。なんて可哀そうな」
「……アレクセイ・ミハイロフ、の事も?」
「ええ。自分が命がけで追ってきた恋しい男の名前すら思い出せないのよ。アレクセイ・ミハイロフの事を思い出させせてはいけない。本当の事を教えてはいけない。とおにいさまはおっしゃるのだけど、果たしてそれが良いことなのか、どうなのか」
エフレムは、記憶を失う前のユリウスを思い出した。
この国で『アレクセイ・ミハイロフ』の名を平気で口にする異国から来た少女。
アレクセイと少なからず縁がある身としては接触をしてみようかと何度か思った。
しかし、この少女はあまりにも無防備で侯爵の事も、このロシアという国の事も何も知らなかった。
下手に接触しては自分の身も危うくなりそうに思い、しばらく遠くから様子を伺うだけにした。
アレクセイの恋人だったらしい事から、自分を取り巻く事情を理解し、落ち着いてくればいずれ利用は出来ると思って、同志を通じてアルラウネに連絡をした矢先、彼女は記憶を失ってしまったのだ。
「お気の毒……です、ね」
「……ねえ、エフレム。あなた、伝説の不思議な窓って……信じる?」
「不思議な窓……?」
ヴェーラは 簡単に髪を結いガウンの前をしっかりと止めてエフレムに向かい合う。
「記憶を失う前、ユリウスがリュドミールに話したそうよ。あの子、私たちにはあまり心を開かなかったけれど、リュドミールには心を開いていたのよ」
ヴェーラはそっとエフレムの肩に頭を寄せ、穏やかな声で話し始めた。
「ユリウスの故郷の音楽学校に古い塔があって、その塔には不思議な窓があるそうなの。その窓から下を見下ろした時に初めて出会った女性と運命的な恋に落ちるのだとか」
「なんと……」
「でも、その恋は必ず悲恋に終わるのだそうよ。なんでも『オルフェウスの窓』って言うのですって。オルフェウスとエウリディケの悲恋になぞらえているのでしょうね。ふふ……なんともロマンチックな話じゃない?」
「いかにも、メルヘンの国らしい話ですね」
「これは私の想像なのだけど、たぶんユリウスはその窓でアレクセイ・ミハイロフに会ったのではないかと思うの」
「!」
「その窓で二人は出会い、運命的に恋に落ちた。けれどアレクセイはロシアで地下活動を行う為帰国。ユリウスは危険を冒してまでも彼を追ってロシアへやってきた。けれど反逆者であるアレクセイと、この邸に閉じ込められたユリウスが出会える術も無い。やがてユリウスは偶然とは言え記憶を失いアレクセイの名前すら忘れてしまう。2人の恋は永遠にかなうことは無いのよ。窓の伝説に結び合わされた悲恋にふさわしいと思わないこと?」
エフレムは以前1,2度会った事のあるアレクセイを思い出した。
ちょうど彼がドイツから帰国して間もなくだったと記憶している。
ドミートリィ・ミハイロフの弟として、アルラウネの指導のもと懸命に活動をしていた。
物おじせず、明るく、不思議と人を惹きつける魅力を持った好ましい男だった。
その彼が悲恋のかたわれ、『オルフェウス』だとヴェーラはうっとりと言うのだ。
つくづく、女性というものは『伝説の恋』やら『運命的な悲恋』などという言葉にロマンスを抱いているものだ、と思った。
自分とヴェーラの方こそ、悲恋の要素を多くはらんでいるいるというのに……。
エフレムは自分の肩によりかかるヴェーラをより愛おしく思い、そっと額にキスをおとした。
「……創造の翼がたくましいですね。ヴェーラ」
少し寂しげに笑ったのだが、ヴェーラは気がつくはずもなかった。
まだ少し乱れたままだったエフレムの髪をヴェーラはそっと直した。袖口から覗くほっそりとした手首に、今夜自分がつけた紅いあとを見つけ、心がうずく。
「ねぇ、もしあなたがアレクセイ・ミハイロフであったなら……私を残しロシアへ帰る?」
「えっ?」
「もし私たちがその窓で会っていたとしたら、あなただったらどうしますか?」
「ヴェーラ、私は……」
「答えて。エフレム」
ヴェーラの顔は真剣だった。
アレクセイとユリウスの事を言いたいのではない。自分たちの事を彼女は言いたかったのだ。
侯爵家の令嬢と使用人である男の恋を 兄であるレオニードに露見した時の覚悟をヴェーラは聞きたかったのだ。
エフレムは息を飲んだ。
ただの身分違いの恋ではすまない事をヴェーラは知らない。
真実は決して言えない。彼女に言う位なら、死んだほうがましだと思っている。
「……わたしは……。私がアレクセイなら……」
エフレムは答えられず、視線をヴェーラから外し押し黙ってしまった。
その時、ドアの向こうからヴェーラ付きのメイドが声をかけてきた。
「あの、お嬢様!ユリウス様が、大変でございます。また吹雪の音に動揺されて……」