彼方から 第三部 第三話
イザークを、震えるくらい恐く感じたことも……
アゴルは、娘の返答に対し、強く問い詰めるようなことはしなかったがその後――もう一度、ノリコの療養の最中に、二人きりで街に買い出しに出た折、占ってもらっていた……エイジュのことも一緒に。
今は、その時の占いの結果を、確認したかったに過ぎない。
そう……
自分の為に、確認したかっただけなのだ。
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夜も大分更けた頃……
三階建てのシンプルな造りの、大層大きな屋敷の玄関を、ノックする者が一人……
まだ起きている者がいるのか、一階の、隅の部屋からはまだ、灯りが漏れている。
再び、ノックの音が響く。
灯りの漏れていた部屋の住人がそれに気づき、重い腰を上げた。
――はて……
――こんな夜更けに尋ねて来る者とは……
火を入れたランタンと杖を手に、老人が一人、部屋から出て暗い廊下をエントランスへと歩いてゆく。
広いエントランスへ足を踏み入れた時、もう一度ノックが鳴った。
「はいはい、こんな夜更けにどちら様ですかな」
柔らかい口調と物腰――老人は『こんな夜更けに』と言いながらも、特に警戒する様子も見せずに玄関の扉を開けた。
少し、軋んだ音を立てながら開いてゆく重厚な扉。
少しずつ広がってゆく両開きの扉の隙間から、ひょっこりと、ノックをした人物が顔を覗かせた。
「こんばんわ……ご免なさいね、『こんな夜更け』に」
「………エイジュ? エイジュール・ド・ラクエール! あんたかね!」
にっこりと、小首を傾げた笑みを見せるエイジュ。
老人は驚くもすぐに満面の笑みを浮かべ、扉を大きく開け放った。
「さあさあ、入って入って! 書誌と一緒に手紙が届いたきりだったから、心配しておったんだよ! まぁ、あんたのことだから、大事に至ることはないと思っておったが……」
「フフッ……ありがとう。お邪魔するわね、ダンジエル」
彼女の背中に手を添え、まるで押し込むように屋敷の中へと招き入れる老人。
エイジュからダンジエルと呼ばれた老人は、杖を突いてはいるが背中など曲がってもおらず、足腰も頗る、しっかりしている。
「あんたの部屋は、いつ帰ってきてもいいようにしてあるからの」
「……そんな――気を遣ってくれなくても良いのに……」
暗い廊下、ランタンを掲げて部屋まで先導くれるダンジエル。
彼の言葉に瞳を伏せ、エイジュは少し困ったように言葉を返していた。
「……今夜は、あなた一人? ダンジエル」
ランタンの火から、部屋の明かりへと火を移してくれているダンジエルに、問い掛けるエイジュ。
「ああ、あの二人は今、クレアジータ様のお供をしておってな……クレアジータ様も、あと二日もすれば、中央からお戻りになられると思うが……」
「……そう……」
そう応えながら、荷物を部屋の隅に置き、椅子に腰かけるエイジュの様子を、ダンジエルはそっと伺う。
テーブルに頬杖を突き、当てもなく視線を彷徨わせているエイジュ……
あと二日ほどで戻る予定のクレアジータのことは、あまり、気に留めてはいないように見受けられる。
心……ここに在らず。
そんな印象を受けた。
「何か軽く、口にするかね? エイジュ」
ダンジエルの申し出に、エイジュは少し視線を向けたが、直ぐに軽く首を横に振る。
「いいえ……こんな夜更けに迎え入れてくれただけで十分よ――一人でも大丈夫だから、あなたはもう休んで? ダンジエル」
「…………」
そう言って、いつもの微笑みを見せるエイジュだが、久しぶりに見るその笑顔は『いつもの』とは、少し違うように思える。
ダンジエルは黙したまま、暫しエイジュを見詰め、
「何か……あったのかね?」
そう、訊ねた。
老君の、柔らかで温かみのある問い掛けに、エイジュは一瞬、瞳を大きく見開いた後、寂し気な笑みを返した。
「いいえ、何も……ただ――」
「……ただ?」
「今回の旅はとても楽しくて……名残惜しい旅だった――それだけよ」
「……そうかね……」
「ええ……」
エイジュは一言、そう返した後、組んだ腕をテーブルの上に乗せ、口元を緩めただけの笑みを浮かべると、俯き加減に視線を落としてゆく。
恐らく、その『楽しかった』旅路を思い返しているのだろう――ダンジエルは彼女の物思いに触れぬよう、ランタンを持つと静かに部屋を出て行った。
視界の端に、物音一つ立てずに閉じてゆく扉が見える。
こんな自分に気を遣ってくれるダンジエルに感謝し、エイジュは一つ、溜め息を吐いた。
海を越え、随分と遠く、離れてしまった。
彼らにこれから何があろうと、もう、駆け付けることなど出来ない。
いや、その前に、『何が起こっているのか』知ることも出来ない。
また暫く、自分は必要とされなくなる。
以前、カルコの街の時も、暫くの間、彼らの気配を探るのを止めた。
その時以上に、今はそれが、寂しく、辛い……今回は『探るのを止められている』から、尚更かもしれない。
ふと、胸に違和を感じ、指先を当てる。
抑えられていた『力』が、徐々に戻って来ているのを感じる。
ゆっくりと、体内に沁み入るように行き渡ってゆく『力』。
今度、彼らと会う時――恐らくもっと大きな『力』が必要になる……その為の準備、なのだろう。
また、会える。
そう思えるだけで、口元が綻ぶ。
エイジュは、カーテンの掛かった大きな窓を開け、ベランダへと出た。
手摺りに寄り掛かりながら、満天の星を見上げる。
あの日……野営をした夜――次の日の朝……
ノリコの静養の為に借りた家での、皆との日々。
満開の花々が咲き誇る草原……花冠……
この先、また会えたからと言って、同じように楽しい日々が過ごせるとは限らないが、それでも、心待ちにしてしまう。
彼らと再び会える、その日を……
果てのない星空を見詰め、エイジュは皆に、想いを馳せていた……
第三部 第四話に続く
作品名:彼方から 第三部 第三話 作家名:自分らしく