『掌に絆つないで』第四章(後半)
エピローグ 2019年12月10日更新
[霊界 審判の門]
「コエンマさま~~っ」
「何事だ、騒々しい」
「魔界トーナメントが始まったようですよ!」
「……ぼたん! 今、この状況がわからんのか? ワシはそれどころではないのだ! お前も早く仕事に戻れ!!」
「えっ、あっ、はいっっ、すみませぇ~んっっ!」
山積みになった書類をぶちまける勢いの上司に恐れをなして、ぼたんはあっという間に逃げ去った。
「まったく……っ、忙しい忙しい……っっ」
赤ん坊の姿で愚痴を吐きながら、コエンマは乱暴な仕草で書類に押印する。そして次の作業に移ろうとしたとき、書類の山が崩れて自らに降り注いだ。
それを機に、やってられるかと言わんばかりに机に印鑑を放り出す。
「ふーーっ」
長い吐息のあと、コエンマはぼんやりぼたんの報告を思い返した。
とうとう開催された魔界統一トーナメント。
直前に冥界が絡む大事件が勃発していたなどとは、誰も想像していないだろう。
一連の騒動の間、生きている者たちが故人に翻弄されているのだと思っていた。
だが、実際には逆だったようだ。
コエンマたちが目の当たりにしたのは、自らの運命を受け入れていた死者たち。引き止められようとも、崩れることのなかった強い意志。願いはただひとつ、愛しい者たちの幸福な未来。
幽助たち三人が愛した魂は、彼らと彼らが生きていく世界を心の底から愛していた。だからこそ、葛藤もあったに違いない。生きて、もう一度同じ時間を共有したいと望んだはずだ。
コエンマは掌に鈍い痛みを感じて、それを確認した。
食い込んだ爪の傷痕。それを打ち消すような曲線が縦横に刻まれている。
この掌を這う線たちがさまざまな形を取るように、彼らもそれぞれの形で確かに繋がっていた。
また、会おうぜ。
再び桑原が残した別れの言葉は、以前と同じ再会の約束だった。
「残酷なまでに……優しい約束だな」
呟きながら、コエンマは打ち消しきれない期待に少しだけ頬を緩めた。
[魔界 移動要塞『百足』]
高々と、トーナメント開幕の合図である銅鑼が打ち鳴らされた。
飛影は要塞内部まで響いたその音に耳を傾けながら、躯の部屋の扉を押し開ける。
「ようやく始まったな」
彼を招き入れた躯は、悠長にワインの注がれたグラスを手に持った格好。
大股で躯の傍らに寄ると、飛影はそのグラスを奪い取った。
「その余裕の面、毎度ながら頭にくるぜ」
そう言いながらワインで喉を潤すと、躯が「お前に酒は似合わないな」と笑いながらグラスを奪い返す。
「オレをガキみたいに扱うな」
腰の剣を引き上げ、鞘から数センチだけ刃を見せて、飛影はそれを躯の首に押し当てた。
それでも、躯は表情を崩さない。むしろ、この状況を楽しんでさえいるようだ。
飛影にしても、本気ではなかった。抜刀の意志はなく、ただじゃれ合いの一環だと認識していた。けれど、間近で見る躯の顔を観察しながら、飛影はふと好奇心に似た感情を抱いた。
「躯」
「なんだ、飛影?」
「お前はオレのために死ねるか?」
唐突な問いかけに、躯は黙り込んだ。
いつもの彼女なら茶化してふざけた返答をしてもおかしくないが、真顔で正面から問う飛影の視線を受け、気圧されたように言葉を失くした。
沈黙が訪れても、逸らされることのない紅蓮の瞳。それを見つめ返しながら、躯の薄い唇は一度左右に引き結ばれた後、ゆっくりと上下に動いた。
「オレは誰のためにも死なん」
それから表情を緩めると、ワインの入ったグラスを揺らしながら「お前のために生きるほうがいい」と付け足した。
飛影は剣を押し付けたまま、無表情にその回答を受け取った。
その後「……命拾いしたな」と彼が呟くと、躯は肩を小刻みに揺らして笑う。
「まだお前にオレは殺せないだろう?」
「フン」
「飛影。お前がオレの鼻を明かす日を楽しみにしてるぜ」
「今、明かしてやろうか」
「出来るもんならな」
言葉とは裏腹に、殺気を見出せはしなかった。そのため、躯は不自然なほど接近する飛影に気づくのが遅れた。
ほんの少し触れただけの唇。柔らかく、お互いの吐息で少しだけ湿っていた。
少し離れてから見つめた躯の表情は、飛影が今まで見たことないほど隙だらけだ。うっすら開いたままの唇が、女性特有の艶っぽさを伴う。
「その面、悪くないぜ」
彼女の唇に目を奪われたことは隠したまま、飛影はそう言って意地悪く口の端をあげてみせた。
[魔界 魔界統一トーナメント会場付近]
「飛影たちが来たな」
幽助の呟きに背後を振り返ると、モクモクと土煙をあげながら迫ってくる躯の移動要塞が見えた。
打ち鳴らされる銅鑼の音。魔界統一トーナメントの開幕を実感すると同時に、蔵馬は大会直前の出来事を回想した。
雷禅の塔には、雪菜に瓜二つの氷女がいた。飛影が蘇らせた、彼の母親。
桑原と共に彼女を形作っていた冥界玉の力が封印された後、蔵馬は飛影の傍らで呟いた。
「貴方はまた少し、変わりましたね」
幽助と出会った直後ほどではないが、彼の表情には以前までは見られなかった色が落ちていた。母親との対面で、きっと新しい何かを発見したのだろうと蔵馬は思った。
しかし、その飛影からの返答は「貴様ほどではない」の一言。
以前の自分なら、強気な彼の対抗心から来る戯言だと流していたかもしれない。けれど、そのとき蔵馬は素直に彼の意見を認めていた。
本当だ。オレも前とは少し違う。
自覚してみると、それは意外にも心地よいものだった。
それから霊界獣に導かれて、コエンマたちとともに人間界へ向かった。
幽助が最期の別れの場に選んだ場所は、彼らの母校。屋上から赤紫色の光が舞い降りて、ひなげしの手にする水晶玉に吸い込まれていった。それからしばらくして、彼は校庭で待つ仲間のもとへ戻ってきた。
暗くて幽助の顔はよく見えなかった。拭いきれていない涙の痕くらいは、あったのかもしれない。それでも彼は「待たせたな」と、そう言いながら穏やかに微笑んでいた。
「蔵馬」
名を呼ばれて、蔵馬は声の方向に視線をやる。
幽助はすでに移動要塞から目を離して、まんまるい茶色の瞳を自分に向けていた。
「トーナメント終わったらさ……」
言いかけて、幽助は口をつぐんだ。
「終わったら…?」
「いや、なんでもねェ」
幽助はポケットに両手を突っ込みながら会話を切ると、会場に向かって歩き出した。
彼が何を言おうとしたのか、蔵馬にはわからなかった。
トーナメントが終わったら……
「幽助」
蔵馬は彼を呼び止めて、自身が思いついた提案を口にした。
「トーナメントが終わったら、墓参りに行こうか」
もう一度向き合った幽助は、どこか呆けたようにその提案を聞いていたので、蔵馬は念を押すように付け足した。
「人間界に戻ったら」
気のせいだろうか。
少しだけ間を空けて、「おう」と呟くように返事した幽助は、泣き出しそうな目をしていた。
心の奥深くに眠っていた愛しい者たちが、教えてくれた。
オレたちを繋いでいたのは、決して、冷たく重い鎖ではなかった。
何度も何度も繋ぎ合わされる細い糸が、人間界と魔界と仲間たちとの繋がりを留めていた。そしてそれは、ただ両端が繋がれているだけじゃない。ピンと張り詰めた透明な糸。
手を引いてやるのはどちらでも構わないのだ。
作品名:『掌に絆つないで』第四章(後半) 作家名:玲央_Reo