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おとしぶみ

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 はあ、私のはなし、ですか。
 何を話せというのです。……これまでの人生? 物好きですね、そんな事を聴いて楽しいですか。聴いて面白い話なんて、何一つ在りはしませんよ。即座巧妙な笑い話をでっち上げる程の才があるわけでもなし、劇的な下りもない。語り口が上手い訳でもありませんし、そもそも私は忍びですから、そう多くを語る訳にもいかない。悪い事は言いません、河原に出ている芝居小屋にでも行って御覧なさい。もっと興味深い人生を語ってくれる人も在るでしょうに。
 ええ? 楽しい、ですか。喰い下がりますね、そういうものなんですか。そういった感覚は、私には良く理解できません。
 
 そう、……――仕方がない。では、柄にも無く昔語りでもしましょうか。






 好きな人がいました。
 もう、随分と昔の話です。とてもとても、好きな人がいました。


 おやまあ、意外ですか。なんですそのふぬけた顔は。自分でお訊きになっておいて、なんて顔をなさるんです。失礼だとは思わないんですか。
 ……ああ、でもそうですね、僕……私にそう言った相手がいただとか、そう言う事は、少し奇妙なことなのかもしれません。私自身、今でも信じられない様な気がしています。
 でも、居たものは仕方ないでしょう。事実は曲がらないのだから、素直に認めて下さい。

 昔と言うのは、まだ私が、学園にいた頃のことです。

 ええ、「学園」です。ご存じだとは思いますが、一応、場所は伏せておきましょう。
 今思い返すと、あの学園生活は人生の内でいちばん平穏な日々だったのだと思います。勿論、毎日の様に厄介事は起きていたのですが、卒業してから今までと比べれば、ずっとましです。何より私たちは未だ、大人の庇護の内に居る事にすら気付かないほどの子供でした。折の合わない級友――友人達が毎日の様に張り合って喧嘩をして、例えそれが壁を撃ち壊したり怪我をさせたりするまでに激化してもどちらも死なない。今では在りえない事でしょう。二人に限って言えばあれはじゃれあっているような日常茶飯のものでしたから、余計にです。

 あの人、は。
 優しい人でした。でも、弱い人でした。人として弱いのではなく、弱い人だったのです。他者に情けをかける様な、優しい人は忍びに向かない。忍びとは、感情を殺して生きるものです。同じ学園を出た友が、明日敵になるかもわからない、そんな世界に生きていくものです。主君の駒となり、手足となり、目となり、必要であれば敵を手に掛ける事もいとわず、そうやって乱世を生きる事等、あの人には到底できないだろうと思われました。
 当時私と親しくしてくださった先輩に、――先輩という方がいました。ええ、名前は言わない方が好いでしょう。火器に長けた人で、私にも手ほどきをして下さったものです。先輩達が卒業されて、私たちは五年生になりました。先輩が今どうしていらっしゃるのか、私は知りません。死んだという噂は聴かないので、何処かで生きていらっしゃるのでしょうか。尤も、件の先輩だけでなく、当時学園に居た皆がどうしているのか、生きているのか死んでいるのかさえ、解らないのです。別段、悲しいとも思いません。居場所や所属を公にするのは忍びとして命取りの事ですから、学園卒業者の現状等、互いに把握して居る者の方が寧ろ少ないに違いないでしょう。

 一つ上の先輩方が学園を出られ、六年生になった頃、私はとあるお城に就職が決まりました。先の友人達もそうです。何処に雇われる事になったのか、それは口外出来ない決まりでしたが、薄々感じ取って居たのだと思います。みんな、別々の国でした。そしてそれは、いつか、敵として見(まみ)える可能性のあることを示して居ました。 
 あの人は、少し迷って居る様に見えました。落第もせず、普通は六年かかるところを二年の間で追いついたのですから、素質や才が無いわけでは無かったのでしょう、元々忍者の家系であった事も手伝って、幾つか誘いもあったようでした。

 彼は訊きました。綾ちゃん、俺、どうしたらいいと思う?
 私はこう答えました。髪結いになるのでしょう。お父上の髪結い処を継がれて、立派な髪結いになられるといい。
 一緒に忍びになろうとは、言ってくれないんだね。
 あの人は、少し寂しそうでした。――君も――君も遠いし、なんだか、俺だけ取り残されるみたいだなぁ。
 馬鹿な事を。気がつけば私は、口を開いていました。一緒になんて、そんなこと、言えるわけないでしょう。何を考えているんですか、貴方は。珍しくも頭に血が上っていたのです、少し、声が振るえていたかもしれません。
 忍びになる。忍術を学ぶ為の学園に通う者にとって、そういった選択肢があるのは、それこそ当然のことです。一体、忍びの道を視野に入れずにいる者があるでしょうか。其れを私が、否定する権利など無いのです。それでも私は、あの人が髪結い以外の道を選ぶ筈がないと、高を括っていた。あの人は私の言葉に、もっともらしくうなずきました。
 ごめんね、綾ちゃん。
 髪を結うのが好きでしょう? 髪を切るのが好きでしょう? 人を殺すのは……傷つけるのは嫌いでしょう? だったら貴方は、髪結いになるのでしょう。
 そうだね、そうだったね。
 そうです。忍びになるというのは、取り残されるとかされないとか、そんなに単純な事じゃないんです。
 うん、ごめんね。
 それで、その話はお終いになりました。あの人は、私を抱きしめて、何度も謝りました。ごめんね、ごめんね綾ちゃん。ほんとにごめん。ただ、一緒に居たいって、言って欲しかっただけだったんだよ。
 年上の筈のあの人が、その一瞬だけ、酷く幼い様に見えた。反面、酷く大人びても見えた。あやす様な優しい声の中に、何か深い諦めに似た、悲しみに似たものが凝(こご)っていました。
 忍びになる。確かに其れは誰もが目標として見据えていた未来です。けれど私とあの人とが同じお城に勤められる可能性は、絶望的に低い。私と敵対することになるかもしれない道を、選んでほしくは無いのです。そう言えたら、どんなにか楽だったでしょう。今も昔も、肝心なところだけ口に出さないという悪い癖のある私は、そんな簡単なことも言えず、黙って彼の腕の中で、じっとしていました。



 ああ、ところで。私は先に、忍びの道を選ぶのはそんなに単純な事ではないと云いましたが、そしてその時は本当にそう思っていたものですが、この頃、考えが変わりました。向き不向きは在れ、選んだものは仕方ない。どんなに錯綜し一筋縄でいかない内因を孕む選択肢も、結局は、選ぶか選ばないかしかないのです。そういう風に、生きている内に見方が変わった事は、たくさんあります。長生きをしてみるものですね。現実なぞ、いつでも単純で明快なものなのです。受け取る人の心象こそ、物事を複雑にしていると言えましょう。
作品名:おとしぶみ 作家名:朝野 夜