敵中横断二九六千光年4 南アラブの羊
第8章 シンガポール・スリング
西暦1942年2月、アメリカのとある農村地帯。ひとりの少年が息せき切って彼の家に駆け込んできた。南部名物ハリケーンが吹き荒れたならたちまちに飛んでしまいそうな粗末な小屋だ。
彼は叫んだ。「父さん、母さん! やったよ! 日本がまたやったよ!」
「何よあんた。どうしたっての」と彼の母親が言った。「水をこぼすんじゃないよ」
少年は今、水を運んできたところだった。彼の家には水道がなく、井戸水を汲んで使っているのだ。桶を置いて言う。「日本がまたやったんだよ」
「そりゃあ結構なことだねえ」
と母親。その横で父親が言う。「今度はどこをやった?」
「シンガポールだ」
「シンガポール」と母親が言った。「どこにあるの?」
「知らないよ。とにかくやったんだよ。『攻略不能』と言われていたでっかい基地をやったんだよ」
「ふうん。日本て凄いのねえ」
「そうさ」
と言った。棚から世界地図を取り、卓の上に置いて広げる。
「シンガポールってどこ?」
と父親に向かって言った。父親は「さてな」と言って眺めてから、スリランカ島を指差した。
「これだ。〈S〉で始まってる」
「これがシンガポールなのか」
「ふうん。日本て凄いのねえ」
「そうさ。全部やっつけちまう。だってどこでも、ぼくらの仲間が味方してんだぜ。アメリカが敵(かな)うわけないよ」
「そうだ」と父親が頷いて言った。
「それに日本は物凄い戦闘機を持ってるんだって。〈ゼロ〉っていうんだ。それでみんなやっつけちゃうんだ」
「ふうん。ここまで来るのかしら。でもまだだいぶありそうじゃない」
母親も地図を覗いて言う。言うまでもなくこの地図は、ヨーロッパを中心にして日本を右の端に置き、アメリカを左に配置したものである。
少年は、「母さん、違うよ。そうじゃない。日本は逆にまわってくるんだ」
「『逆』? 逆ってどういうこと?」
「だから日本は凄い船を持ってるんだよ。こうしてアース(大地)を曲げて両端を繋げちゃうんだ。で、ここを通って来るんだ」
言って彼は地図を丸め、右と左の端を繋げて母親に見せた。ただし、巻き方は内向きだ。これではアース(地球)は筒型で、人はその円筒の内部に住んでることになってしまう。
母親は言った。「へえ。本当に凄いのねえ。けどそんなことをして水がこぼれないのかしら」
「よく知らないけど、この桶を勢いよく回してやるのと同じらしい。アースの方がグルッと回って日本の船を持ってくるんだ」
「へえ。なんだかわからないけど……」
「とにかく、日本は凄いんだよ」
「あんたとは違ってね」
「そうだ」と父親。「〈スシロール航法〉というんだ」
「アメリカが勝てるわけないよ」
「そうだ。もちろん、来たらおれ達が味方だからな」
「早く来てほしいなあ」
と少年は言った。この彼はアメリカで生まれたアメリカ人だ。その両親もまたそうだ。しかし、決して〈ネイティブ〉なアメリカ人と言えなかった。使う言葉も〈ピジン英語〉と呼ばれる種類の英語でない英語だった。市民権を持ってはいても持っていない。市(まち)を歩けば保安官に捕まり棍棒で殴られるのだ。
そして言われる。『死にたくなけりゃ二度と顔を出すんじゃねえ。お前を殺したところでおれが罪に問われることはないんだ。わかってるだろうな、ニガー』と。だから彼は彼の祖国であるアメリカを心の底から憎んでいた。この戦争で日本に敗けるのを望んでいた。
黒人だから。
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作品名:敵中横断二九六千光年4 南アラブの羊 作家名:島田信之