小説版アマガミ ~森島先輩はそこにいる~
そんなことより早く図書室へ行かなきゃ。日が暮れてしまう。梨穂子に、帰りに買い食いはし過ぎないようにと釘を刺しておいてから別れた。「そんなにいつも買い食いはしないよ~」と梨穂子は反論しながらも笑って廊下を去って行った。
さぁ、図書室には着いたけど、どんな本を借りようかな。小説にするか? 借りるとしたら恋愛小説か? う~ん、どうも自分はそんな柄じゃないような気がする。伝記とかの歴史本は? でもこれと言って尊敬してる歴史上の偉人はいないんだよな。こういう時に、いろんな本を読んでそうで読書家な人がいてくれれば参考になるんだけどなー。
本棚を一つひとつ調べていって、全てのジャンルに目を通す勢いで見ていった。この本はどうだ? いやないか。これは面白そう。でも何か難しそうだな。興味はあるけどなんか今借りるようなもんでもないような……。とか考えながら、時間が時間だけに他に生徒はいないだろうと思い込んでぶつぶつ独り言を言いながら選んでいると、窓際の自習スペースで勉強している生徒が一人いた。女子生徒だ。なんだ、いたんだ。恥ずかしい。独り言全部聞かれてたかも。それにしても綺麗な女の子だな、この人。黒い、整った艶やかな髪を後ろに長く垂らしている。いかにも賢そうな、凛としたオーラが背中から出てる。
黙々と机に向かっている彼女の背中をじっと見つめながら、もう一つ隣の本棚に移ろうとした時、「あ、この人知ってる」と思った。さらに「本を読んでそうな人、ここにいたじゃん!」と思った。
同じクラスの絢辻さんじゃないか。どうりで綺麗なわけだ。僕は彼女を意外なところで発見した驚きに突き動かされて、思わず勉強中だということを忘れて話し掛けた。
「あ、絢辻さん」
彼女は気づいて、机の上から僕の方へと視線を移した。
「あら、橘くん。どうしたの?」
そう言って絢辻さんは微笑と一緒に返事をしてくれた。
「橘くんも、勉強しに来たの? それなら、隣どうぞ?」
「あ、いや、僕は何か面白い本がないかなーと思って探しに来ただけだよ」
「そうなんだ……残念だな」
あれ? なんでちょっと本気で残念がってるんだ? いや、まさかね。軽く言ってるように聞こえたし、気のせいだよ、気のせい。
「ところで、絢辻さんは放課後はいつも図書室で勉強してるの?」
「うん。ここだと静かで集中しやすいから」
「へぇ~。でも、自宅の方が集中しやすくない?」
「うん、まぁそうだけど、ある事情があって放課後はなるべく図書室で勉強するようにしてるの」
なるほど。絢辻さんにもいろいろと事情があるんだな。それが何なのかは靄に包まれて謎だけど。ただ確かなのは、そう言った時の綾辻さんの目が、一瞬、暗くなったような気がしたこと。なんだか、寂しそうな。
その後、今年の創設祭の予定についてちょっと話した後、絢辻さんの勉強を邪魔しては悪いと思い、早々に本を借りて図書室を出た。結局借りたのは、森島先輩が好きな犬についての本だ。犬の様々な種類や習性などが書かれた本で、どうすれば犬の気持ちが分かるのかが知れるらしい。よし、僕の気持ちを森島先輩に知ってもらうために、家に帰ってこの本を読み込むぞ!
下駄箱を出ていつものように下校しようとした時、噴水の縁に誰かが座っているのが見えた。夕日がなまめかしく演出しているそのシルエット、オーラは、無視できない引力で僕を立ち止まらせた。目を凝らして見れば見るほど、間違いなくあの人だという確信が強まって行った。
森島先輩だ。まだ残ってたんだ……。
何してるんだろう。
先輩は遠くから眺めている僕に気づいていない。目を伏せて噴水の水を見つめているからだ。
なんて美しいんだろう。
なんて絵になる人なんだろう。
僕が黙って眺めているこの場所とこの角度、部活動をしている以外の生徒の多くが下校して辺りに静寂が滴(したた)り落ちているために作られるこの長い間(ま)、ここから見える限りの校舎中を無辺(むへん)に暖めているこの夕方の光、先輩が座っているその場所、先輩のその座り方、その見つめ方、そして、先輩のその美貌……。
この時、普段より僕が先輩に対して漠然と抱いていた情念が、映画がついに決定的なクライマックスを迎えた時のように完璧なタイミングとシチュエーションの中で、濃く、広く、僕の身内一杯に隙間なく広がり、それがある感情の高まりを促した。
僕は、森島先輩のことが……。
うん、そうだ、今こそこの思いを伝えよう。
僕は悠々(ゆうゆう)とした足取りで、先輩のいる噴水の方へ向かって歩き始めた。
「……くしゅんっ」
先輩が身をかがめてくしゃみをした。
寒いもんな……よし。
僕は通りすがりを装って、違和感を悟られないように先輩に話し掛けた。
「先輩、風邪引いちゃいますよ。これどうぞ」
「あ、橘君。使い捨てカイロ?」
先輩は僕の差し出したカイロを受け取った後、微笑しながら「ありがとう」と言った。
「何してたんですか?」
「う~ん……水を見てたの」
「水を……ですか?」
「うん。私、水を見るのが好きなの。海とか川とか……噴水とか……」
普段、人には明かすことのない趣味を知ってもらえるという微(かす)かな喜びを先輩が感じているのを、心持上がった口角から読み取った。
「……いいですね」
「そう?」
「はい。何となくなんですけど……、森島先輩には似合ってる気がします」
僕が即座に選んだこの言葉は意外なほど先輩の気に入ったようで「ふふふっ」と笑い、
「そういう風に言ってくれたのってひびきと橘君だけかも」
と言った。
「そ、そうですか……」
「優しいのね、橘君。このこの」
「そんなことないです」
「そうなの? じゃあ私にだけ優しいのかな?」
「え……」
「もしかして……。私のこと好きなの? な~んちゃって」
さっきの僕の決心を知らない先輩は、軽い調子で嬉しそうに僕を弄(もてあそ)んだ。どうりで学校中に先輩に振り回される男子が大勢いるわけだよ。
そして僕も今、その一人だ。動揺しないわけがない。
僕の心臓は「好きなの?」という言葉と呼応するように、一気に鼓動を早めた。
「え! いや、そんな……」
「そうよね、残念」
「え、いや、好きです」
咄嗟に自分の否定の言葉と先輩の「残念」という言葉を打ち消したくて、僕の内側の圧縮された意志から思わず言葉が漏れ出ていた。
「え?」
「あ、いや……その……」
先輩は黙り込んだ。ただ僕を見つめているだけだ。
ど、どうしよう。
なんであんな変なタイミングで言っちゃったんだ!
「本気?」
「いや、その……」
僕の視線は地面に落ちていた。
この緊張の間(ま)に握りなおした拳(こぶし)は、汗のために濡れていた。
憧れてたのは本当だし……。ええい! 言っちゃえ!
「……その、好きです」
言葉に力を込めたのと視線を上げたのは同時だった。その瞬間は、今までで最もはっきりと先輩と「目が合った」瞬間だった。
作品名:小説版アマガミ ~森島先輩はそこにいる~ 作家名:美夜(みや)