『未満』――背中合わせの冷たい熱
それは、士郎の記憶ではなく、アーチャーの記憶だ。
士郎はアーチャーと剣を交えたときに、その道程を見た。吐き気に襲われ、震えた唇を噛みしめた少年の顔が思い出される。
あのときは、士郎が恐怖したことにアーチャーは胸のすく思いだった。
だが、今は……。
「…………」
吐き出しそうになったため息を飲み込む。まだ士郎は寝入っていない。アーチャーは寝ろと言ったのだが、士郎はいまだ眠った様子ではない。
呼吸を乱し、歯の根を震わせ、おそらく両手で口を塞いで声を抑え、身を縮めれば何かしらを勘付かれるとでも思っているのだろう、士郎は身を硬くするのみに押し止め、必死に恐怖心に抗っている。
(愚か者め……)
後悔しないと堂々とアーチャーに言い放ち、自身の歩む姿を見ていろと大口を叩いたというのに、士郎はアーチャーの記憶に苛まれている。
(未熟者……)
アーチャーが意図したわけではないが、見てしまったアーチャーの過去――――士郎の未来は、いまだ大人になりきれていない少年には、少々アクが強すぎたのだ。
(あんな些細な記憶に……)
自業自得だと嗤ってやろうと思うのに、アーチャーは、うまく笑えずに終わる。
夜ごと士郎は寝入るまで、アーチャーの記憶を思い出しては震えている。
背中にあった温もりは次第に冷たく濡れていき、寝息が聞こえるころには暑い時期でもないというのに、全身汗みずくになっている。
さすがに不快に思い、士郎が眠ったことを確認して、アーチャーはいつも布団から出ていた。
(たわけ……)
ざまあみろ、と胸がすいたのも、呆れていたのも最初だけ。
この状態がひと月も続くようになると、さすがにアーチャーにも憐憫の情が湧いてくる。たとえそれが自身の元となった衛宮士郎でもだ。
ようやく士郎の寝息が聞こえてきたので、アーチャーはいつものごとく布団から出る。
この、己の過去ともいうべき存在と生活するというのは、なんともいたたまれないものだ。が、慣れとともにアーチャーの中では、度し難い感情が芽生えてきていた。
憎むべき、己の原型。
消し去るべき、過去の遺恨。
敗北の辛酸を舐めさせ、その上、引き留めるという暴挙に出た士郎に、殺しても殺し足りないと苛立ちと怒りと憤りをぶつけていたのは、はじめの一週間ほどだった。
毎日顔を合わせていれば、それなりに譲歩することも出てくる。同じ場所で生活をする状態であればなおさら、いがみ合っていてもなんら生産性が上がらないと互いに気づいたのは、契約三日目のことだ。
元は同じ存在というだけあって、考え方も行動も似通ってくる。
顔を合わせる度にむっとしていたのは初めだけで、食事当番や家事の分担を淡々と的確にこなしはじめるようになった。
そういう面では合理的なところを見せる、と、アーチャーはそんなふうに思い、士郎にしても無駄につっかかったりすることもなくなった。
同居をはじめて十日もすれば、阿吽の呼吸で家事を済ませている。ただ、アーチャーの方が二枚も三枚も上手であったため、士郎は意地を張ることもなくなり、まだまだ敵わないと理解し、敢えてアーチャーに教えを請うようになってきている。
そうなるとアーチャーも元来がお人好しなせいで、率先してではないが、士郎に家事の手ほどきなどもするようになった。
契約からひと月。少しずつだが歩み寄っている。
少なくともアーチャーは、そんなふうに思っている。
(だが……)
今ここで背後を振り返るのは、何か違う、と感じた。
振り返ってしまえば、どこか戻れない道へと続く一歩を踏み出してしまう気がするのは、なぜか……。
したがって、アーチャーは背中合わせでいることを選んでいる。これ以上でも以下でもない関係でいることが望ましいとアーチャーは結論付けた。
(衛宮士郎との距離を、これ以上近づける意味はないのだ……)
たとえ魔力が希薄でも、かろうじて現界が可能なのだから、何を訴えることもない。引き留めた士郎に対しては、契約を破棄せず、多少自身の実体が薄れていても、この世界に存在していれば問題はないはず。
(ただ……)
確実にアーチャーは魔力に飢えている。喉の渇きというべきか、魔力を補うための食事では到底賄えない餓えが、次第にアーチャーを蝕んでいる。
背後にある存在が甘露のような魔力を醸していることがわかっていても、士郎を貪るつもりはさらさらない。
(早く……夜が明ければいい……)
苦いため息をこぼして、細々と流れてくる魔力を受け取って、ただただ空が闇を抜けるのを待っていた。
***
夜ごと震える士郎。
頑強に正面だけを見据えているアーチャー。
冷たい熱をわけ合った春の夜は、明け方に近づくほど冷えていた。
『未満』――背中合わせの冷たい熱 了(2020/5/20)
作品名:『未満』――背中合わせの冷たい熱 作家名:さやけ