【弱ペダ】うちのボーカルが音痴なワケない!
待ってくれ、待ってくれ。
今泉俊輔は頭の中で必死に繰り返す。
理解が追いつかない! 一体何が起こってるんだ!
まるでゲームの回復呪文のように、待て待て待て、と繰り返す。だが、現実は無情だ。いくら繰り返し唱えても今のステータス異常が取り除かれることはない。
暴力的なまでの振動が鼓膜を擦り叩き、もはや旋律も音階もゴジラがバキバキに踏みにじって壊したとしか言いようのない欠片が、グサグサと脳髄に突き刺さる。不協和音が特徴の現代曲の方がまだ曲らしい。
一体どうしたっていうんだ! ついさっきまで、ほんの少し前までは普通に歌っていたじゃないか、坂道!
今泉は懇願するように、マイクを握る坂道の方へ手を伸ばした。
ともかく、一刻も早く歌うのをやめさせなければ!
だが、一瞬でも気を抜いたら、自分の体を形作るために取り入れた摂取物を、目にするにはあまりにおぞましい形で披露する羽目になりそうだ。いや、その前に意識が途切れるかも。どちらかと言えばそっちの方がまだマシな気がする。
猛烈な吐き気を堪えつつ、今泉の本能がこの状況から解放されることを気が狂いそうなほど切実に求めている。本当に吹き飛んでしまいそうな正気を手放してしまおうかと思う。
何故なら、自分の周りでは既にバタバタと人が倒れていたからだ。今すぐ自分も彼らの仲間入りをして、楽になりたい。
目の前では、このバンドのボーカル、小野田坂道が、至極楽しそうに歌っている。聞こえているのは、歌とは到底言えない。今の坂道の歌と比べるなら、怨霊の呪詛だってメロコアかエモだと評価できるくらいだ。
あまりの破壊力に屈してしまいたい気持ちは山々だが、一方で今この惨状を止められるのは、一人立っている自分しかいないのもまた事実だ。気合いを入れるのに、腹の底にへばりついていないフリを決め込む勇気を必死でかき集めた。
「坂道!」
声の出ない喉を何とか振り絞り、震えて意のままにならない手を伸ばす。僅かな距離なのに何度も霞む視界を振り払い、やっとのことで坂道の肩を叩いて、歌を途切らせることに成功した。
「ん? 今泉くん?」
不思議な顔をして坂道が振り向く。色とりどりの花が咲き乱れるお花畑の幻影が見えかかっていた今泉は、魔物のサバトか地獄の交響楽団もかくやと言わんばかりの音が途切れた安堵で、今にも膝から崩れ落ちそうだった。
「どっ、どうしたの? 皆!」
あちこちにバンドメンバーが倒れ伏すスタジオ内の惨状に、坂道は驚いたような声を上げた。
坂道の歌が止まったおかげで、倒れたメンバーが次々に我に返る。何が起きたのか判らない内に気を失って、状況が掴めていないようだ。何故床に倒れているのか、と言う不思議な顔をしている。鏑木などは自分のスネアドラムに突っ伏していたので、張りの具合を慌てて確かめている。
「坂道、休憩中何があったんだ?」
彼らは「THE HIGH CADENCE」と言うバンドを組んでいる。文化祭で演奏するために、今日は街中の貸しスタジオで練習に勤しんでいたのだ。
「ああ、小野田くん、コンビニ行ったんやな」
ビルの地下に作られたスタジオから外へ出て、コンビニで買い物をして帰ってきた坂道は、特に変わった様子もなかったのに。
「僕も何がなんだか……。あっ、ごめん。僕の歌のせいなのに……」
坂道が肩身が狭そうに体を縮める。
細切れでしかスタジオを借りられなかったせいで、次の利用者のために一旦片付けをしてスタジオを空けた。一人として吐かなかったのがせめてもの救いだ。もしスタジオを汚していたら、清掃代の罰金を取られるのみならず、次に借りる人たちから突き刺さるほどの非難の視線を向けられていただろう。
貸しスタジオのロビーに据えてあるソファに集まって坂道に事情を問いただしていた。メンバー全員の張り詰めた只ならぬ雰囲気に、スタジオの順番待ちをしている他の人たちが、怪訝な目で見ていた。
いや、別に喧嘩とか吊し上げとか、仲間割れとかじゃないですから!
冷たい視線に要らぬ弁解をしたくなったが、今泉はなんとか意識を坂道の方に戻す。
そんなことより、まずは現状を把握しなければ。そして対策か解決策を考えねばならない。文化祭で先ほどのような惨事を起こすわけにはいかない。そんなことになったら、当然バンド演奏も、彼らの後ろで順番を待つ生徒の出番も、文化祭そのものも中止になる。ヘタをすると後々、『総北の生物的災害《バイオハザード》』なんて言われかねない。彼らにだって自分たちの活動を認められ、語り継がれたいと言う承認欲求がなくもない。けれど、そんなネタみたいに語られるのは願い下げだ。
「変なオッサンに会ったとか、変なオバハンに会ったとか……」
「オッサン、オバハン限定ッスか」
今泉とツインギターの肩翼を担う鳴子が坂道の記憶を刺激しようと尋ねるのを、ドラムスを担当する鏑木がツッコミを入れる。今泉としてもそこは気になったから、「グッジョブ、イキリ」と褒めてやりたいが、やはり今はそれどころではない。
「おじさんもおばさんも変な人なんて…」
やはり動揺しているのか、坂道が律儀に答える。うん、そこじゃないんだ、坂道。おちつけ。
「老若男女問わず、普段声をかけたりしない人、知らない人から声をかけられなかったか?」
「猫でも犬でも、動物全般でもいいぞ」
今泉の言葉に、キーボードを担当する手嶋がさらに補完してくる。
「なんなら、人外でもなんでもいい」
ベース担当の青八木の発言に至っては、念には念をと言わんばかりである。そんな蟻一匹逃さぬ全方位からの気遣いに落ち着いたのか、坂道が宙を見上げて記憶を探るような顔をした。
「ああ、猫がいて」
ふと思い出したという感じで坂道が言う。
今泉は、猫かよ、と肩透かしを食らったように感じた。猫が何だというのだ。ていうか、これが猫の仕業だと言うつもりなのか? 勘弁してくれ。
「その猫が……、その……」
坂道は言いにくそうに言葉を濁す。だが、ここで口籠られては先に進まない。
「坂道、言ってくれ」
今泉の勢いを、励ましと思ったのか、脅しと思ったのか判らない。いや、これまで一緒に活動してきた仲間だ。きっと励ましだと取ってくれただろう。坂道はうん、と頷くとあのですね、と口を開いた。
「お前いつも楽しそうだなって」
「だれが?」
思わず坂道の言葉に、今泉を筆頭に、手嶋、青八木、鳴子、鏑木と言う、つまりは坂道を除いたバンドメンバー全員が同時に聞き返した。これが早押しクイズならだれが一番早く押したか、検証ビデオが流されるところだ。
「その……、猫が……。あっ、あの、信じられないだろうけど、本当に猫がしゃべったんですよ。いつもここで練習する時に見かける、キジトラの猫なんですけど……あの、コンビの前によくいる」
言われて、全員あれかと間違いなく同じ猫を想起したはずだ。飼い猫か野良か、全く不明なのだが、コンビニの真前にある、植え込みを覆うように積まれたブロックの上に座っていることが多くて、貸しスタジオや街の人が通るたびに群がっている。なんというか、貫禄があるというか、坂道が言うように確かにこの街の影の主みたいな感じがある猫なのだ。
今泉俊輔は頭の中で必死に繰り返す。
理解が追いつかない! 一体何が起こってるんだ!
まるでゲームの回復呪文のように、待て待て待て、と繰り返す。だが、現実は無情だ。いくら繰り返し唱えても今のステータス異常が取り除かれることはない。
暴力的なまでの振動が鼓膜を擦り叩き、もはや旋律も音階もゴジラがバキバキに踏みにじって壊したとしか言いようのない欠片が、グサグサと脳髄に突き刺さる。不協和音が特徴の現代曲の方がまだ曲らしい。
一体どうしたっていうんだ! ついさっきまで、ほんの少し前までは普通に歌っていたじゃないか、坂道!
今泉は懇願するように、マイクを握る坂道の方へ手を伸ばした。
ともかく、一刻も早く歌うのをやめさせなければ!
だが、一瞬でも気を抜いたら、自分の体を形作るために取り入れた摂取物を、目にするにはあまりにおぞましい形で披露する羽目になりそうだ。いや、その前に意識が途切れるかも。どちらかと言えばそっちの方がまだマシな気がする。
猛烈な吐き気を堪えつつ、今泉の本能がこの状況から解放されることを気が狂いそうなほど切実に求めている。本当に吹き飛んでしまいそうな正気を手放してしまおうかと思う。
何故なら、自分の周りでは既にバタバタと人が倒れていたからだ。今すぐ自分も彼らの仲間入りをして、楽になりたい。
目の前では、このバンドのボーカル、小野田坂道が、至極楽しそうに歌っている。聞こえているのは、歌とは到底言えない。今の坂道の歌と比べるなら、怨霊の呪詛だってメロコアかエモだと評価できるくらいだ。
あまりの破壊力に屈してしまいたい気持ちは山々だが、一方で今この惨状を止められるのは、一人立っている自分しかいないのもまた事実だ。気合いを入れるのに、腹の底にへばりついていないフリを決め込む勇気を必死でかき集めた。
「坂道!」
声の出ない喉を何とか振り絞り、震えて意のままにならない手を伸ばす。僅かな距離なのに何度も霞む視界を振り払い、やっとのことで坂道の肩を叩いて、歌を途切らせることに成功した。
「ん? 今泉くん?」
不思議な顔をして坂道が振り向く。色とりどりの花が咲き乱れるお花畑の幻影が見えかかっていた今泉は、魔物のサバトか地獄の交響楽団もかくやと言わんばかりの音が途切れた安堵で、今にも膝から崩れ落ちそうだった。
「どっ、どうしたの? 皆!」
あちこちにバンドメンバーが倒れ伏すスタジオ内の惨状に、坂道は驚いたような声を上げた。
坂道の歌が止まったおかげで、倒れたメンバーが次々に我に返る。何が起きたのか判らない内に気を失って、状況が掴めていないようだ。何故床に倒れているのか、と言う不思議な顔をしている。鏑木などは自分のスネアドラムに突っ伏していたので、張りの具合を慌てて確かめている。
「坂道、休憩中何があったんだ?」
彼らは「THE HIGH CADENCE」と言うバンドを組んでいる。文化祭で演奏するために、今日は街中の貸しスタジオで練習に勤しんでいたのだ。
「ああ、小野田くん、コンビニ行ったんやな」
ビルの地下に作られたスタジオから外へ出て、コンビニで買い物をして帰ってきた坂道は、特に変わった様子もなかったのに。
「僕も何がなんだか……。あっ、ごめん。僕の歌のせいなのに……」
坂道が肩身が狭そうに体を縮める。
細切れでしかスタジオを借りられなかったせいで、次の利用者のために一旦片付けをしてスタジオを空けた。一人として吐かなかったのがせめてもの救いだ。もしスタジオを汚していたら、清掃代の罰金を取られるのみならず、次に借りる人たちから突き刺さるほどの非難の視線を向けられていただろう。
貸しスタジオのロビーに据えてあるソファに集まって坂道に事情を問いただしていた。メンバー全員の張り詰めた只ならぬ雰囲気に、スタジオの順番待ちをしている他の人たちが、怪訝な目で見ていた。
いや、別に喧嘩とか吊し上げとか、仲間割れとかじゃないですから!
冷たい視線に要らぬ弁解をしたくなったが、今泉はなんとか意識を坂道の方に戻す。
そんなことより、まずは現状を把握しなければ。そして対策か解決策を考えねばならない。文化祭で先ほどのような惨事を起こすわけにはいかない。そんなことになったら、当然バンド演奏も、彼らの後ろで順番を待つ生徒の出番も、文化祭そのものも中止になる。ヘタをすると後々、『総北の生物的災害《バイオハザード》』なんて言われかねない。彼らにだって自分たちの活動を認められ、語り継がれたいと言う承認欲求がなくもない。けれど、そんなネタみたいに語られるのは願い下げだ。
「変なオッサンに会ったとか、変なオバハンに会ったとか……」
「オッサン、オバハン限定ッスか」
今泉とツインギターの肩翼を担う鳴子が坂道の記憶を刺激しようと尋ねるのを、ドラムスを担当する鏑木がツッコミを入れる。今泉としてもそこは気になったから、「グッジョブ、イキリ」と褒めてやりたいが、やはり今はそれどころではない。
「おじさんもおばさんも変な人なんて…」
やはり動揺しているのか、坂道が律儀に答える。うん、そこじゃないんだ、坂道。おちつけ。
「老若男女問わず、普段声をかけたりしない人、知らない人から声をかけられなかったか?」
「猫でも犬でも、動物全般でもいいぞ」
今泉の言葉に、キーボードを担当する手嶋がさらに補完してくる。
「なんなら、人外でもなんでもいい」
ベース担当の青八木の発言に至っては、念には念をと言わんばかりである。そんな蟻一匹逃さぬ全方位からの気遣いに落ち着いたのか、坂道が宙を見上げて記憶を探るような顔をした。
「ああ、猫がいて」
ふと思い出したという感じで坂道が言う。
今泉は、猫かよ、と肩透かしを食らったように感じた。猫が何だというのだ。ていうか、これが猫の仕業だと言うつもりなのか? 勘弁してくれ。
「その猫が……、その……」
坂道は言いにくそうに言葉を濁す。だが、ここで口籠られては先に進まない。
「坂道、言ってくれ」
今泉の勢いを、励ましと思ったのか、脅しと思ったのか判らない。いや、これまで一緒に活動してきた仲間だ。きっと励ましだと取ってくれただろう。坂道はうん、と頷くとあのですね、と口を開いた。
「お前いつも楽しそうだなって」
「だれが?」
思わず坂道の言葉に、今泉を筆頭に、手嶋、青八木、鳴子、鏑木と言う、つまりは坂道を除いたバンドメンバー全員が同時に聞き返した。これが早押しクイズならだれが一番早く押したか、検証ビデオが流されるところだ。
「その……、猫が……。あっ、あの、信じられないだろうけど、本当に猫がしゃべったんですよ。いつもここで練習する時に見かける、キジトラの猫なんですけど……あの、コンビの前によくいる」
言われて、全員あれかと間違いなく同じ猫を想起したはずだ。飼い猫か野良か、全く不明なのだが、コンビニの真前にある、植え込みを覆うように積まれたブロックの上に座っていることが多くて、貸しスタジオや街の人が通るたびに群がっている。なんというか、貫禄があるというか、坂道が言うように確かにこの街の影の主みたいな感じがある猫なのだ。
作品名:【弱ペダ】うちのボーカルが音痴なワケない! 作家名:せんり