【弱ペダ】嬉し雨
どんよりとした空模様。教室の窓から見える街の向こうは、青灰色の重苦しい雲が垂れこめている。ぼんやりと雲の下と街の上が煙っているのは、もう雨が降っているのかも知れない。
――もうこっちにも来るっショ。
ぼんやりと窓の外を見ていた巻島祐介は、そう思う。もちろん今日は午後から雨だという予報だったから、いずれ雨が降るのは判り切っている。けれど、それがどのくらいで降るのかを目測で予想できるほど空が見られるのは、やはりこの総北高校の立地が関係しているだろう。
峰ヶ山に連なる山並みの一つ、その中腹に建つこの高校は、昇降口を正面とすると裏は山の四季を間近に感じることができ、正面からは山の麓に広がる街並みを一望できる。
この高校のホームページや学校案内のパンフレットに大きく書いてある文句にも、この周りの環境を誇る一文が入っているが、自然に囲まれたと言えば聞こえは良いが、その弊害もまた多いのも事実だ。
夏は日差しは強いものの、山からの風が涼しく実は冷房要らずで過ごしやすい。下校して街中の暑さに驚くこともあるくらいだ。一方で、やぶ蚊を始め虫の類は多い。蜂や蜘蛛で悲鳴を上げる新入生も、半年を過ぎるころには百足に驚くこともなく教室の外に出せばいいや、くらいにはなる。珍しい所では、アライグマや猿による盗難が起こることだろうか。鍵を閉め忘れた女子更衣室から生徒の着衣が大量になくなったことがあり、すわ変質者か、と警察が出動したが、結局猿が入り込んで漁ったと言うのが判ったことがある。
――自転車競技で鍛えられたせいもあるかもな。
巻島は日差しを遮る厚い雲を見ながら、今日は途中から雨だなぁと思う。自転車競技は一応台風や暴風雨以外は雨でも走るのが当たり前だ。
事前に予報を見るのは当然だが、雨の可能性があれば、走り出す前に雨具もきちんと用意しておく。事前の準備を万全にしておいても、何が起こるか判らないのが自転車競技と言うものだからだ。
更に、雨の日のクライムは気が張る。もちろんクライムだけではないのだが、山が主戦場のクライマーとしてはやはりそこを中心に考えてしまう。
まず、風と雨で視界が悪くなる。晴れでも汗みずくだと言うのに、それ以上に雨が体力をどんどん削っていく。防水がメインのレインウェアでも、最近は透湿性やフィット感など機能性は上がっているが、やはり一枚余計に着ていると言う微妙な違和感が、普段身体が覚えている走りのフィーリングを変えてしまう。マンホールや白線が濡れることで滑りやすくもなる。その普段とは違う感触と時間が経つにつれて蓄積していく緊張感で疲労度も上がる。特に一年生たちにとっては辛い練習になるだろう。
――回数重ねるしかねーっショ。
コンディションの違いも、何度も繰り返して身体に叩き込んで慣れてしまうしかない。
どんな勝負になるだろうか。
様々なレースの経験を積んだ坂道と走ってみたい。どんな顔を見せるだろう。
巻島はそう考えて、ふっと笑った。
放課後、周回練習に出ようとしたところでパラパラと小雨が降ってきた。余りに酷ければ、最初から室内でローラーと筋トレと言う事になるが、パラパラ降っている程度では判断が難しい段階だ。
「この後、暴風雨になるそうデス」
監督が居残りしての自主練禁止を言い渡す。
「こんな雨なんぞ屁でもないっちゅーねん!」
鳴子がお約束のように威勢良く言い放った。
「バカか。体力削られた上に暴風雨じゃ、まともに漕げるはずねーだろ」
「なんやと! 暴風雨だろうが台風だろうが、ちょっとやそっとの雨風で、この鳴子章吉様が漕げないわけあるかい!」
今泉の言葉に鳴子が即座に言い返す。今泉に何か言われれば、噛みついて言い返さなければ気が済まないような回路でも出来上がっているようだ。
「ちょっとやそっとじゃないから、監督が止めろって言ってるんだ」
「ほぉう。逃げるんやな? 雨風にビビッてるんやな? どーぞどーぞ。お前がビビッてお家に閉じ籠ってる間に、この鳴子章吉様がびっくりするくらい早くなっといたるわ。な? イマイズミくーん?」
「……誰がビビッて逃げるって?」
鳴子の言葉に、今泉が怒った口調で返す。坂道が二人の間に挟まれてオロオロしていた。
巻島はコッソリ溜め息を吐く。この鳴子と今泉のいがみ合いは何とかならないのだろうか。同学年でもあることから、互いにライバルだと思っているのは良い。だが、こう些細なことで反目し合っていては、レースでは上手く機能しないかもしれない。
いや、この反目も相手を認めているからなのだろうか? 同じクライマーである坂道が、余りにあけっぴろげに自分への敬意を表明するので、彼らの行動をどう判断していいのかイマイチ判らない。
「はいはい、二人とも落ち着け」
手嶋が今にも互いの胸倉を掴みあって喧嘩に発展しそうな今泉と鳴子の間に入って、分ける。
「鳴子、こんな暴風雨で、万が一怪我でもしたらどうするつもりだ? インターハイ出られないぞ」
手嶋の言葉に、鳴子がうっと言葉に詰まる。
「今泉も。なんで最後に張り合っちゃうんだよ」
今泉も言われて視線を逸らす。互いに意地になっているのは判っているようだ。
「練習が足りねぇなら、家で追加のローラーでも筋トレでもしとけ。今日はとにかく居残り自主練は禁止だ」
田所が最上級生らしくまとめて、一年の跳ねっ返りが起こした騒動はなんとか収められる。巻島は思わず息を詰めていたのを思い出して、もう一つ安堵の溜め息を吐く。
こういう時に、自分は先輩としても役目を果たせていないことを痛感する。しかも、過去にコソ練をしていた経験がある身としては、強くやめておけとも言いづらい。
不承不承頷く今泉と鳴子を見て、坂道がほっとした顔をしていた。
雨具を着た状態で外練習に出る。パラつく程度の小雨が、自転車の速度で走り出すとパチパチと音を立てて当たってくる。巻島にはすっかり慣れた天候だ。白線とマンホールには気を付ける必要があるが、走れないほどではない。峰ヶ山を登り反対側へ降りて周回してくるコースを二周ほど繰り返し走って、雨の中を集団で走る感覚を掴む。そうしている内に雨は多少強くなったが、暴風雨と言うほどでもない。まだこれなら走れそうだ。
峰ヶ山コースも三周目になると、今度は各自バラけての走行になった。巻島はすぐに飛び出して先頭を切って山を登って行く。チームで走るのが大前提の競技だが、好きなように好きなペースで山を走る楽しさには代えられなかった。極度に自転車を傾けて登って行く走り方も、雨では多少調整せねばならないが、それも一漕ぎごとに慣れてくる。頂上を越して下りに入る頃には雨だと言うのにすっかり楽しくなってきた。一対一の勝負も、集団での走りも、単純なクライムの練習も、ヒルクライムやクリテリウムのレースも嫌いじゃないが、一番自転車が好きだと実感するのは、やはりこういう瞬間だ。何も考えずにとにかくペダルを漕いで山を走っている時が一番楽しい。
思わず顔がにやけてしまう。
背後から別の自転車の音が聞こえた。それに気付いて、さらに笑みが深くなる。
「巻島さん」
満面の笑みで坂道が追いついてきた。
「ヨォ。お前も来たか」