【弱ペダ】嬉し雨
クライマー、あるいは同じくらいに走れる部員は他にもいるが、坂道ほどの選手はそういなかった。特別ヒイキをしているつもりはなかったが、振り返ってみると時間さえあれば一緒に山ばかり走っている。競っているのに、人と山を走ってそれが楽しいなんて、これまでハコガクの東堂以外には居なかったのだ。
むしろ、好敵手と言うだけではない。坂道は後輩と言う事もあってか、巻島の中では少し抱く感情が違った。先輩として導いてやらねば、と思う。だが、最近では自分も坂道の熱意に随分引っ張られてしまっている気がしないでもない。カッコイイです! と溢れ出して枯れぬ勢いの巻島への敬意のせいだろうか。
無言なのに、打ち合わせたように、再び並んで峰ヶ山を登りはじめる。
巻島が前に出る。暫くそのまま走っていると、坂道が抜いて先を走る。そしてまた前後を入れ替えて走る。そんなことの繰り返しだ。それなのに、そうしているのが楽しくて仕方がない。部活動の練習だって言うのに。自分に当たる雨すら気にならなかった。
山を下った先で折り返し、再び山へ向かう途中で他の部員たちとすれ違う。
「巻島、そのまま学校へ戻れ。室内練習に切り替える」
金城がそう言って寄越した。その言葉に気が付いてみれば、随分と雨足が強くなっていた。
「ああ」
「判りました、金城さん」
巻島と坂道はそう答えると、最後の競争、とばかりに速度を上げて峰ヶ山を駆け上った。
「巻島さん」
部活が終わって下校しようと部室を出る。
土砂降りと言うほどではないが、傘がなければ即びしょ濡れになるというくらいには降っていた。自転車では気にもならないのに、歩かねばならないと思うと雨は憂鬱だ。空を見上げてそんなことを思っていたら、坂道が後ろから声を掛けてきた。
「一緒に帰っても良いですか?」
坂道が期待と不安がないまぜになったような顔で尋ねてくる。
「ああ」
そう答えれば、パッと明るい笑顔を浮かべた。その変わり様に一瞬花でも散ったような幻覚を見てしまう。
――参ったっショ。
嬉しいと言うのをあけっぴろげに表わす坂道の表情につられて、巻島の方もじわじわと気持ちが浮ついてくる。坂道が好きで、愛おしくて、一緒に居られるのが嬉しい。
自転車で一緒に山を走れる後輩だと思っていたのに。
総北のクライマーとして、後を託す存在だと、そう思っていたのに。
それだけじゃなくなるなんて。誰が想像しただろうか。
あまつさえ、満々とした坂道の好意と敬意を受け止めるだけじゃなく、自分でも怒涛のような感情を坂道に抱くようになろうとは。
その挙句に、互いに気持ちが通じるなんて、予想だにしなかった。
時々、自分の中に湧き上がってくる暴れ出しそうな衝動に、怖気づいてしまいそうになってしまうほどだ。
「雨で残念でしたね。僕ももっと山を走りたかったです」
坂道がぽん、と傘を開きながら言う。模様も何も入っていない、渋い紺色で大きめの傘だった。
「そうだな」
巻島はそう言うと、ひょい、と坂道の手から傘を取る。そして、坂道に差しかけて歩くように促す。その意図が判ったのか、坂道が一層顔を赤くして、照れたように嬉しそうに笑った。
「……でも、こうやって一緒に帰れるなんて嬉しいです」
校門から続くダラダラと長い坂を下りながら、坂道が頬を染めてそう聞こえるか聞こえないかくらいの声で言った。ほとんどの部活が練習を早めに切り上げたのか、校庭にも、学校にもほとんど人が残っていなかったようだ。通学路にも生徒の姿がほとんどない。雨が傘にあたってパラパラと音を立てた。
「俺もっショ」
巻島はぐい、と坂道の肩を抱き寄せる。二人で並んで入ってもまだ余裕があるほどの大きな傘だが、それが恨めしいほど、二人の間が離れているのが惜しい。
そんな巻島の行動に、坂道が茹蛸のように顔を真っ赤にした。
巻島はその表情を見て、いずれ自分の中にある理性の箍が外れてしまうのではないかと慄く。そして、そんな激情を覚えた自分に、さらに驚いた。こんなことを思う自分がいるとは、思いも寄らなかった。
それでも。
いずれ自分はこの欲を、目の前の存在にぶつけてしまうだろう。大事な存在だと思いながら、それでも全てを暴いて手に入れたいと言うこのしげき思いは、グラグラと自分の中で沸き立って収まる気配がない。自分でも引くほどの独占欲。持て余すほどの情炎。
気付かれたら嫌がられて逃げ逃げられるかもしれない。
それでも、自分の手の中に抱え込んで、閉じ込めて、決して離せない。
――悪いな、坂道。
その時坂道は怖がるだろうか。嫌がるだろうか。それでも、もう気付いてしまったら手放せない。
だから、今はまだ。
お前に知られるまではまだ。
ただ憂鬱なだけだった雨から、二人で歩む嬉し雨。振り込められるのを言い訳にして。この時に浸っていよう。
-- end