サヨナラのウラガワ 2
サヨナラのウラガワ 2
契約をした。
殺そうとしていた男であり、私に間違いではないと気づかせた男と――――。
未熟で、魔術師と呼ぶには滑稽なほどの魔術回路しか持たない、魔力量も雀の涙のような、その上、自身の元となった存在の、衛宮士郎と……。
Back Side 4
朝食の後片づけを終えたアーチャーを、士郎は珍しく、いや、初めて新都へ行こうと誘ってきた。
まだ洗濯が終わりきっていないと言いかけたアーチャーに士郎は何も言わせず、いつになく強引に衛宮邸を連れ出した。
それが凡そ一時間ほど前のことだ。
今、手渡された鍵と紙袋を手に、アーチャーは言葉もなく、ただ閉まった扉を眺めている。
士郎の言葉を一言一句思い出しながら反芻していた。まるで自動再生のように繰り返される映像が頭の中でグルグルと回っている。
まず、“ここを使え”と、1DKのマンションに引き入れられた。
そして、鍵と金融機関の封筒と補給剤なる物が入った紙袋を手渡されている。
眺めていた玄関の扉から手元に視線を移すと、封筒の中は予想に違わず現金のようで、もう一つの小さな紙袋が補給剤というものらしく、微かな魔力が感じられた。鍵の方はというと、キーリングにスペアキーを含めた三本の鍵が付けられている。
“魔力は三日に一度運んでくる”
“ここで何をしてもいい”
“アーチャーは自由だ”
耳鳴りのように士郎の声が繰り返し、わんわんとハウリングを起こしたように響きだす。その言葉を何度思い返しても、欠片も理解できない。
「っ……」
そのうちに、何やら頭の芯が痛みはじめ、こめかみを押さえる。
“あのさ、あれ、なしな”
さらに吐き出された士郎の言葉の意味がわからず訊き返すと、恋人だと言ったのは、つきあうというのは、なしだと言い直していた。
「あれは……なし……」
ぽつり、とこぼせば、何やら胸が苦しい。ものが詰まったような感じがする。
「恋人……では、ない……」
士郎が否定したのならば、アーチャーは士郎の恋人ではない。
「好きでは……ない……」
頭の天辺から冷えていく錯覚に陥る。
「なぜ…………」
士郎にぶつけられなかった疑問が、今ごろになってこぼれていった。
士郎とアーチャーが契約を交わしたのは、聖杯戦争が終結した直後のこと。座に還ろうとしていたアーチャーは、意味も理由もなく現界することになり、特に望んでいた契約でないだけに、あらゆることになげやりで、どうにでもなれ、という気持ちを隠しもしないままだった。
はじめのうちはそんなふうに過ごしていたアーチャーだが、マスターとなった士郎とともに、かつての自宅で、かつて生きた町で、アーチャーはごくごく普通の、英霊と呼ばれるモノがするにはあまりにも滑稽な暮らしというものをはじめて、次第に自身がかつての生活というものに馴染んでいくのを感じた。
こんな日々があったな、と懐かしさが去来する。
ノスタルジックな気分になった、というような単純な話ではないが、少しアーチャーの心持ちに変化が表れたのだ。
限りがあるとはいえ、自身の英霊としての時間にすれば一瞬のようなこの日々を、受け入れていこうという気になった。どのみち、座に還れば記録として整理される時間になる。であれば、やったことがないと思うことをしてみるのも一興だ、と。
ただし、やったことの有無というのは曖昧である。アーチャーが人であったころのことを覚えているかと言えば、たいして覚えていないわけなのだから。それでも、
――――衛宮士郎を鍛え直すのも悪くない。
などと、少々嗜虐的な気分で、士郎との主従関係を続けることに前向きになった。
何はともあれ、アーチャーの現界生活がスタートしたわけだが、誰かとともに生活するということは、否が応にもその同居人と顔を合わすということだ。
サーヴァントだからといってアーチャーも例外ではなく、士郎と望まなくても毎日顔を合わす。とりわけ家事に勤しもうとすれば、ほぼ百パーセントの確率で出くわす。
互いに朝っぱらから険悪な気配を発しては、朝食目当てに訪れる士郎の姉代わりの能天気さがその空気を中和する、という流れになる。それが毎度のことになり、士郎もアーチャーも少し大人になろう、とそれぞれが思い至り、互いに少しづつ譲歩することが増えていった。
そのうちにアーチャーが気づいたのは、マスターである士郎の、己に対する視線や態度。
呆けたように眺められていることもしばしば、身長差があるために滅多にないが、目が合うと、だんだんとその皮膚が赤みを帯びて熱を上げていく様子。背後からならバレないとでも思っているのか、突き刺さるような無遠慮な視線……。
――――これは、わかりやすい……。
誰が見てもわかる。おそらく気づいていないのは、当の本人だけだ、と少々頭を抱えたくなりながら士郎の熱視線をやり過ごすにとどまっていた。しかし、そんなアーチャーをそっとしておいてはくれないお節介な“あくま”がいるのだ、士郎の師匠として……。
「ねえ、アーチャー。衛宮くんのこと、どうするの?」
とは、かつてのマスター・遠坂凛の苦言だ。
休日に訪れた凛は、セイバーと士郎が買い物に出たのを見計らい、そう訊ねてきた。例に漏れず、凛も士郎の様子には気づいている。見るに見かねて、といったところだろうが、アーチャーにしてみれば、大きなお世話だ。できればそっとしておいてほしい案件である。
「どうするも何も、どうもしないが?」
率直に答えたアーチャーは、ガンドを構えた凛に半日追い回される羽目に陥った。
「っで、では、っ、どう、しろ、と?」
ぜぇはぁと肩で呼吸を繰り返しながら、常に魔力不足である身に鞭を打って逃げ回ったアーチャーは凛に訊ねる。
「どうにかなっちゃいなさいよ」
なんて無責任なセリフを吐くのだ、このあくま。とは口にせず、アーチャーは困惑をその顔いっぱいに表した。
「いいじゃない。衛宮くんだって、すぐに正気に戻るわよ。少しの間の辛抱よー」
「……今は、正気ではない、と?」
なぜか釈然としない気がする己に首を捻りながら、アーチャーは凛に訊ねる。
「当たり前じゃない。目の前に目指す姿の自分がいるのよ? そんな理想を前にして冷静でいられると思う?」
凛の言葉は、もっともだと思った。士郎が色恋に疎いということは嫌でも知っている。そのような思考に陥ってしまうのもわかる。
少々理不尽な話に乗せられている気はしたものの、単なる憧れを勘違いしている士郎の目を覚まさせなければ、という気遣いが数パーセントはあった。が、大部分はアーチャー自身、士郎のその感情に興味が湧いた、というようなところだ。
自身の感情と勘違いしていた理想――正義の味方になることを本気で語る士郎が、自ら抱く感情とはどういったものか。
士郎が自ずと湧かせる感情にどう向き合うのか。
それが見てみたい。
興味本位とはいえ、気持ちが固まるとグズグズしてはいられない。現状に居心地の悪さもあることから、アーチャーは珍しく能動的になった。
「衛宮士郎、貴様、私が好きだろう」
契約をした。
殺そうとしていた男であり、私に間違いではないと気づかせた男と――――。
未熟で、魔術師と呼ぶには滑稽なほどの魔術回路しか持たない、魔力量も雀の涙のような、その上、自身の元となった存在の、衛宮士郎と……。
Back Side 4
朝食の後片づけを終えたアーチャーを、士郎は珍しく、いや、初めて新都へ行こうと誘ってきた。
まだ洗濯が終わりきっていないと言いかけたアーチャーに士郎は何も言わせず、いつになく強引に衛宮邸を連れ出した。
それが凡そ一時間ほど前のことだ。
今、手渡された鍵と紙袋を手に、アーチャーは言葉もなく、ただ閉まった扉を眺めている。
士郎の言葉を一言一句思い出しながら反芻していた。まるで自動再生のように繰り返される映像が頭の中でグルグルと回っている。
まず、“ここを使え”と、1DKのマンションに引き入れられた。
そして、鍵と金融機関の封筒と補給剤なる物が入った紙袋を手渡されている。
眺めていた玄関の扉から手元に視線を移すと、封筒の中は予想に違わず現金のようで、もう一つの小さな紙袋が補給剤というものらしく、微かな魔力が感じられた。鍵の方はというと、キーリングにスペアキーを含めた三本の鍵が付けられている。
“魔力は三日に一度運んでくる”
“ここで何をしてもいい”
“アーチャーは自由だ”
耳鳴りのように士郎の声が繰り返し、わんわんとハウリングを起こしたように響きだす。その言葉を何度思い返しても、欠片も理解できない。
「っ……」
そのうちに、何やら頭の芯が痛みはじめ、こめかみを押さえる。
“あのさ、あれ、なしな”
さらに吐き出された士郎の言葉の意味がわからず訊き返すと、恋人だと言ったのは、つきあうというのは、なしだと言い直していた。
「あれは……なし……」
ぽつり、とこぼせば、何やら胸が苦しい。ものが詰まったような感じがする。
「恋人……では、ない……」
士郎が否定したのならば、アーチャーは士郎の恋人ではない。
「好きでは……ない……」
頭の天辺から冷えていく錯覚に陥る。
「なぜ…………」
士郎にぶつけられなかった疑問が、今ごろになってこぼれていった。
士郎とアーチャーが契約を交わしたのは、聖杯戦争が終結した直後のこと。座に還ろうとしていたアーチャーは、意味も理由もなく現界することになり、特に望んでいた契約でないだけに、あらゆることになげやりで、どうにでもなれ、という気持ちを隠しもしないままだった。
はじめのうちはそんなふうに過ごしていたアーチャーだが、マスターとなった士郎とともに、かつての自宅で、かつて生きた町で、アーチャーはごくごく普通の、英霊と呼ばれるモノがするにはあまりにも滑稽な暮らしというものをはじめて、次第に自身がかつての生活というものに馴染んでいくのを感じた。
こんな日々があったな、と懐かしさが去来する。
ノスタルジックな気分になった、というような単純な話ではないが、少しアーチャーの心持ちに変化が表れたのだ。
限りがあるとはいえ、自身の英霊としての時間にすれば一瞬のようなこの日々を、受け入れていこうという気になった。どのみち、座に還れば記録として整理される時間になる。であれば、やったことがないと思うことをしてみるのも一興だ、と。
ただし、やったことの有無というのは曖昧である。アーチャーが人であったころのことを覚えているかと言えば、たいして覚えていないわけなのだから。それでも、
――――衛宮士郎を鍛え直すのも悪くない。
などと、少々嗜虐的な気分で、士郎との主従関係を続けることに前向きになった。
何はともあれ、アーチャーの現界生活がスタートしたわけだが、誰かとともに生活するということは、否が応にもその同居人と顔を合わすということだ。
サーヴァントだからといってアーチャーも例外ではなく、士郎と望まなくても毎日顔を合わす。とりわけ家事に勤しもうとすれば、ほぼ百パーセントの確率で出くわす。
互いに朝っぱらから険悪な気配を発しては、朝食目当てに訪れる士郎の姉代わりの能天気さがその空気を中和する、という流れになる。それが毎度のことになり、士郎もアーチャーも少し大人になろう、とそれぞれが思い至り、互いに少しづつ譲歩することが増えていった。
そのうちにアーチャーが気づいたのは、マスターである士郎の、己に対する視線や態度。
呆けたように眺められていることもしばしば、身長差があるために滅多にないが、目が合うと、だんだんとその皮膚が赤みを帯びて熱を上げていく様子。背後からならバレないとでも思っているのか、突き刺さるような無遠慮な視線……。
――――これは、わかりやすい……。
誰が見てもわかる。おそらく気づいていないのは、当の本人だけだ、と少々頭を抱えたくなりながら士郎の熱視線をやり過ごすにとどまっていた。しかし、そんなアーチャーをそっとしておいてはくれないお節介な“あくま”がいるのだ、士郎の師匠として……。
「ねえ、アーチャー。衛宮くんのこと、どうするの?」
とは、かつてのマスター・遠坂凛の苦言だ。
休日に訪れた凛は、セイバーと士郎が買い物に出たのを見計らい、そう訊ねてきた。例に漏れず、凛も士郎の様子には気づいている。見るに見かねて、といったところだろうが、アーチャーにしてみれば、大きなお世話だ。できればそっとしておいてほしい案件である。
「どうするも何も、どうもしないが?」
率直に答えたアーチャーは、ガンドを構えた凛に半日追い回される羽目に陥った。
「っで、では、っ、どう、しろ、と?」
ぜぇはぁと肩で呼吸を繰り返しながら、常に魔力不足である身に鞭を打って逃げ回ったアーチャーは凛に訊ねる。
「どうにかなっちゃいなさいよ」
なんて無責任なセリフを吐くのだ、このあくま。とは口にせず、アーチャーは困惑をその顔いっぱいに表した。
「いいじゃない。衛宮くんだって、すぐに正気に戻るわよ。少しの間の辛抱よー」
「……今は、正気ではない、と?」
なぜか釈然としない気がする己に首を捻りながら、アーチャーは凛に訊ねる。
「当たり前じゃない。目の前に目指す姿の自分がいるのよ? そんな理想を前にして冷静でいられると思う?」
凛の言葉は、もっともだと思った。士郎が色恋に疎いということは嫌でも知っている。そのような思考に陥ってしまうのもわかる。
少々理不尽な話に乗せられている気はしたものの、単なる憧れを勘違いしている士郎の目を覚まさせなければ、という気遣いが数パーセントはあった。が、大部分はアーチャー自身、士郎のその感情に興味が湧いた、というようなところだ。
自身の感情と勘違いしていた理想――正義の味方になることを本気で語る士郎が、自ら抱く感情とはどういったものか。
士郎が自ずと湧かせる感情にどう向き合うのか。
それが見てみたい。
興味本位とはいえ、気持ちが固まるとグズグズしてはいられない。現状に居心地の悪さもあることから、アーチャーは珍しく能動的になった。
「衛宮士郎、貴様、私が好きだろう」
作品名:サヨナラのウラガワ 2 作家名:さやけ