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失いたくないから

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 荷物はおろか、人間がいたような形跡もない。ただ真っ白な真新しいベッドが横たわっているだけだった。
 沙友理の背筋に、悪寒が走った……。
 通りすがった看護師に、息を落ち着かせてから、問いかけてみる事にする。
 沙友理の瞼に、涙が滲んだ。
「あの……」
「はい? 何でしょう」
「美崎、順也さんは……、どうしましたか」
「美崎……さん。ちょっと、わかりませんけれど。ここの病室には誰も入院していませんけれど」
「そう、ですか……」
 沙友理は走り出した――。悪寒が走る……。
釜桑折神社が、今回の祈願で奪ったもの、それは……。
 美崎順也だ――。
 彼自身が、いなかった事になっている。
確信のような悍(おぞ)ましい事実が頭の中を汚染していく。
息が切れる事も、何もかもがどうでもよかった。
向かう先は、釜桑折神社だった。
小山のような雑木林を五分ほど抜けると、古めかしい釜桑折神社が目の前に現れた。
沙友理は社に叫ぶ。
「私の大事なもんから何か奪うんやろ!」
 大馬鹿野郎……。
 返して。
「私から、順也奪うって、何やそれぇ!」
 許さない。
 神様だって、承知しない。
「返してよ! 返し……、私のっ、好きな人なんよっ……」
 どうして、こんな事って……。
 昨日まで、笑っていた笑顔が。もう見られないって……。
「順也が好きなんよっ……、まだ……何も伝えてない……好きだった事さえ!」
 五年前、出逢ったその日から、たぶん、私は順也を好きだった。
 またね、て……。ありふれた言葉を頼りに、お互いが手を取り合うように、五年間そうして生きてきた。
 よく私を笑わせてくれた。得意がって、私を笑顔にする……。
「順也ぁぁ、愛してるぅ…うう…、順也が好きぃ……」
「沙友理……」
 泣きわめくのをやめて、その瞬間に、もう懐かしいその声に振り返っていた。
 太い樹の幹の前に、順也の姿があった。
 彼は、少しだけ、悲しそうに笑っていた。
「神様が、最後に一目会いたいって、言ったら叶えてくれた……」
「嫌や……、嫌やー、いっちゃ嫌やー」
「そこで少し、聞こえちゃった。だからじゃないけど、俺も言うよ」
「っ……」
「沙友理が、好きだ」
「っひっ……、うあーん」
「愛してるよ、沙友理。君と一緒に歩くのが夢だった」
「私が消したのぉ……、順也が、私の大事なもんやったから、知らなくて……」
「いいんだ。いいんだよ、沙友理……」
「嫌やぁ……、五年も好きやったのに、やっと言えたのにい……」
「さようならは言わない。ただ、君を抱きしめたいな」
 醜(みにく)く子供のように泣きじゃくりながら、沙友理は、順也の首に両腕を回して、強く抱きしめてもらう。
 涙が止まらなかった。温かい感触……。ただそうしている事が、こんなにも幸せなんだと、気付かせてくれた人。
 順也が愛しくて、仕方がなかった。
「先生から、大体は聞いてる。お姉さんが深刻な大病にかかってしまっている事」
「治ったっよ……、っう……なおっだ」
「泣くなよ。ふふ、うん……。沙友理が願い事を使う事も、わかってたよ」
「ごめんねぇっ…ごべんなざいっ……」
「だから、俺は退院できたんだよ。今日ね」
「?」
 なんとなく、感触でも伝わってきた。たった今――。順也がハサミを使って、沙友理の後ろ髪を切り落とした事……。
 沙友理は、泣き濡れた瞳で、順也の顔を見上げる……。
「沙友理が大きな願いを使って、お姉さんの病気を治す事はわかってた……。だから、俺はゆうべ病院を抜け出して、釜桑折神社、つまり……ここへ願いをしに来たんだ」
「……え?」
 わけがわからぬままに、ただただ、強く抱きしめてくれる順也の両腕の力だけを信じた。
「沙友理の願い事の代償を、俺に消させてくれ、て……祈った」
「け…す?」
「ああ。沙友理がお姉さんの為に無くしたものは、たった今、俺が切り落とした、沙友里の髪の毛だよ」
「……」
「命の次に大事な髪だろ?」
「えっ……え……」
「そして、俺も願った分だけ、無くした大事なもんがある……。沙友理がいつもいつも、通い続けてくれた、俺の宝物の、入院生活だ」
「えっ……」
「大事な入院生活を失って、今日の午前中に突如、退院を迫られたのは俺です。はっは、神様が、時間をくれた、てのは嘘。沙友理はきっといなくなった俺に気付いて、ここに文句を言いに来るなって思ったから、少し待ってたんだ……。待っててよかった」
「いなく、ならないの?」
「ああ、もう入院もしない」
「ずっと?」
「ずっとだ。一緒に歩く」
 息ができないほどに。温かな涙が矢継ぎ早(やつぎばや)に頬を流れていった。
 順也は笑っている。
「でも、看護師さんが、美崎なんか、知らないって……」
「今週付けで辞めた看護師が二人いたから、補充したんだろうな。しかも、山根さんって人だったら、あの人は適当だから……」
 強く抱きしめ返した。
 失いかけて、互いを許し合えた。
 これ以上、何を望むのだろう。
 何も、いらない。
 二人がいれば。
「映画に行こう」
「……っふ、ふぇーん……」
「泣くなよ」
「泣きたくもっ、なるよっ……」
「あ、愛してるか……」
「うん。愛してる……」
 それ以来、松村沙友理が釜桑折神社を訪れる事はなかった。名前が、美崎沙友理に代わってからも、それは同じである。
もう二度と、失いたくないから。

                                   完
     あとがき


 さゆりんごの主演する作品を何にするのかは、最後まで悩み抜きました。最終的にタイトルに当てはまる内容を選んだというよりは、内容にぴったりの魅力的なタイトルに惹かれてこの作品に決定しました。
 言ってしまうと、さゆりんごの相手役においては、どのような感じにするか試行錯誤した上で、特に魅力的なさゆりんごと同年代の男の子風にしました。描いていて、涙せずにはいられなかった場面もあります。運命を相手にしても、最後まで絶対に沙友里を守り、己の運命さえも好転させてしまうという、タンポポ的に勇者のような相手を創り上げる事で、なんとかさゆりんごを安心してヒロインとして彼に預けられました。とても気に入っている作品です。さゆりんごが主演の物語はまた描きたいですね。
 なんとしても確立させていきたいのが、超超短編集、という形です。今回の作品ではその感触が大いに掴めました。ちなみに、釜桑折神社ですが、『釜桑折』『がまごおり』という名前の由来は、偶然録画番組を整理していて、『キルラキル』というアニメを懐かしく観たのです。そこに登場するキャラクターで『蒲郡苛』『がまごおりいら』という一番私が気に入っている人がいるのです。彼から『ガマゴオリ』を貰いました。漢字は違いますけどね。『蒲郡』は確か愛知県に存在しますね。
 今月中に、あと五本は描きたいです。それでは、次の作品でまたお会い致しましょう。



                             二千二十年九月五日
作品名:失いたくないから 作家名:タンポポ