失いたくないから
賽銭箱も鈴もない為に、これでいいのかと躊躇(ちゅうちょ)したが、これで一回目の願い事は叶ったのだと心に言い聞かせて、しぶしぶと帰路につく事にした。
そういえば、今日は昼に何も食していなかった為、酷く腹がなっていた。とはいえ、酷く減りすぎた腹の破壊力は凄まじく、みるみるうちに、時間にしてほんの数十分で炊飯器三合分の白米をぺろりと平らげてしまった事には我ながら驚かされた。
風呂を済ませ、自慢の長い髪を乾かし終えた後は、ごくりと唾を呑んでから、本棚の本を慎重に数えた。
しかし、一冊として新しく消えている本はなかった。昨日消えた、お気に入りの漫画の一巻が消えたままになっているだけである。
まあいいか――と、沙友理はベッドに寝転んで、携帯アプリで音楽鑑賞の用意をする。両耳にイヤホンをして、アプリ内の楽曲を選曲しているうちに、お気に入りに登録してある楽曲が、一曲だけ消されている事にはっとなった。
「嘘やん……、音楽が、消えた……」
確かにそれは自分で削除したものではなかった。沙友理は口元が笑いだそうとするのを制する。これは、願いが成就した証に違いない。そう思い込む。
案の定、翌日、先輩の職員から、新人が入ったので、裏部屋の掃除は新人に簡単に教えるだけでいいと伝えられた。
「ほんまやねん!」
「嘘だとは言わないけど……。偶然じゃないの?」
「ほーんまやねん!えへーん。信じてへーん」
その日の午後の面会になんとか間に合った沙友理は、事の全てを順也に打ち明けた。
「信じてへんやろ?」
「いや……、信じる」
「間があーるー」
「いや、ほんと。信じるよ」
「ほんまねんで? 凄ない? 願い、叶いまくりやないか」
「願い事がしょぼい」
「だあって……、そんな、願いなんて、基本ないし」
「あと、願う頻度が高い」
「だあってえー……」
「叶う願いなら、まあ願った方が得だろうけど。それにしてもしょぼい」
「だったら、順也だったら何願うん?」
「俺、だったら……。何も願わない」
「何で?」
「しっぺ返しが怖いかな」
「あー、まあね……。でも、小さい願い事なら、小さい物しか無くならないんじゃない?そう思わへん?」
「偶然だと思うけどね」
「あー、信じてなーい」
「沙友理は綺麗だし、食べたいものを好きなだけ食べても、太らないんだから。願い事なんかいらないよ」
「あーんわかってへーん。ダイエットめっちゃしてるしー」
「ほら、また笑った」
「ん?」
「沙友理を笑わすのが、俺の得意技なんだ」
「何それ。変なの」
沙友理は完全に味を占めた。釜桑折神社に行けば、願いが叶う……。
それからは事ある毎に釜桑折神社へと赴(おもむ)き、他愛もない願い事を叶えた。消えるものは、やはり、沙友理の身近にある大事なものであった。しかし、沙友理は何かが消える度に何か気に入ったものを買い足すようにしていた。その為、今のところは願い事の為に被(こうむ)った痛い深手はない。
「順也は何か、欲しいものはないん?」
「今のままでじゅうぶんだよ、俺は」
「何でー?」
「沙友理が、会いに来てくれるし。二か月に一度、理髪店が髪を切りに来てくれるし。俺は何処に行かなくても、じゅうぶん幸せ者だよ」
「順也と映画行きたいなぁ……、あ。ごめん」
「何で謝るんだよ。謝らなきゃいけないのはこっちだって。俺も一緒に行きたいけど、いけないからね」
「……」
「何が観たい?」
「えー……。ラブストーリー」
「出た。ザ、女の子」
「ロマンティックなやつがいい」
「俺と一緒にそれを観たいの?」
「うん。何でぇ? ええやん」
「そっか……。じゃあ、俺もそれがいいな」
「あ……。時間や」
「そう、もうか。早いな……。またね」
「またね」
2
姉の病が発覚したのは、順也との面会が終わってから、二時間が経過した頃だった。声色を変えた母からの電話で、篠山医院に姉が緊急入院した事を知らされた。
沙友理は突き付けられた事実に、愕然とする。
姉の病名は癌で、余命は一か月との事だった……。
面会時間が終わっている為、すぐに姉に携帯電話で連絡した。余命の事は、姉には知らされていないとの事だった。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「あは、沙友理。大袈裟やねん、お母さんも、沙友理も」
「だって、緊急入院って……」
「ちょっと内蔵のよーわからんとこが悪いだけやって。そんな心配そうな声出して、ほんま可愛いなあ、沙友理は。それより、順也君は元気なん?」
「うん……、元気にしとるよ」
「まだ篠山さんに入院してるん?」
「しとる」
「そっかあ……。ご近所さんになってもうたなあ」
「お姉ちゃん……。大丈夫だからね」
「ん? そやかて、大丈夫、ゆうてるやろ」
「心配せえへんといて。私が……、私がなんとかするから……」
「あんたは順也君と仲良うしとればええんよ、私はいいから。あ、お見舞いもいらんで?」
「お姉ちゃん……、絶対……、私がなんとかするからね……」
「沙友理、あんた、泣いてんの……」
頭の中で何度も何度も考える――。しかし、やはり沙友理がひねり出す答えは変わらなかった。釜桑折神社で、姉の病を治してほしいと、祈願するしかない。
しかし、これほどに大きな願い事は今までにした事がない。もし、願ってしまえば、どれほどのリスクがあるかわからない。
けれど、幼き日の姉との思い出が次々に蘇っては、シャボン玉のように儚く消えていく。さよならなんて、到底できない。まだ若い姉を諦められない。いつも優しく大きな存在であった姉を放ってはおけなかった。
次の日、沙友理は決心をそのままに、朝日のまだ新しい釜桑折神社へと出向いた。
どんな大きな反発があるか、想像さえつかない……。
でも、姉が生きていてくれさえすれば。
「願います……」
最悪、私の命を取って下さい、神様……。
家族を、救って……。
「お姉ちゃんの、病気を……、治して下さい……」
後悔はない。これで姉が助かる事は保証されただろう。
どこからともなく、体中の力が抜けていった。なんとか振り絞る気力で家までの帰路を歩き切ったが、辿り着いた後は、ソファに倒れ込んだ。
さて、何が消えたのか――。姉の病は完治したのか……。今はそのどちらもの確認をできないほどに疲労困憊(ひろうこんぱい)であった。
やけに、瞼が重たい。酷い眠気が襲ってきた。
いつの間にか、沙友理はソファに寄り掛かったままで、眠りについていた。
翌朝、すぐに篠山医院に向かった。疑問に満ちた顔を突き返す医師に、何度も再検査をして欲しいと繰り返しお願いした。
結果、信じられない、という医師の言葉をそのままに、姉の内臓から、すっかり癌の影は消え去っていた。面会に行った後、姉には「ほらね」と」言われてしまったが、それがやけに泣けてきた。
沙友理は安心に満ち足りた思いで、順也への報告に急いだ。314号室に到着して、その目を疑う。もう一度、室内番号を改めて確かめてみた。
314号室で、あっている。
窓の外から吹き付ける真夏の風に、窓際のカーテンが靡(なび)いていた。
順也が、いない……。