その両手をポケットにしまいたい。
その両手をポケットにしまいたい。
作 タンポポ
1
否応なしの猛暑日であった今日の日射も、この頃になると何処かに拡散し、分散し、蒸散し、今は消えている。
港区にあるとある住宅街。戸建てがメインで、マンションがあってもごく一部で低層である。一戸の区画が大きく、街に規模感があり、実にデザイン性の高い住まいが密集している。道路がしっかりと整備されていて、幅が広い。地震大国である日本の権威ある建築学会の評価としても、そこは高級住宅街として歴史あるものといえた。
彼女はタクシーを降りる。生温かな一陣の風が吹くと、長く美しい髪がそっくり肩を隠して揺らめいた。
躊躇(ちゅうちょ)もなく、眼前に聳(そび)え立つ二階建ての打ちっぱなしコンクリートの一軒家へと脚を進める。簡素な庭には一本の大きなモミの木が立っている。それを一瞥(いちべつ)もせずに、庭に挟まれるように短く延びた小径を歩き、正面玄関で立ち止まる。
玄関の左やや上方に設置してある虹彩(こうさい)認識システムに、彼女はその煌めくような瞼(まぶた)を近づかせた。ピピ、と短い電子音が鳴った。
虹彩認識システムとは、生体認証技法の一つで、個人の眼の虹彩の高解像度の画像にパターン認識技術を応用して行われる。
虹彩の複雑な模様を画像として得るため、角膜からの鏡面反射をなるべく起こさないよう、微かな赤外線照明を用いてカメラで撮影する。その画像をデジタルに変換し、数学的処理を施すことで、個人に固有な特徴を抽出する。いわゆるデジタルコンプレートである。
彼女はコンタクトレンズをしていたが、虹彩認識の認識力は、眼鏡やコンタクトレンズをしていてもほとんど落ちない。ほとんどの個人に適応可能な生体認証技術であり、一度デジタルコンプレートを作成すれば、外傷などを負わない限り、生涯に渡って利用可能なのである。
つまり、それがこの家のドアロックを解除する、唯一のキーであった。
室内に入ると、多少広いと形容できる空間があるだけで、部屋へと続くドアや、二階へと続く階段などは見当たらない。ただ室内の中心に、大型のエレベーターが存在するだけであった。
エレベーターの表記は、地上一階から二階、地下二階から地下二十二階まである。
彼女は恐ろしく整った情的な無表情のままで、か細い指先をエレベーターのボタンへと運ぶ。室内の必要以上に眩しい照明器具のせいで、左腕にしているエルメスのシルバー性のブレスレットが鈍く反射していた。
巨大なストローのようなエレベーター内に入り、彼女は軽く咳払いをし、服装を直す。ヴィヴェッタのマスタードカラーのトレーナーシャツと、エメラルドグリーンのワイドパンツだった。
短い暗黒の景色を抜けると、やがて天井の高い広々としたフロアに到着した。地下巨大建造物<リリィ・アース>地下二階フロアである。
彼女はほぼ無表情のままで「お」と片手の手の平を向けて、友人に挨拶をした。
「ようこそ、飛鳥ちゃん……。よく来てくれました。大歓迎です」友人は、精彩な笑顔で応えた。「眩しい……、眩しすぎる……。飛鳥ちゃん、首傾げてみて」
齋藤飛鳥(さいとうあすか)は、思考を中断させたまま、スタティックに友人を見つめたままで、小首を傾げてみる。
風秋夕(ふあきゆう)は、瞬時に身動きを止められた――。大きく眼は見開き、口は緩んだまま、まるで悪魔にでも魔法をかけられたかのようにフリーズする。
「……」
「ん? なに?」飛鳥は、小さく鼻を鳴らして笑った。「なんですか?夕君ちゃんとして」
「ああ……、ごめんね」夕はふう、と溜息を吐いて、にこり、と微笑む。「あまりに、齋藤飛鳥ちゃんすぎて……、少々恋をしていました」
「ふ」飛鳥は苦笑する。
二人は<応接間>とプレートされた目の前にある南側の巨大なドアを後にして、ちょうどエレベーターの裏手側にある、巨大ホールのようなエントランスのフロアへと歩き出した。
無論、今年流行しているコロナウィルスの為、二人の間には充分といえるソーシャルディスタンスが保たれているし、どちらもがマスクをしていた。
高い照明に照らし出された空間は、明るい印象派の絵画のようなピクチャーを形成させている。床には一面に幾何学的な模様の絨毯が敷き詰められていた。
「何回来ても広いなぁ……」飛鳥は、辺りを見回しながら呟いた。
「もっともっと来てください」夕は、端正な顔立ちをにこやかにして言う。「飛鳥ちゃんの部屋に、住んだっていいんだから……。せっかくリリィ・アースに、飛鳥ちゃん専用の部屋があるんだよ?」
「まあ……、住みませんけど」飛鳥は、夕を一瞥もせずに、素っ気なく言う。「はー……、涼しい」
「まちゅ達だって、帰らない時は、帰らないで利用してるよ?」
「松村先生は松村先生」飛鳥は、ショルダーバッグを一度担ぎ直してから、夕を見て言う。「私は私だから」
「まあ、飛鳥ちゃんが来てくれてるだけで、リリィも喜んでるよ」そこで夕は、東側のラウンジを指差した。「疲れてるだろうから、ここで休んじゃう?」
「え……。ここでも、食べれるの?」飛鳥は、瞼をぱちくりとさせて、ラウンジのソファ・スペースを見つめる。夕はうん、と頷いていた。「食べれるんなら、ここ……でもいっか。お腹すいてるし……」
「OK」
フロアの東側の壁際には、ソファ・スペース、壁に内蔵された大型テレビ、BAR・カウンターなどがあり、巨大な扉が一つあった。
西側も東側とほぼ同一の造りになっている。特徴があるとしたら、西側と東側の物の配置がシンメトリーになっている事である。無論、巨大な扉もそうである。
「え?他に誰も来てないの?」飛鳥が不思議そうにきいた。
「乃木坂は何人か来てるみたいだよ」夕は答える。「俺が来る前に来てくれてたみたいで、たぶん、寝てるんだと思う……。部屋でくつろいでるか」
「ふうん……」
風秋夕が片手をソファへとかざしたので、齋藤飛鳥は先にソファへと腰を下ろした。
「ここで食べれるんだぁ……。あ、ほんとだ、エレベーターがある」
ソファ・スペースの後ろ壁に、小型のシャッターがあった。その手前にキャスタの付いたキャビネットが数台置かれている。
この小型シャッターは、実は<レストラン・エレベーター>と呼ばれる、主に料理などを運ぶ為のエレベーターになっていて、地上一階にて駐在しているシェフ達に、二十四時間制限無く、自由な時に好みのメニューを注文できる仕組みになっていた。
「あほんとだ……、メニュー表もある」飛鳥はメニューを両手に開き、視線を落とす。「なーににしようかなぁ……、うん。肉だな、やっぱ」
「アルゼンチン牛うまかったよ。ブラックでいいよね?コーヒー」夕は飛鳥にそう言ってから、天井を見上げて言う。「イーサン!コーヒーのブラックを二つ!アイスで!」
何処からともなく、電脳執事のイーサンの年老いた声が『畏(かしこ)まりました』と応答した。
「アルゼンチン牛……、どこぉ?何ページ?」飛鳥は、メニュー表に視線を落としながらきく。
「イーサンに頼んじゃえば?したら、一番近くのレストラン・エレベーターに、注文届くから」
作 タンポポ
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否応なしの猛暑日であった今日の日射も、この頃になると何処かに拡散し、分散し、蒸散し、今は消えている。
港区にあるとある住宅街。戸建てがメインで、マンションがあってもごく一部で低層である。一戸の区画が大きく、街に規模感があり、実にデザイン性の高い住まいが密集している。道路がしっかりと整備されていて、幅が広い。地震大国である日本の権威ある建築学会の評価としても、そこは高級住宅街として歴史あるものといえた。
彼女はタクシーを降りる。生温かな一陣の風が吹くと、長く美しい髪がそっくり肩を隠して揺らめいた。
躊躇(ちゅうちょ)もなく、眼前に聳(そび)え立つ二階建ての打ちっぱなしコンクリートの一軒家へと脚を進める。簡素な庭には一本の大きなモミの木が立っている。それを一瞥(いちべつ)もせずに、庭に挟まれるように短く延びた小径を歩き、正面玄関で立ち止まる。
玄関の左やや上方に設置してある虹彩(こうさい)認識システムに、彼女はその煌めくような瞼(まぶた)を近づかせた。ピピ、と短い電子音が鳴った。
虹彩認識システムとは、生体認証技法の一つで、個人の眼の虹彩の高解像度の画像にパターン認識技術を応用して行われる。
虹彩の複雑な模様を画像として得るため、角膜からの鏡面反射をなるべく起こさないよう、微かな赤外線照明を用いてカメラで撮影する。その画像をデジタルに変換し、数学的処理を施すことで、個人に固有な特徴を抽出する。いわゆるデジタルコンプレートである。
彼女はコンタクトレンズをしていたが、虹彩認識の認識力は、眼鏡やコンタクトレンズをしていてもほとんど落ちない。ほとんどの個人に適応可能な生体認証技術であり、一度デジタルコンプレートを作成すれば、外傷などを負わない限り、生涯に渡って利用可能なのである。
つまり、それがこの家のドアロックを解除する、唯一のキーであった。
室内に入ると、多少広いと形容できる空間があるだけで、部屋へと続くドアや、二階へと続く階段などは見当たらない。ただ室内の中心に、大型のエレベーターが存在するだけであった。
エレベーターの表記は、地上一階から二階、地下二階から地下二十二階まである。
彼女は恐ろしく整った情的な無表情のままで、か細い指先をエレベーターのボタンへと運ぶ。室内の必要以上に眩しい照明器具のせいで、左腕にしているエルメスのシルバー性のブレスレットが鈍く反射していた。
巨大なストローのようなエレベーター内に入り、彼女は軽く咳払いをし、服装を直す。ヴィヴェッタのマスタードカラーのトレーナーシャツと、エメラルドグリーンのワイドパンツだった。
短い暗黒の景色を抜けると、やがて天井の高い広々としたフロアに到着した。地下巨大建造物<リリィ・アース>地下二階フロアである。
彼女はほぼ無表情のままで「お」と片手の手の平を向けて、友人に挨拶をした。
「ようこそ、飛鳥ちゃん……。よく来てくれました。大歓迎です」友人は、精彩な笑顔で応えた。「眩しい……、眩しすぎる……。飛鳥ちゃん、首傾げてみて」
齋藤飛鳥(さいとうあすか)は、思考を中断させたまま、スタティックに友人を見つめたままで、小首を傾げてみる。
風秋夕(ふあきゆう)は、瞬時に身動きを止められた――。大きく眼は見開き、口は緩んだまま、まるで悪魔にでも魔法をかけられたかのようにフリーズする。
「……」
「ん? なに?」飛鳥は、小さく鼻を鳴らして笑った。「なんですか?夕君ちゃんとして」
「ああ……、ごめんね」夕はふう、と溜息を吐いて、にこり、と微笑む。「あまりに、齋藤飛鳥ちゃんすぎて……、少々恋をしていました」
「ふ」飛鳥は苦笑する。
二人は<応接間>とプレートされた目の前にある南側の巨大なドアを後にして、ちょうどエレベーターの裏手側にある、巨大ホールのようなエントランスのフロアへと歩き出した。
無論、今年流行しているコロナウィルスの為、二人の間には充分といえるソーシャルディスタンスが保たれているし、どちらもがマスクをしていた。
高い照明に照らし出された空間は、明るい印象派の絵画のようなピクチャーを形成させている。床には一面に幾何学的な模様の絨毯が敷き詰められていた。
「何回来ても広いなぁ……」飛鳥は、辺りを見回しながら呟いた。
「もっともっと来てください」夕は、端正な顔立ちをにこやかにして言う。「飛鳥ちゃんの部屋に、住んだっていいんだから……。せっかくリリィ・アースに、飛鳥ちゃん専用の部屋があるんだよ?」
「まあ……、住みませんけど」飛鳥は、夕を一瞥もせずに、素っ気なく言う。「はー……、涼しい」
「まちゅ達だって、帰らない時は、帰らないで利用してるよ?」
「松村先生は松村先生」飛鳥は、ショルダーバッグを一度担ぎ直してから、夕を見て言う。「私は私だから」
「まあ、飛鳥ちゃんが来てくれてるだけで、リリィも喜んでるよ」そこで夕は、東側のラウンジを指差した。「疲れてるだろうから、ここで休んじゃう?」
「え……。ここでも、食べれるの?」飛鳥は、瞼をぱちくりとさせて、ラウンジのソファ・スペースを見つめる。夕はうん、と頷いていた。「食べれるんなら、ここ……でもいっか。お腹すいてるし……」
「OK」
フロアの東側の壁際には、ソファ・スペース、壁に内蔵された大型テレビ、BAR・カウンターなどがあり、巨大な扉が一つあった。
西側も東側とほぼ同一の造りになっている。特徴があるとしたら、西側と東側の物の配置がシンメトリーになっている事である。無論、巨大な扉もそうである。
「え?他に誰も来てないの?」飛鳥が不思議そうにきいた。
「乃木坂は何人か来てるみたいだよ」夕は答える。「俺が来る前に来てくれてたみたいで、たぶん、寝てるんだと思う……。部屋でくつろいでるか」
「ふうん……」
風秋夕が片手をソファへとかざしたので、齋藤飛鳥は先にソファへと腰を下ろした。
「ここで食べれるんだぁ……。あ、ほんとだ、エレベーターがある」
ソファ・スペースの後ろ壁に、小型のシャッターがあった。その手前にキャスタの付いたキャビネットが数台置かれている。
この小型シャッターは、実は<レストラン・エレベーター>と呼ばれる、主に料理などを運ぶ為のエレベーターになっていて、地上一階にて駐在しているシェフ達に、二十四時間制限無く、自由な時に好みのメニューを注文できる仕組みになっていた。
「あほんとだ……、メニュー表もある」飛鳥はメニューを両手に開き、視線を落とす。「なーににしようかなぁ……、うん。肉だな、やっぱ」
「アルゼンチン牛うまかったよ。ブラックでいいよね?コーヒー」夕は飛鳥にそう言ってから、天井を見上げて言う。「イーサン!コーヒーのブラックを二つ!アイスで!」
何処からともなく、電脳執事のイーサンの年老いた声が『畏(かしこ)まりました』と応答した。
「アルゼンチン牛……、どこぉ?何ページ?」飛鳥は、メニュー表に視線を落としながらきく。
「イーサンに頼んじゃえば?したら、一番近くのレストラン・エレベーターに、注文届くから」
作品名:その両手をポケットにしまいたい。 作家名:タンポポ