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その両手をポケットにしまいたい。

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「あ、そうか」飛鳥はパタン、とメニュー表を閉じて夕を見た。「じゃあ、アルゼンチン牛で」
「イーサン!アルゼンチン牛のステーキを一つだ!400グラム!ミニサラダもつけて!」
 電脳執事のイーサンが『畏まりました』とだけ応える。
「ねえ、思ったんだけどさぁ」飛鳥は、少しだけ口元を緩ませて言う。「何でさ、いっつもスーツなの?」
「身だしなみ」夕はそう言いながら、飛鳥に短くウィンクした。
「ほー……。あ、そういうのいらないんで」
 風秋夕は<リリィ・アース>内では、いつでもスーツ姿であった。それは同じく、乃木坂46以外に頻繁に<リリィ・アース>に訪れる他四名も同じであるが――。これは乃木坂46ファン同盟の、五人のコンベンションにより培われた、システマティックな一種のイニシエーションなのである。無論、スーツははるやまである。
「飛鳥ちゃん、マスク外したら?」夕はマスクを外しながら言う。「この距離あれば、大丈夫だよ。暑いでしょ」
「そだね」飛鳥は、マトリョーシカの最後の一人のような小顔からマスクを取って、ショルダーバッグにしまった。
 エントランスフロアの中央には、星形に並んだエレベーターが五台存在する。齋藤飛鳥達がいる東側のラウンジから、ちょうど一番近い角度にあるエレベーターが起動していた。
 強化プラスチック製のエレベーター壁の内部に、地下から一人の男の姿が浮き上がってきた。
 エレベーターのドアが開く。
「やあ、飛鳥ちゃん」
 齋藤飛鳥は、何となく聞こえた声に、そちら側に振り替える。
 尚、風秋夕は一足先に、その男の登場に気が付いていた。
「おお、イナッチ……」飛鳥は横に体を背(そむ)けながら、そちらを見る。「いたんだ……」
 稲見瓶(いなみびん)は風秋夕(ふあきゆう)の親友である。彼もまた、スーツ姿であった。
 稲見瓶は片手を小さく上げて、無表情で飛鳥に言う。「こっちのセリフだね。いたんだ?飛鳥ちゃん」
「今さっき来たところで」飛鳥は、稲見を目線で捉えながら答えた。「イナッチは、もうご飯食べました?」
「いや、食べてない」稲見は、無表情でそう答えると、飛鳥とは別のソファ・ポジションに座る夕を鋭く睨んだ。「来てくれたんなら、教えてくれなきゃ……。約束違反だよ」
「悪い。なんせ、さっきお出迎えしたばっかりなもんで……」夕は視線を反らして、稲見に言う。「イナッチ何処にいたのか知らないし……」
「さては、独り占めにしようとしたね?」稲見は抑揚(よくよう)のない声で言った。表情もないが、これが稲見瓶の標準と言える。「ふうん……。そう。まあ、それはイーサンがいる限り、無理に等しいと思うけどね。独り占めは厳禁だよ」
「声無くして人を呼ぶ、だよ」夕は稲見を一瞥して、飛鳥を見つめる。「飛鳥ちゃんの人徳に、引き寄せられちゃう、てやつ?」
「思い内にあれば、色外に現れる、だね」稲見は、夕に淡々とした口調で言った。「ザ・フェイス・エクスプリセス・ワット・ザ・ハート・フィールズ……。心にあるものを、顔や言動は表す。夕は独占欲が出てる」
「呉牛(ごぎゅう)、月に喘(あえ)ぐ、だな、お前は」
「ねえ、それってケンカしてるの?」飛鳥は、可愛らしい瞼を大きく見開いて、二人を交互に見る。「意味わかんないし……。ことわざ?」
 <レストラン・エレベータ>からアイスコーヒーが二つ届いた。
『お待たせ致しました』と、電脳執事のイーサンの声がラウンジに響く。
「俺のコーヒーはないのかな?」稲見は夕を見る。
「ないでしょうよ……」夕は嫌そうに稲見に言う。「何?エスパーなの俺は?お前の登場を、予期しておけと?」
「喉がかわいたんだけど……」稲見は無表情で言う。
「頼みなよ!」夕は怯えた風に、稲見に叫んだ。「無表情が怖いからさあ!」
「あ、私の、飲みます?」飛鳥は可笑しそうに苦笑しながら、稲見を一瞥して言った。「まだ口つけてないから。大丈夫だよ」
「ありがとう。優しいね。じゃあ、お気持ちだけ」稲見は、指先で眼鏡の縁を持ち上げて、飛鳥に言った。それから、高い天井を見上げる。「イーサン!アイスコーヒーを追加で、一つお願いします!」
 イーサンが応える。
 稲見瓶は北側のソファ・ポジションに座った。齋藤飛鳥は西側、風秋夕は南側のソファ・ポジションにそれぞれ一人ずつ座っている。
 話題が明るいものから深刻なものに変わったのは、齋藤飛鳥と稲見瓶が食事を終えてからだった。
「また例のごとく、なんだけどさ」夕はそう言った後で、深く溜息をついた。「さっきも言った通り、たぶん秋田県辺りに、傷心旅行だと思う……」
「姫野(ひめの)氏って、誰推しなの?」飛鳥は、ストローを口元から放して、二人を交互に見た。「あ、傷心旅行ってことは……、卒業する人か……。推しは」
「ダーリンは箱推し」夕が飛鳥に答える。「ていうか、うちは五人共、箱推しだよ」
「イナッチも?」飛鳥は稲見を見る。
 稲見瓶はピースサインで応えた。無表情であるが、付き合いが一年以上にもなると、これが何処か微笑んでいるようにも受けて取れるようになる。
「え、波平っちも?箱推し?」飛鳥は大きな瞳を瞬(まばた)きさせた。
「波平も。ダーリンも、俺もイナッチも、駅前(えきまえ)さんも」夕はにこり、と口元を微かに引き上げて笑った。「みいんな、箱推し。ダーリンは初期の、一期生から。ああ、俺もイナッチも、波平も、一期生からの箱だけどね……。そういえば……、駅前さんも、初期からファンだったって聞いたことあるな」
「箱推しなんだ……。意外」飛鳥は苦笑する。「西野七瀬、とか、白石麻衣、とか言いそう」
「もちろん大好きだよ」夕はにこやかに飛鳥に言う。稲見も頷いていた。「単推しより、箱推しの方が、幸せは、より欲張りなのかな……。彼女を選ぶわけでもないし……、俺的には超自然現象なんだけど……」
「ふうん…そっかぁ……」飛鳥は、一度視線を泳がせてから、稲見を見る。「そんなもんなの?」
「まあ、恋と同じだけどね、俺の場合は」
「無表情でさあ、怖いよ、お前……」
 齋藤飛鳥は、そこで思い出したかのように、話題を切り替えた。
「えと、何だっけ?姫野氏…だっけ?……が?」
「そう。ダーリンが、秋田に旅立ったの」夕が言う。
「書置きがあったんだよ」稲見は、飛鳥に抑揚のない声で説明する。「つい、昨日かな。俺達ヲタクがよく集まる、<ブリーフィング・ルーム>にね、メモが貼ってあった。<レストラン・エレベーター>の所にね。深すぎる愛情に、また気づかされたので、旅に出ます。探さないで下さいますか草」
 齋藤飛鳥は、風秋夕を見る――。風秋夕はこくり、と齋藤飛鳥に渋く頷いてみせた。
「俺らの父親達がさ、よく避暑地に使ってた場所があるんだよ。秋田にさ」夕はそう言いながら、飛鳥に見とれそうになって、短く深呼吸をしてから言う。「ふう……。センター、とかっていう名前が付いた、二階建ての建物があって、そこで過ごせるようになってるんだよね……。電気も引けるし、まあ、あとは持ち込む物資次第ってとこ。たぶんそこにダーリンがいる。今回が初めてじゃないんだよ、実は」