悪魔言詞録
176.魔王 ベルゼブブ(人)
いや、いつものあの姿になるのはまだやめておくとしようか。
あの姿になるのは簡単なのだが、あの姿は人の子の間にも広く知れ渡っておる。あまりこれみよがしに見せるのもよろしくないだろうからな。
実は、その気になればうら若き乙女や童子の姿をとることもできる。だが、わが輩は今、どうしてもこの姿でいる必要があるのだ。この腹の突き出た人間の男の姿である必要がな……。
思えば、歴史というものをふかんすると、何ものかが何ものかを虐げるという行動の繰り返しであった。
力を持つ少数のものどもがその他大勢を苛み、肌の色や性別、出生地などの小さな違いで人の子が人の子を否定し続ける。それはわれわれ神々の世界でも例外ではなかったのだ。信者の少ない神は忘れ去られるか悪魔とみなされ、信者は異端者とみなされて、彼らも筆舌に尽くしがたい災難に巻き込まれた。
わが輩もそんな神の一柱だった。強い力を持つ神の信奉者から忌み嫌われ、排せつ物やそれにたかるハエの王という座に追いやられたのだ。
そして、長い年月がたった。
今では人の子も力を持ち、遠隔でコミュニケーションを取り、幻想を共有して皆で楽しみを分かち合うような世界となった。しかし、そのような時代となっても、相変わらず人は人をおとしめ続けている。
かつて異教の信奉者に悪魔にされたわが輩は、その事実を常に忘れずに見つめ続けていたいのだ。だからこそ、今はまだ人の形をとっていたい。
魔界の君主のくせに、気の遠くなるほど昔の屈辱を忘れられない、狭量なやつだと思うかもしれない。だが、悪魔というものはそういうものなのだ。昔の仕打ちなど忘れて、幸福になるのが最大の報復である、人の子の中にも気の利いたことを言うものがいるようだが、申し訳ないことにわれわれ悪魔はこの言葉に素直に首肯することはできないのだ。
いずれにしても、少しばかり時間がほしい。わが輩の中で考えがまとまれば、いつもの姿をとるであろうよ。