サヨナラのウラガワ 9
サヨナラのウラガワ 9
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
士郎は平気だと言うが、どう見ても無理をしている。身体的には健康だが、精神的なところは、いまだ病んでいる、と言ってもいいだろう。
だが、士郎は自分自身の状態が理解できていないようだ。私が公園での散歩を提案すれば素直に応じ、日に日に状態を悪化させているというのに、行きたくないと言わない。
強情だ。まったく、誰に似たのだか……。
まあ、私もその部類なので、反省すべき点ではあるな……。いや、私の反省はどうでもいいのだ。
いい加減、士郎には自覚してもらわなければならない、という話だ。公園の早朝散歩で足りないのならば、もっと人が多い場所を選べばいい。そういうわけで、市場へ行くと言えば、さすがに断ってくると思った。が、士郎は断ることもなく、そろそろいける、と言ってこれも了承した。
馬鹿なのか、こいつは。
お前自身のことだというのに、なぜ、そんなにも無頓着に無理をする?
精神的なダメージというものは簡単に克服できるものではない。慎重で、適切な診療を受けるのが常道だろうに……。
このままでは、埒が明かない。
荒療治だが、自分で気づかせないことには、こいつはいつまで経っても無理を通そうとするだろう。
そういうわけで、約束通り士郎を伴って市場へ来てみた。さすがに他人と会話などできないと思い、買い物は私がするので、私についてくるだけでいいと事前に伝えておいた。
わかったのかわかっていないのか、俯いたまま頷いている士郎は、やはり調子が良いようではない。そして、買い物をしてはいるが、私も気が気ではない。
もう戻った方がいいだろう、と喉まで出かかっているが、きっかけがつかめない。背後の気配を常に意識し、フラついている足取りを垣間見れば、いつ倒れるともしれないと、本当にやきもきしてしまう。結局、私が折れることになった。
「これで終わりにしよう。とりあえず必要な食材は揃った。もう帰ろう」
背後の士郎に言ったが、返事がない。まだ大丈夫だと言い張るなら、無理にでも連れ帰らなければならない。ため息混じりに支払いを済ませ、品物を受け取ったと同時、ぱんっ、という破裂音が耳に届いた。
そのすぐあとに子供の泣き声が聞こえ、風船を持った子供と先ほどすれ違ったことを思い出す。何かに当たった拍子に風船が割れたのだろう。特に気にすることもない、市場や街中では珍しくもないことだ。
それなりに大きな音であったために士郎も驚いたようで、振り返った格好で立ち止まっている。
ちょうどいいタイミングだ。私の用も済んだ。士郎も限界のようだし、もう引き返そう。
「士ろ――」
呼ぼうとした士郎の右手に集束していく魔力を感じる。いったいなんだ? と疑問に思ったが、それは、私にも馴染みのある感覚だ。
「投影?」
なぜ、今、投影などする必要があるのか?
士郎はいったい、何をしているのか?
その光景があまりにもありえなくて、しばし呆けていたが、はっとして士郎の右手首を掴んだ。
「何をしようとした」
低く問えば、
「あ……」
急速に薄れていく魔力の流れは、士郎の右手の中で小さなスパークを起こして消えた。
目を剥いたまま私を見上げる士郎の顔は蒼白になっている。まるで血の気が感じられない。
「っ、帰ろう」
返事を聞く前に士郎の手を引いて歩き出す。できるだけ人通りの少ないルートを選んだために少し遠回りになったが、どうにか士郎も歩いてアパートに戻ることができた。
「…………」
何も言葉が浮かばない。
失敗だ。
やりすぎた。
士郎に自ら気づかせようなどと、素人考えが過ぎた。
こんなことに時間をかけるよりも、適切なカウンセリングを受けさせることが正解で、士郎には必要なことだったのだ。
「くそっ……」
思わず毒づき、額に片手を当てて項垂れる。どうして私は自分だけで解決しようとしたのか。くだらない独占欲などに囚われて、士郎をさらに追い込んでしまったではないか。
なぜ、内面の問題を簡単に考えてしまったのか……。
ぎゅ、と空いた拳を握りしめ、ふと、士郎の手首を掴んでいたはずの己の手を見て、はたと思い至る。
私はいつ、手を離した?
思い出したように、連れ帰った士郎はどこか、と顔を上げて、ぐるりと見渡せば、玄関ドアの前で突っ立っていた。
「士郎……」
取り繕おうとしている己に気づき、その先の言葉を私は吐き出せなかった。視線の先の士郎は瞠目して私を凝視している。
私が後悔に苛まれていると、気づかれただろうか?
士郎は青い顔をして、こんな情けない私を見ていたのだろうか?
「ごめん……アーチャー……」
ぼんやりとこぼれていった謝罪は、いったい何についてのことなのか。
「士郎、何を謝る。お前は、」
「殺そうとしたんだ」
私から目を逸らすことなく、士郎は震える声でだが、はっきりと答えた。
しかし、その琥珀色の瞳は芒洋としていて、何も映していないように見える。
「殺されるから、殺さなきゃって……」
ぎくり、とした。それは、守護者であったときに、士郎が唯一思考していた事柄……。
「だから……」
殺さなければ、とボソボソ呟きながら、士郎は自分の部屋へ向かう。
「お、おい、士郎、」
止めようとして呼んだというのに、私は止める気などなかったようだ。ただ、振り返りもせず部屋に入る士郎を見送っただけなのだから……。
Back Side 23
「どういうこと? アーチャー」
「失敗した。悪化した。手の打ちようがない」
市場での出来事の翌日、二日ぶりに仕事から戻ってきた凛は、帰宅早々アーチャーを問い詰める事態に陥っている。
何しろ、士郎が部屋から出てこないというのだ。これは尋常ではない状況だと、まずは世話を一手に引き受けていたアーチャーから尋問をはじめた。
アーチャーは夕食を作りながら経緯を説明し、凛の詰問にも淡々と答えている。
その内容に、その態度に、凛は拳を握り、テーブルに叩きつけた。
「あんたに任せたわよねっ? あんたは手も口も出すなと言ったわよねっ? それがこの体たらくなのっ?」
いちいち強い口調で凛はアーチャーを責める。が、
ドッ!
凛に反発するようにテーブルが鈍い音を立てた。アーチャーの持っていたサラダの器が、乱暴にテーブルに置かれている。
「な、何よ?」
少し尻込みした凛は、それでもアーチャーのことを睨みつけている。
「甘かったと思っている。少々舞い上がっていたのは否めない。士郎をさらに追い詰めてしまったことは、私の思慮のなさが原因だ」
「わ、わかってるんじゃない。なら、どうしてそんなに私に食ってかかってくるのかしら?」
「それは……」
非のない凛にそう言われてはぐうの音も出ず、アーチャーは前の勢いを失った。
「……すまない。私も、動転しているようだ」
「い、いいわよ、べつに。でも、どうするの? これから」
素直にアーチャーが折れたので、凛もこれ以上は責めるつもりはない。ここで口論をしていても士郎の状態は改善しないのだ。であれば、新たな模索をはじめた方が建設的だ。
「解決策を探した」
「え? か、解決策?」
◆◆◆ ◆◆◆ ◆◆◆
士郎は平気だと言うが、どう見ても無理をしている。身体的には健康だが、精神的なところは、いまだ病んでいる、と言ってもいいだろう。
だが、士郎は自分自身の状態が理解できていないようだ。私が公園での散歩を提案すれば素直に応じ、日に日に状態を悪化させているというのに、行きたくないと言わない。
強情だ。まったく、誰に似たのだか……。
まあ、私もその部類なので、反省すべき点ではあるな……。いや、私の反省はどうでもいいのだ。
いい加減、士郎には自覚してもらわなければならない、という話だ。公園の早朝散歩で足りないのならば、もっと人が多い場所を選べばいい。そういうわけで、市場へ行くと言えば、さすがに断ってくると思った。が、士郎は断ることもなく、そろそろいける、と言ってこれも了承した。
馬鹿なのか、こいつは。
お前自身のことだというのに、なぜ、そんなにも無頓着に無理をする?
精神的なダメージというものは簡単に克服できるものではない。慎重で、適切な診療を受けるのが常道だろうに……。
このままでは、埒が明かない。
荒療治だが、自分で気づかせないことには、こいつはいつまで経っても無理を通そうとするだろう。
そういうわけで、約束通り士郎を伴って市場へ来てみた。さすがに他人と会話などできないと思い、買い物は私がするので、私についてくるだけでいいと事前に伝えておいた。
わかったのかわかっていないのか、俯いたまま頷いている士郎は、やはり調子が良いようではない。そして、買い物をしてはいるが、私も気が気ではない。
もう戻った方がいいだろう、と喉まで出かかっているが、きっかけがつかめない。背後の気配を常に意識し、フラついている足取りを垣間見れば、いつ倒れるともしれないと、本当にやきもきしてしまう。結局、私が折れることになった。
「これで終わりにしよう。とりあえず必要な食材は揃った。もう帰ろう」
背後の士郎に言ったが、返事がない。まだ大丈夫だと言い張るなら、無理にでも連れ帰らなければならない。ため息混じりに支払いを済ませ、品物を受け取ったと同時、ぱんっ、という破裂音が耳に届いた。
そのすぐあとに子供の泣き声が聞こえ、風船を持った子供と先ほどすれ違ったことを思い出す。何かに当たった拍子に風船が割れたのだろう。特に気にすることもない、市場や街中では珍しくもないことだ。
それなりに大きな音であったために士郎も驚いたようで、振り返った格好で立ち止まっている。
ちょうどいいタイミングだ。私の用も済んだ。士郎も限界のようだし、もう引き返そう。
「士ろ――」
呼ぼうとした士郎の右手に集束していく魔力を感じる。いったいなんだ? と疑問に思ったが、それは、私にも馴染みのある感覚だ。
「投影?」
なぜ、今、投影などする必要があるのか?
士郎はいったい、何をしているのか?
その光景があまりにもありえなくて、しばし呆けていたが、はっとして士郎の右手首を掴んだ。
「何をしようとした」
低く問えば、
「あ……」
急速に薄れていく魔力の流れは、士郎の右手の中で小さなスパークを起こして消えた。
目を剥いたまま私を見上げる士郎の顔は蒼白になっている。まるで血の気が感じられない。
「っ、帰ろう」
返事を聞く前に士郎の手を引いて歩き出す。できるだけ人通りの少ないルートを選んだために少し遠回りになったが、どうにか士郎も歩いてアパートに戻ることができた。
「…………」
何も言葉が浮かばない。
失敗だ。
やりすぎた。
士郎に自ら気づかせようなどと、素人考えが過ぎた。
こんなことに時間をかけるよりも、適切なカウンセリングを受けさせることが正解で、士郎には必要なことだったのだ。
「くそっ……」
思わず毒づき、額に片手を当てて項垂れる。どうして私は自分だけで解決しようとしたのか。くだらない独占欲などに囚われて、士郎をさらに追い込んでしまったではないか。
なぜ、内面の問題を簡単に考えてしまったのか……。
ぎゅ、と空いた拳を握りしめ、ふと、士郎の手首を掴んでいたはずの己の手を見て、はたと思い至る。
私はいつ、手を離した?
思い出したように、連れ帰った士郎はどこか、と顔を上げて、ぐるりと見渡せば、玄関ドアの前で突っ立っていた。
「士郎……」
取り繕おうとしている己に気づき、その先の言葉を私は吐き出せなかった。視線の先の士郎は瞠目して私を凝視している。
私が後悔に苛まれていると、気づかれただろうか?
士郎は青い顔をして、こんな情けない私を見ていたのだろうか?
「ごめん……アーチャー……」
ぼんやりとこぼれていった謝罪は、いったい何についてのことなのか。
「士郎、何を謝る。お前は、」
「殺そうとしたんだ」
私から目を逸らすことなく、士郎は震える声でだが、はっきりと答えた。
しかし、その琥珀色の瞳は芒洋としていて、何も映していないように見える。
「殺されるから、殺さなきゃって……」
ぎくり、とした。それは、守護者であったときに、士郎が唯一思考していた事柄……。
「だから……」
殺さなければ、とボソボソ呟きながら、士郎は自分の部屋へ向かう。
「お、おい、士郎、」
止めようとして呼んだというのに、私は止める気などなかったようだ。ただ、振り返りもせず部屋に入る士郎を見送っただけなのだから……。
Back Side 23
「どういうこと? アーチャー」
「失敗した。悪化した。手の打ちようがない」
市場での出来事の翌日、二日ぶりに仕事から戻ってきた凛は、帰宅早々アーチャーを問い詰める事態に陥っている。
何しろ、士郎が部屋から出てこないというのだ。これは尋常ではない状況だと、まずは世話を一手に引き受けていたアーチャーから尋問をはじめた。
アーチャーは夕食を作りながら経緯を説明し、凛の詰問にも淡々と答えている。
その内容に、その態度に、凛は拳を握り、テーブルに叩きつけた。
「あんたに任せたわよねっ? あんたは手も口も出すなと言ったわよねっ? それがこの体たらくなのっ?」
いちいち強い口調で凛はアーチャーを責める。が、
ドッ!
凛に反発するようにテーブルが鈍い音を立てた。アーチャーの持っていたサラダの器が、乱暴にテーブルに置かれている。
「な、何よ?」
少し尻込みした凛は、それでもアーチャーのことを睨みつけている。
「甘かったと思っている。少々舞い上がっていたのは否めない。士郎をさらに追い詰めてしまったことは、私の思慮のなさが原因だ」
「わ、わかってるんじゃない。なら、どうしてそんなに私に食ってかかってくるのかしら?」
「それは……」
非のない凛にそう言われてはぐうの音も出ず、アーチャーは前の勢いを失った。
「……すまない。私も、動転しているようだ」
「い、いいわよ、べつに。でも、どうするの? これから」
素直にアーチャーが折れたので、凛もこれ以上は責めるつもりはない。ここで口論をしていても士郎の状態は改善しないのだ。であれば、新たな模索をはじめた方が建設的だ。
「解決策を探した」
「え? か、解決策?」
作品名:サヨナラのウラガワ 9 作家名:さやけ