サヨナラのウラガワ 9
これから考えなければ、と思っていた凛は肩すかしをくらった気分で訊き返す。
「一つ、思いついた」
「思いつい…………、ど、どんなことなのっ? それで士郎は本当に良くなるの?」
凛は腰を浮かせてアーチャーに迫った。何かいい方法があるのならば、すぐにでも実践したい。この世界に戻ってすぐの頃よりも引き籠もってしまった士郎を見ているのは凛としても耐えがたいのだ。どうにかしてやりたいと思うのは、彼女の性格上、当然のことだろう。
「記憶を消す」
「…………は?」
間の抜けた声を上げ、凛は首を傾けている。それにはかまわず、アーチャーはこともなげに話を続けた。
「士郎の記憶を消す。守護者であったときのな」
「バ……、バカなこと言わないで! そんなことをしても、一時凌ぎにしかならないわよ!」
「確かに部分的であればそうかもしれない。だが、完全に消してしまえば、問題がないかもしれない」
「か、完全って……」
「守護者という存在自体を忘れてしまえば、どうにかなるだろう。何もかも忘れて、最初からなかったことにすればいいのだ。そうすれば、何も残らず、後腐れもない」
「な……に言ってるのよ……。後腐れなんか……、アーチャーには……、私たちには…………、こっちには、大ありじゃない!」
「ああ、だが……、士郎を思えば、そんなもの、どうということもない」
視線を落としたアーチャーの表情は特段変わらない。が、凛にはその方法がアーチャーにとっても苦渋の決断だということが察せられた。
「……そこまで言うのなら、覚悟は決まっているのね?」
凛はさらに念を押し、アーチャーの顔色を窺う。
「ああ」
ためらいもなく頷くアーチャーに、そう、と凛も頷いた。
「わかったわ。アーチャーは、何を置いても士郎の“これから”を優先したい、そういうことなのね?」
そうだ、と答えたアーチャーに凛は大きなため息を一つこぼした。
「念のために言わせてもらうけど、あなたがさっき言った通り、記憶は完全に消えるわよ。聖杯戦争のことから、何から何まで消してしまわなければ効果はないんだから。半端に残してしまえば、そこから綻びが生じて、すべてが元の木阿弥。
士郎にとって高校二年生の終わりからがすべて失われてしまうわ。まあ、あったところで、一年後には守護者ってやつになってるから、大差はないのかもしれないけれど……。
あなたとの一年間は消えてしまうわよ。あなたと剣を交え、意地をぶつけ合ったことさえもね。
……あなたは覚えていても、士郎は忘れてしまう。あなたとの関係もふりだしに戻る。そんな状況に、あなたは耐えられるのかしら?
もう一度はじめから同じことを繰り返すようになっても、あなたは以前と同じに、士郎に対することができる?」
「はじめ……から……」
アーチャーは、ぐ、と歯を食いしばる。凛の言葉の意味を嫌でも噛みしめた。
もう一度はじめから士郎との関係を築いていっても、おそらくそれは、恋人という関係には到底及ばないものに成り果てていて、それでもアーチャーは士郎の傍らに在り続ける、ということなのだ。
聖杯戦争の記憶から消えるとなると、アーチャーはもちろんセイバーも、サーヴァントの記憶はすべて消え去ってしまう。
アーチャーは拳を握りしめる。
刃を交えたことは守護者に連なる可能性があるために話せない。大まかに何があったかを説明することはできるが、以前と同じ関係に戻ることができるとは考えにくい。
「それでも……」
アーチャーは、自身のままならない感情を棄てなければならないとしても、今のような状態に士郎を留めておきたくはない。
――――士郎をいつまでも苦しめるわけにはいかないのだ……。
「……やるのね?」
凛は、諦めたような表情で確認を取ってくる。
「……すまない。謝りついでに、記憶を消す魔術を使える魔術師を知っているか?」
「見縊らないで。そのくらい、私もできるわよ。少し確認したいことがあるから、時間は欲しいけれど」
「できる、のか?」
「当たり前でしょ」
「凛にできるのであれば、私も申し分ない。頼んでもいいだろうか?」
アーチャーは視線を落としたままで伺いを立てた。
「衛宮くんのことなんだもの、他人には任せられないわ。あれでも、私の弟子だったのよ。まあ、途中からはあなただったけど」
「そう……、だな」
アーチャーは頼もしい限りだと、少し気を緩めて顔を上げた途端、ハッとする。
「……なんの、話だ、それ」
「…………」
アーチャーは答えられない。今さら気づいてもどうしようもないが、本人の了解も得ずに記憶をどうこうする、というような物騒極まりない話を本人抜きでしていたのだ。いくらなんでも、それはこちらに非があると認めないわけにはいかない。
「え、衛宮くん、もう、大丈夫な――」
「なんの話をしてるんだって、訊いてるだろ!」
振り向いて取り繕おうとした凛は口を噤む。ドアの前に立つ士郎は、青ざめた顔色に怒気を纏わせ、こちらを睨んでいる。
凛が口を聞けずにいるので、現状、アーチャーが話さなければならないだろう。
言い出したのはアーチャーであるので、いずれ士郎には話さなければならないことだ。それが今、こんなに早いというだけで、いい機会だと取れないこともない。苦い思いを抱くことは別として、この勢いを逃しては、ずるずると言えないままになるかもしれない。士郎にこの話を持ちかけるには、今を置いて他にない好機だとアーチャーには思えた。
「お前は記憶を消した方がいい、という話だ。お前の状態は、治療云々でどうにかなるようなことではない。ならば、守護者であった記憶を消すしかないだろう。したがって――」
「それを、なんで遠坂とアーチャーが決めるんだ!」
士郎の言い分はもっともだ。自分の記憶を他人にどうこうされるという話など、冗談でもされたくはない。誰だって激昂するだろう。
「き、決めたんじゃなくって、そうした方がいいって話なのよ。ね? アーチャー」
凛が補足して説明したが、士郎の怒りはおさまらないようだ。
「勝手なことしないでくれ! 俺の記憶は、俺のものだ! 誰にも触らせない!」
踵を返してドアの中へと士郎は舞い戻ってしまった。
しばし、誰も言葉を発することができない中、
「お、おい! もう夕食の時間だぞ」
夕食の配膳をしていたことを思い出したアーチャーは引き止める理由をそんなことに紛らせた。そうして、士郎の部屋へ向かって足を踏み出せば、
「待ってください。アーチャー」
さ、と行く手をセイバーに遮られ、アーチャーは足を止める。セイバーはずっと士郎を心配していて、帰宅してからは士郎の部屋に詰めていた。先ほど士郎とともに部屋を出てきて、この状況に行き当たっているので、士郎同様、不機嫌極まりない顔つきになるのは仕方のないことだ。
「少々、勝手が過ぎるのではないですか? 凛も、本当にそれでいいと、思っているのですか?」
アーチャーと凛を交互に見据え、セイバーは士郎と同じく怒気を孕んだ声音で訊いてくる。
「仕方のない話なのよ、セイバー」
凛は小さなため息をこぼし、ダイニングテーブルに頬杖をついた。
作品名:サヨナラのウラガワ 9 作家名:さやけ