代用之愛、一粒伍円也
と、そのような経緯で鳴海の禁煙生活は済し崩しに始まった。
そう云っても全く喫わなくなった訳ではない。見習いの書生が居ない隙――つまり、彼が学校へ行っている間だの捜査へ行っている間だのの留守を狙ってシガレットを消費していた。ニコチンというやつは、止めようと思ってそうそう止められるものではないのだ。
幸いにして、目の前で喫わない分に関しては書生のお咎めはなかった。
しかし例えば雨の休日、高等学校は休みで依頼人も来ないような日もある(もっとも依頼人が来ないのは探偵社にとっては日常の姿である)。そんな日に限って悪魔絡みの事件もない。従って特に外出の用事もないのか、優秀な助手兼デビルサマナーの少年は朝から鳴海の目の前で書類の整理をしていた。
「あー…雨だねえ」
椅子をぎしりと揺らして鳴海はぼやいた。助手の返事は「そうですね」と素っ気無い。高層ビルヂングの窓から眺める景色も、今日は雨で台無しだ。鳴海は苛々と癖の強い髪をかきむしる。タイミング悪く丸一日ニコチンを切らしていて、そろそろ中毒症状が現れそうだ。
「なんか事件でも起こらないもんかねえ。暇で死にそうだよもう。俺の灰色の脳細胞が運動不足で老衰しちまうよ」
「依頼がないのは平和の証拠、いつもそう仰るのは鳴海さんです」
軽口で気を紛らわせようにも、律儀な書生の突っ込みにあえなく机に沈む鳴海だ。
あまつさえ「そんなに暇なら書類の整理を手伝って下さい」などと云われて自分の首を絞める結果となった。とんだ薮蛇だ。
返す言葉のなくなった鳴海は押し黙る。
もとより口数の少ない書生も特に言葉を返さない。事務所には沈黙が降り、ライドウが書類をめくる音と窓を叩く雨音だけが鳴海の鼓膜を打った。
どうにも気詰まりがして、鳴海は胸ポケットを探りかけ、煙草を切らしていたのを思い出して舌打ちをした。どの道ライドウの前では吸えないが。
雨は止みそうにないが酷い降りでもない。
沈黙に耐え切れなくなった鳴海はひとつ伸びをしてから腰を上げた。
「俺、ちょっと出てくるわ」
そそくさと上着を着込んで帽子を手にする。この雨の中、沈黙から逃げ出すように出て行くのも家主としては情けないが、禁煙もそろそろ限界だった。そうだ煙草を買いに行こうと大義名分を掲げて、鳴海は帽子を頭に載せた。
「散歩なら晴れてからにしたら如何ですか」
書類に目を落としたままの、ライドウの平坦な声が響く。
もっとも言葉は形ばかりのようで、引き止めようという気配はない。鳴海の唐突な行動に驚いて(或いは呆れて?)はいるようだが、殊更干渉しないのが彼のスタンスである。
「なに、雨の中の散歩ってのも情緒に満ちたもんだぜ」
「そうですか。ではお気をつけて」
「はいはい、行ってきます」
やはり形式的な言葉を背に受け、鳴海は肩を竦めた。ドアノブに手をかけながら、さて何処へ行こうかと思考を巡らせる。竜宮に顔を覗かせるか、いや駄目だ、最近溜まりっぱなしのツケでそろそろ女将の眦も釣りあがっている。では久しぶりにミルクホールにでも行ってタヱちゃんでもからかおうか。
「鳴海さん」
「ん?なんだ、ライドウ」
思考を遮るように不意に名前を呼ばれた。振り返ると書類をめくる手を止めたライドウと目が合う。闇色をした目にじっと見つめられ、鳴海は僅かにたじろいだ。
「ど、どうかしたか?」
「いえ。帰りに豆腐を一丁お願いします」
「はい?」
「夕餉に使うので」
「え?ああ、うん」
要するにお遣いを頼まれたのだ、と気がついて毒気を抜かれた。
それにしても夕餉の時間までに帰ってくるのは前提なのか。信用されているのか虚仮にされているのか、判断に迷うところだ。
だが実際のところ、助手の器用さに任せて家事全般を押し付けている鳴海である。頭が上がろう筈もない。
豆腐と煙草、と頭の中に書き付けて、持ち金で足りるだろうかと上着のポケットを探る。
「んん?」
ポケットに突っ込んだ指が堅いものに触れ、鳴海は軽く瞠目した。なにやら小箱が入っている。形や質感は煙草のそれと似ているが、それよりは些か重量があった。
なんだかわからないが、こんなものをポケットに入れた覚えはない。
戸惑いながら取り出した箱は黄土色の地に白抜きで「ミルクキャラメル」とあった。今度こそ鳴海は目を見開く。
「ライドウ、これ…、入れたのお前?」
鳴海の問いに、ライドウは、ああ、と小さく首を傾けて肯定を示した。
「口寂しそうにしてらしたので」
買い物のついでです。そんな風に嘯くライドウに鳴海は頬を赤くした。最近キャラメルが「煙草代用、一粒五円」なんて謳い文句で売り出されているのを鳴海も広告で見知っていた。しかしそれをライドウに寄越されるとは思いもよらず、柄にもなく動揺する。
葛葉ライドウという少年は、普段は酷薄な癖に時折こうして柔らかな気遣いを見せるのだ。
まったく、本当に性の悪い子供だ。
苦笑して、鳴海は箱から一粒キャラメルを取り出し、薄紙を剥いて口に放った。ミルクとバターのこってりと濃い甘さが舌を転がる。
「……虫歯になったらどうすんだよ」
照れ隠しにぼやく鳴海を一瞥し、ライドウは僅かに楽しげな笑みを浮かべて見せた。
「その時は俺が抜いてあげますよ」
遠慮するよ、と片手を挙げて、鳴海は扉を開け放つ。
ビルヂングの階段を降りながら頭の中のメモを書き直した。
――豆腐と、煙草はやめて、代わりにアイスクリンでも買ってきてやろう。
あの子供は顔に似合わず甘味の類が好きなのだ。
キャラメルのお礼だと差し出してやれば、ため息をつきながらも彼は受け取るだろう。そして自分が「雨の日のアイスクリンもオツなもんだろう?」などと軽口を叩き、ライドウは呆れた顔をして、それでも冷たい顔を緩めるだろう。
そんな他愛のない夢想は鳴海の心を浮き立たせた。
雨は暫く止みそうにない。
鳴海は鼻歌混じりに傘を開いて、銀楼閣を背に歩き出した。
作品名:代用之愛、一粒伍円也 作家名:カシイ