Quantum 第二部
むっと口をへの字に曲げたアイオリアを見上げる。ふむ、こういう時のアイオリアに何か言っても余計な怒りを買うばかりなので、ここは沈黙の策を取る。一方のサガも穏やかな表情を浮かべているはずなのだが、なんとも言えない気配をビリビリと感じて、ぞわぞわと肌が粟立っていた。
「行こう、シャカ」
「あ、ああ」
ぐいと強引にシャカを引き寄せ、歩き出すアイオリア。ほとんど引き摺られるような恰好で十二宮へと続く階段に向かう。ぽつりと取り残され、疲れたように立ち尽くしていたサガの姿。脳裏に焼き付いて、ひどくシャカの心を掻き乱した。
そのあと、アテナとの謁見を願い出て、アテナからお小言を食らうアイオリアを眺めながら、無駄な時間を過ごした。うなだれたアイオリアをなぐさめつつ、遅くなってしまった食事をとりながら、色々話をしたけれども、あまり話した内容を覚えていない。大した話ではなかったこともあるが、ずっとサガのことが心に引っかかっていたことがあって、心ここにあらずという状態だったからだろう。
遅い晩餐ののち、シャカは自宮の私的空間へと移り、しっとりと滑らかな感触を伝える夜着に包まれながら、ぼんやりと寝台の上に横になって、なかなかに訪れそうもない睡魔をシャカは待っていた。
「サガはどんな思いでアレを待ち続けていたのだろうか」
別れ際に視えたサガの顔が脳裏に過った。
「―――よく待ちぼうけを食らったとわかったな。それに、なぜ、そんなことをおまえが気にする?」
「っ!?」
ぎょっと飛び起きると扉に背を預け凭れているサガがいた。なぜそこにサガがいるのか、とか、おもいっきりマズイ独り言を聞かれたとか、プチパニックに陥っているシャカを他所にサガは可笑しそうに笑うばかりだ。
「声をかけたのだが、返事がなかったから入った。すまない」
サガは主の許しなく、勝手に入ったことの謝罪を告げると、そっと扉から離れ、シャカの方に向かってきた。事態にいまだついていけてないシャカがハッと気づけば、寝台の上でサガに抱きつかれていたという有様だ。
「少しだけ、このまま」
思いのほか弱々しいサガの声にフリーズしていたシャカの脳がようやく再起動した。
「サ、サガ……どうしたのかね?」
「せっかく、おまえが見つけてくれたのに、試しの君とは会えなかったよ」
「そ、そうか。それは残念?だったな」
「ああ。今か今かと心躍らせ、待ちわびたけれども。結局、あの者は姿を見せることはなかった。別段約束をしていたわけでもないのに、ひどい裏切りにあったようで……可笑しなほど傷ついている自分がいる」
「そんな」
アイオリアのSOSを優先したことを少しばかり後悔する。まったく逃げがなかったかといえば嘘になる。腹を括ったつもりだったが、心のどこかでサガと会うのを恐れる気持ちがシャカにはあったから。
言葉を失くすシャカに顔を上げたサガがじっとシャカを縋るように見つめていた。シャカは目を閉じているというのに己の瞳が揺らいでいるような気がした。
「―――慰めてくれないか、シャカ」
「はい?」
慰める……サガを慰める……どうやって?
シャカが獲得した知識を総動員して出した答えは。
さわり。
さわり。
なでなで。
サガの頭に手を伸ばし、すっと指を差し入れた。
シャカの髪は真っ直ぐで引っかかりなく、するりとなめらかに指を滑るけれども、サガの髪はシャカよりも硬く、しっかりとした弾力があった。思いの外気持ちいい。撫でられているサガのほうは果たして気持ちが良いのかどうかわからなかったけれども。そして、インドの母たちが赤子に歌う子守唄を口遊んだ。
シャカの声は定評があって、いいのか悪いのか寺院で真理の言葉を謳う場合も一定確率で眠りに堕ちる者がいる。そんなシャカが子守唄など歌えば泣く子も黙る。いや、寝付く。
サガに通じるとは思わないけれども、少なくとも心を落ち着かせることはできるのではないだろうかとシャカはサガにとっては異国の言葉で囁くように歌った。
サガは一瞬瞳を見開いてシャカを凝視し、僅かに笑んだあと静かに双眸を落とし、シャカの胸の上に顔を寄せたのだった。サガにすべてを委ねられた様な感じがした。
「ああ……優しい、歌だ」
サガの温もりを意識しながら、あれほど訪れようとはしなかった睡魔が自らにも忍び寄るのを感じつつ、久しぶりにシャカは穏やかな気持ちに満たされたのだった。
作品名:Quantum 第二部 作家名:千珠