ボクのポケットにあるから。
世にも美しい微笑みを浮かべて、松村沙友理はステージを降りた。
最後の最後まで、松村沙友理は、真ん丸のリンゴのような大きな笑顔であった。
「アップル・プリンセス――――――っ!!」
ステージを降りた後の事。
通路へと出てくる松村沙友理を、大きな花束を持って待ち受けるのは、白石麻衣であった。
姿を現す前に、松村沙友理の声が感激している。
「もう匂いでわかったんだけど~……」
白石麻衣は口元を押さえて笑みを堪える。
姿を現した松村沙友理。
「あ~お疲れ様~!」
「もう匂いでわかった入り口で~」
「お疲れ様沙友理ちゃん……」
「麻衣ちゃ~ん……」
抱きしめ合う両者。
「ありがとう見てくれたのう?」
「お疲れ様、頑張ったね~」
「ん~ん~頑張った~……急斜面一人で歌ったの」
「ねー歌ったね~、おちゅかれ」
「ありがとー」
大きなりんごの花束を手渡す白石麻衣。
「見てえ」
「はっ! りんごだぁ~!」
「これを渡しに来ました~」
「嬉しい~……。えーありがとう、こんなに~、嬉し~」
「良かったら、おうちに。飾ってえ」
「ありがとー、えー私今日ほんとにぃ、スタッフさんにぃ、なんか仕事があるから来れないかもって言ってたよ、て言われたの、え~!」
屈託のない、一切嘘のない笑顔で言葉を交わす、松村沙友理と白石麻衣は、二人ともが潜り抜けた勇敢な歴史を知るかけがえのない仲間であるかのように、幸せそうに微笑み合っている。
「どうだった? 十年間」
「んー……、えーでもほんとに楽しくてぇ、皆と過ごせてぇ、ほんとに、いい十年だったなと、思えた」
「あー、良かった」
お互いを拍手し合う二人。見つめ合い、笑い合う。
「なんか、凄い、なんかぼろ泣きしちゃったね。今野さんも隣で泣いてた。秘密だよ。コンサート見て一緒に泣いてた」
「可愛い! そうだったんだ~」
「あとねえ、お手紙書いてきたからぁ、これー、おうちで読んで」
涙目になる松村沙友理。
笑顔の白石麻衣。
「わかったー。嬉しいー……、ありがとう。ありがとー……」
「びっくりした、入ってきた瞬間に、匂いでわかるって、さすがだなって、思っちゃった」
「もう入り口入った瞬間に……麻衣だぁ……麻衣がいる……」
「嬉しい~」
限られた時間の中で、なのだろうが、本当は、その会話は止まる事を知らないだろう。
同じく、全盛期を乃木坂に預け、成長を遂げた美しい蝶のような二人は。
見つめ合い、微笑みをやめない。
「お疲れ様でした、ほんとに十年間乃木坂の活動、これからも頑張って下さい」
「ありがとうございまっちゅーん」
「まっちゅーん」
「ゆっくり休んで……」
「またご飯しようねー」
「しようねー!」
脚本・執筆・原作・タンポポ
「おい……、たく、全然反応しねえでやんの」
磯野波平はしかめっ面でそう吐き捨ててから、フロア正面の北側の扉を見つめた。
「相当良い事考えてるか、思い出してるのか、だね」稲見は無表情でそう言ってから、後ろを振り返った。「あ、まちゅ……。早いな……」
早朝からすっきりとした顔立ちの松村沙友理は、三人の座るソファの、空いているスペースに座った。
「おはようございます」沙友理は低い声で言った。
「おはよう、まちゅ」夕はとびっきりの微笑みで沙友理に言った。「スケジュール通りなんだね、チェックしちゃった」
「お、復活した」磯野はそれから、にこやかに沙友理に言う。「おはような、まっちゅん!」
「おはよう」稲見は片手の手の平を見せて沙友理に挨拶した。「早いんだね、今日は」
「そ……」沙友理は、じわっと微笑む。「早起き、してみました。えへへへ」
「いや、ノスタルジーだなぁ、乃木坂って、まちゅって」夕はそう言ってうんうんと頷いた。「まちゅ達がいなかったら、ほぼ俺らの毎日なんか等高線だもんなー」
「確かにね。無限遠点で曲線と接する漸近線(ぜんきんせん)ではないね。でも何でね、まちゅをこんなにも大切に思うのかが、わからないんだ。好きだから? 恋はしてるけど……、何て言えばいいんだろう。わからない」稲見は無表情で言った。
「馬鹿かおめえは」磯野は鼻で笑う。
「自分で考え込むからだよ」夕は稲見を一瞥して言う。「自分自身の中から、自分自身の正しさを証明する自己完結的な論法はない。ゲーデルがこれを厳密な形で数学的に証明して、そして不完全性定理は世に定着したんだから」
「そうか、不完全性定理か……」稲見は、微笑む。「じゃあ考えるのも馬鹿馬鹿しいね。好きに嘘も本当もない。好きなら、好きだ」
「それが気持ちだよ」夕はにこやかに口元を引き上げて稲見を一瞥した後、真っ直ぐに沙友理を見つめる。「まちゅは好きにレクチャーなんていらないでしょ?」
「いらなーい」沙友理は微笑んだ。「好きは好き!」
「俺もまっちゅん大好きだぜえ~!」磯野は笑顔で沙友理にそう言って、夕に顔をしかめる。「何だよ、こら……」
「お前の好きとイナッチの好きが、同じ重さだと思うと、納得がいかんな……」夕は腕組みをして考える。
「て~めえに言われたかーねえよっ!」磯野は憤慨(ふんがい)する。
「イーサン、おるう?」沙友理は空中に、にこりと微笑んだ。「アイス・ティーちょうだい」
『畏まりました』
「好きの、重さかぁ……。量(はか)り方は無数にあるけど……」稲見は人差し指と親指で顎を挟むと、周囲を気にせずに、考え込んだ。
「何とか言えよっ! このキザ野郎っ!」磯野は憤怒しながら夕に叫ぶ。
「ちょっと、黙って下さる? ゴリラーマン」夕は嫌そうな顔で磯野を一瞥した。
「だ~れがゴリラーマンだっ! アホかてめえ!」磯野は興奮して立ち上がった。
稲見瓶は考え耽っている。
「えへへへへ」
松村沙友理は、人知れずに、その光景を楽しむかのように、人知れず満面の笑みを浮かべていた。乃木坂46に居た、いつかの自分のように――。
二千二十一年八月二十日 完
作品名:ボクのポケットにあるから。 作家名:タンポポ