雪の日の完璧な過ごし方
香ばしい香りにひくりと鼻をうごめかせ、炭治郎はコンロの火を止めた。
流しに面した窓に結露が光る。今日はずいぶん冷え込みが厳しい。冬用のスリッパをはいていても、足元に溜まった冷気はつらく、早くエアコンが効いてこないかなぁとちらりと思う。
先に火を止めておいた味噌汁に、ちょっとしょうがを入れておこうかな。内側からも体を温めたほうがいいだろう。時節がら、義勇に風邪でも引かせてはたいへんだ。
考えながらフライパンの蓋をとると、湯気とともに、食欲を刺激する香ばしい油と魚の匂いが立ちこめた。
「よし、出来上がりっと」
昨夜寝る前にサラダ油を塗って冷蔵庫に入れておいた鮭の切り身は、フライパンの上でプツプツと小さく脂をはぜさせている。グリルで焼くのと違って、皮に焼き目がついていないのが少々物足りない気もするけれど、なかなかいい出来だ。いかにもふっくらとジューシーに焼き上がっていて、いつもの鮮魚店で買う鮭と遜色ない。
スーパーで買った見切り品の切り身でも、ちょっとの手間でおいしくなるのだから、ネット検索様様である。
これならグリルに残った魚臭さと格闘することもないし、これからはこの手でいこうかなと、鮭を皿に移しながら、炭治郎は満足げにうなずいた。
商店街の鮮魚店で買った切り身なら、手間をかけて下ごしらえしなくても十二分においしいのだけれど、休業中ではどうしようもない。正月明けそうそうぎっくり腰とは、鮮魚店のおじさんも災難なことだ。
腰は大事だもんな、俺も気をつけなきゃ。
しみじみうなずきながら、炭治郎は、ひとりきりのキッチンで頬なんか染めてしまう。
昨日買い物に出たのが炭治郎ではなく義勇だったのも、ようは炭治郎の腰を義勇が気遣ってのことだ。思い出してしまえば、ワーッと叫んで転がりまわりたいようないたたまれなさと、ピョンピョン跳びはねて浮かれまくりたい気持ちがないまじり、なんとも言えない顔になる。
春になれば義勇と暮らしだして満三周年を迎えるというのに、いまだにそういったことへの羞恥は消えない。
今も時折これは夢じゃないかなと、思ってしまうことだってある。
それでも、同棲当初から比べれば、愛されていることを疑う気持ちはかなり減った。炭治郎が義勇を心の底から思うのと同じように、義勇も炭治郎を愛してくれている。わずかずつとはいえ、愛される自信がついてきたとも言えよう。
だから炭治郎は、赤く染まった頬はそのままに、転がりまわったり飛び跳ねたりはせず、くふんと面映ゆく笑うにとどめた。
すりガラスの外に見える空はまだ暗い。夕べの天気予報では、今日までは快晴。煌々と明かりの灯ったキッチンには、味噌汁と焼き鮭の匂いが満ちている。昨日は一日中甘やかされて休んでいたから、腰の具合をはじめ体調も万全。今朝も寝起きの目が映しだした義勇の寝顔はスッキリと整い、それでいて少しのあどけなさを見せて、いっそ拝みたいほどに眼福そのものだった。うん、いい朝だ。
皿に移した鮭をテーブルに置いて、これなら義勇さんの舌にも合うだろとにんまり笑い、炭治郎は壁にかけられた時計を見た。
時刻は六時。そろそろ義勇を起こさなければと思ったのと同時に、隣にかけられたカレンダーが目に入って、炭治郎は思わず動きを止めた。
空気が抜けていく風船みたいに、一瞬前までの上機嫌はシューっとしぼんで、なんならため息だって出そうになる。
今日は一月七日金曜日。新学期の始まりだ。
炭治郎の大切な恋人である義勇が務めるキメツ学園はもちろんのこと、炭治郎が通う大学も、冬休みは六日までだ。とはいえ、今年は七日が金曜日なこともあって、新学期が始まったとたんに三連休という、うれしいようなシャキッとしないようなスケジュールではある。
それでも、本当なら休みが増えるのはやっぱりうれしい。ちゃんと休めるのなら、だけれども。義勇と過ごせる時間が増える機会は、一緒に暮らしていてさえ貴重なのだ。できることなら三日間まるっと堪能したい。まぁ、今更どうしようもないのだけれど。
壁にかけられたカレンダーを見る視線が、恨みがましいものになってしまったのは、しかたがないだろう。
何度睨みつけたって、一月八日の欄に書き込まれた『炭・ゼミ合宿二泊三日』の文字は消えやしない。とうとう落ちたため息は、たいそう深かった。
義勇と同棲を始めてから知ったのだが、学校が完全に無人になるのは精々二十九日から三が日までだけで、冬休み中といっても、教員は必ず誰かしらが交代で出勤するものらしい。もちろん、夏休みや春休みだって同じことだ。
おまけに義勇は部活の顧問もしているし、剣道部には部員が地獄の一丁目と称する――高校時代の炭治郎にとっては、義勇を朝も夜も見られる天国のごときものだったけれど――恒例の、二十七日から三十日にかけての冬合宿だってあった。だから、義勇が完全に休みだった日数は、一般的なサラリーマンにくらべればかなり少ない。
大学生の炭治郎はといえば、今年は集中講義には出なかったので、丸々冬休みを満喫したうえに、二週間ほど通えばすぐ春休みだ。毎度のことながら、多忙な義勇にくらべて気楽すぎる境遇に、なんだか申し訳なくなる。
長期休暇のたび、自分ばかり楽をしてるとなんとなく落ち込んでしまう炭治郎に、義勇が
「気楽に過ごせるのは今だけだぞ。四年になれば嫌でも忙しくなる。教師になったら俺と同じような生活だ。今のうちに精々ぐーたら生活を満喫しておけばいいだろう」
と、苦笑するのも、いつもの光景となって久しい。
「そうは言っても、なんだか義勇さんばっかり損させてる気分になっちゃうんですよね」
ダラダラするのも性に合わないしと、いつも通り返して頭をかいた炭治郎に、ニヤリと笑った義勇の顔が近づいて、耳元でささやかれたのは、一月五日の夜のこと。
「それなら大事な仕事をまかせていいか?」
「大事な仕事?」
耳をくすぐる吐息に首をすくめつつ聞いた炭治郎にも、なんとなく次の言葉と、それからの流れは予想がついた。それぐらいには、一緒にいる時間を積み重ねている。
「恋人の疲れを癒すっていう、重大な仕事を頼みたいんだが?」
「それは責任重大ですね。俺で務まります?」
クスクスと笑いながら義勇の首に腕をまわして言えば、おまえじゃなきゃ駄目だろと、少しあきれた声とともにひょいと抱き上げられた。
時刻は九時。食事も風呂も済ませた。眠るには早すぎるけれど、ベッドの上で運動するにはそこそこいい時間だ。そして明日は冬休みの最終日。寝坊しても、ベッドから抜け出せなくなっても、誰にも叱られない。
「二日間一人寝になるからな。たっぷり癒してもらわないと」
「いいですよ。俺も義勇さんを補充しとかなきゃなんで」
クリスマスにも同じようなやり取りをしたばかりだが、それはそれ、これはこれだ。
笑いあってふたりでダイブしたセミダブルのベッド。同棲初日に買ったベッドのスプリングは、まだまだ衰え知らずで、その夜もたいそういい仕事をしてくれた。
流しに面した窓に結露が光る。今日はずいぶん冷え込みが厳しい。冬用のスリッパをはいていても、足元に溜まった冷気はつらく、早くエアコンが効いてこないかなぁとちらりと思う。
先に火を止めておいた味噌汁に、ちょっとしょうがを入れておこうかな。内側からも体を温めたほうがいいだろう。時節がら、義勇に風邪でも引かせてはたいへんだ。
考えながらフライパンの蓋をとると、湯気とともに、食欲を刺激する香ばしい油と魚の匂いが立ちこめた。
「よし、出来上がりっと」
昨夜寝る前にサラダ油を塗って冷蔵庫に入れておいた鮭の切り身は、フライパンの上でプツプツと小さく脂をはぜさせている。グリルで焼くのと違って、皮に焼き目がついていないのが少々物足りない気もするけれど、なかなかいい出来だ。いかにもふっくらとジューシーに焼き上がっていて、いつもの鮮魚店で買う鮭と遜色ない。
スーパーで買った見切り品の切り身でも、ちょっとの手間でおいしくなるのだから、ネット検索様様である。
これならグリルに残った魚臭さと格闘することもないし、これからはこの手でいこうかなと、鮭を皿に移しながら、炭治郎は満足げにうなずいた。
商店街の鮮魚店で買った切り身なら、手間をかけて下ごしらえしなくても十二分においしいのだけれど、休業中ではどうしようもない。正月明けそうそうぎっくり腰とは、鮮魚店のおじさんも災難なことだ。
腰は大事だもんな、俺も気をつけなきゃ。
しみじみうなずきながら、炭治郎は、ひとりきりのキッチンで頬なんか染めてしまう。
昨日買い物に出たのが炭治郎ではなく義勇だったのも、ようは炭治郎の腰を義勇が気遣ってのことだ。思い出してしまえば、ワーッと叫んで転がりまわりたいようないたたまれなさと、ピョンピョン跳びはねて浮かれまくりたい気持ちがないまじり、なんとも言えない顔になる。
春になれば義勇と暮らしだして満三周年を迎えるというのに、いまだにそういったことへの羞恥は消えない。
今も時折これは夢じゃないかなと、思ってしまうことだってある。
それでも、同棲当初から比べれば、愛されていることを疑う気持ちはかなり減った。炭治郎が義勇を心の底から思うのと同じように、義勇も炭治郎を愛してくれている。わずかずつとはいえ、愛される自信がついてきたとも言えよう。
だから炭治郎は、赤く染まった頬はそのままに、転がりまわったり飛び跳ねたりはせず、くふんと面映ゆく笑うにとどめた。
すりガラスの外に見える空はまだ暗い。夕べの天気予報では、今日までは快晴。煌々と明かりの灯ったキッチンには、味噌汁と焼き鮭の匂いが満ちている。昨日は一日中甘やかされて休んでいたから、腰の具合をはじめ体調も万全。今朝も寝起きの目が映しだした義勇の寝顔はスッキリと整い、それでいて少しのあどけなさを見せて、いっそ拝みたいほどに眼福そのものだった。うん、いい朝だ。
皿に移した鮭をテーブルに置いて、これなら義勇さんの舌にも合うだろとにんまり笑い、炭治郎は壁にかけられた時計を見た。
時刻は六時。そろそろ義勇を起こさなければと思ったのと同時に、隣にかけられたカレンダーが目に入って、炭治郎は思わず動きを止めた。
空気が抜けていく風船みたいに、一瞬前までの上機嫌はシューっとしぼんで、なんならため息だって出そうになる。
今日は一月七日金曜日。新学期の始まりだ。
炭治郎の大切な恋人である義勇が務めるキメツ学園はもちろんのこと、炭治郎が通う大学も、冬休みは六日までだ。とはいえ、今年は七日が金曜日なこともあって、新学期が始まったとたんに三連休という、うれしいようなシャキッとしないようなスケジュールではある。
それでも、本当なら休みが増えるのはやっぱりうれしい。ちゃんと休めるのなら、だけれども。義勇と過ごせる時間が増える機会は、一緒に暮らしていてさえ貴重なのだ。できることなら三日間まるっと堪能したい。まぁ、今更どうしようもないのだけれど。
壁にかけられたカレンダーを見る視線が、恨みがましいものになってしまったのは、しかたがないだろう。
何度睨みつけたって、一月八日の欄に書き込まれた『炭・ゼミ合宿二泊三日』の文字は消えやしない。とうとう落ちたため息は、たいそう深かった。
義勇と同棲を始めてから知ったのだが、学校が完全に無人になるのは精々二十九日から三が日までだけで、冬休み中といっても、教員は必ず誰かしらが交代で出勤するものらしい。もちろん、夏休みや春休みだって同じことだ。
おまけに義勇は部活の顧問もしているし、剣道部には部員が地獄の一丁目と称する――高校時代の炭治郎にとっては、義勇を朝も夜も見られる天国のごときものだったけれど――恒例の、二十七日から三十日にかけての冬合宿だってあった。だから、義勇が完全に休みだった日数は、一般的なサラリーマンにくらべればかなり少ない。
大学生の炭治郎はといえば、今年は集中講義には出なかったので、丸々冬休みを満喫したうえに、二週間ほど通えばすぐ春休みだ。毎度のことながら、多忙な義勇にくらべて気楽すぎる境遇に、なんだか申し訳なくなる。
長期休暇のたび、自分ばかり楽をしてるとなんとなく落ち込んでしまう炭治郎に、義勇が
「気楽に過ごせるのは今だけだぞ。四年になれば嫌でも忙しくなる。教師になったら俺と同じような生活だ。今のうちに精々ぐーたら生活を満喫しておけばいいだろう」
と、苦笑するのも、いつもの光景となって久しい。
「そうは言っても、なんだか義勇さんばっかり損させてる気分になっちゃうんですよね」
ダラダラするのも性に合わないしと、いつも通り返して頭をかいた炭治郎に、ニヤリと笑った義勇の顔が近づいて、耳元でささやかれたのは、一月五日の夜のこと。
「それなら大事な仕事をまかせていいか?」
「大事な仕事?」
耳をくすぐる吐息に首をすくめつつ聞いた炭治郎にも、なんとなく次の言葉と、それからの流れは予想がついた。それぐらいには、一緒にいる時間を積み重ねている。
「恋人の疲れを癒すっていう、重大な仕事を頼みたいんだが?」
「それは責任重大ですね。俺で務まります?」
クスクスと笑いながら義勇の首に腕をまわして言えば、おまえじゃなきゃ駄目だろと、少しあきれた声とともにひょいと抱き上げられた。
時刻は九時。食事も風呂も済ませた。眠るには早すぎるけれど、ベッドの上で運動するにはそこそこいい時間だ。そして明日は冬休みの最終日。寝坊しても、ベッドから抜け出せなくなっても、誰にも叱られない。
「二日間一人寝になるからな。たっぷり癒してもらわないと」
「いいですよ。俺も義勇さんを補充しとかなきゃなんで」
クリスマスにも同じようなやり取りをしたばかりだが、それはそれ、これはこれだ。
笑いあってふたりでダイブしたセミダブルのベッド。同棲初日に買ったベッドのスプリングは、まだまだ衰え知らずで、その夜もたいそういい仕事をしてくれた。
作品名:雪の日の完璧な過ごし方 作家名:オバ/OBA