その関係に名前はまだない
「また連絡する」
「はい」
素っ気ない言葉に甘さはない。お金を渡されないのだけが、最後の砦。
恋人じゃないから、手を振り合ったりなんかしない。バイバイのキス? あるわけない。
キスはする。ホテルの部屋でなら。手なんか繋いだこともない。当たり前だ。
だってあの人は、俺の体にしか興味がない。ほかに好きな人がいるから。
人目をはばかり、最寄駅から一つ先の駅前で車を降りたら、今日の逢瀬もおしまい。朝がくればまた、こんな夜のことなんて素知らぬふりで、先生と生徒の顔で「ピアスを外せ」「嫌です」と、追いかけっこするんだろう。
乗り込んだ電車の窓を流れる夜景をぼんやり眺めて、溜息なんて吐いてみる。ラッシュ時を過ぎた車内は、疲れた空気が漂っている。それでも乗り合わせた人たちにだって、帰る場所は決まっているんだろう。
迷子みたいな気分でいるのは、きっと俺だけだ。
愛だ恋だじゃないくせに、優しくなんて抱かないで欲しい。
今日もあの人の手や唇は優しかった。まるで愛しい恋人みたいに俺を抱くから、哀しくなる。
好きな人の身代わりでしかないことぐらい、嫌になるほどわかっている。だからあの人は、俺を優しく抱いてくれるだけだ。承知してるとも。絶対に不満なんて口にはしないし、成り代わろうとなんて思っちゃいない。
ただ、あの人の優しさこそが哀しいんだなんてこと、あの人はきっと気づかない。
「義勇さんの、馬鹿……」
呟く言葉を音にはしない。吐息だけで綴った名前は、口には出せないから。
夜のあの人に名前はない。俺にも名前がないように。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
始まりは、姦しい声での女子の噂話。
『トミセンお見合いするんだって』
聞えた瞬間に、想像していた以上のショックを受けた。
だって好きだった。ずっと前から。
義勇さんが店の常連さんでしかなかったころから、ずっと、ずっと、好きだった。義勇さんが教師になると知って、毎日義勇さんを見られるなんて不純な理由で受けたキメツ学園。通ってみれば凄く楽しくて、義勇さんのことがなくてもここにして良かったと思った。
高等部に上がってからは、竹刀を持った鬼の形相の義勇さんに負いかけられたりもしてるけど、それさえ本当は嬉しかった。
このままでいいと思ってたんだ。嘘じゃない。だって告白する勇気なんてないし、実るわけもない恋だ。
でも、見ていられるだけでいいなんて、欺瞞だったって思い知った。義勇さんの隣に誰かが立つところなんて見たくない。俺のほうが絶対に、その誰かより義勇さんのことが好きに決まっているのに。
ぐつぐつと胸のうちで煮え立つ嫉妬や、どうしようもない哀しさに、かなり自暴自棄になって登録したのは、ゲイ専用の出会い系サイト。
忘れようと思ったんだ。普通に彼女を作るには、義勇さんのことが好きすぎて、無理だろうなって確信もあった。新しい恋を探すなら、ひとかけケラでもいいからあの人に似たところがある人にしたい。男の人が好きなわけじゃないけど、女の子に対してそんな動機で接するのは、ためらいもあった。
男ならいいのかって話じゃないだろうと、自分でも思う。そんな理由で相手を探すなんて、大変失礼な話だ。けれど、似たところから入ったとしても、いずれその人を好きになれればいいんじゃないかとも思った。でないときっと、ほかの誰かじゃ好きになることすら難しい。それに、大人の男の人なら、こんな理由だろうと受け入れてくれる人がいるかもって気もしたし。
目立つピアスを外して、目元を隠して前髪を下ろした自撮りの写真をアップしたら、通知がどんどんきてちょっと怖くなった。
優しい言葉をかけてくれる人も多かったけど、あからさまにいやらしい言葉を書き込む人もいる。返事をする間もなく増えてく通知に、後悔し始めたとき、その人の書き込みに気づいた。
似てる、と、思った。
癖の強い長い黒髪を一つに結んだ、年上の人。ほかの人の写真と同様に、顔はよくわからないけど、なんとなく義勇さんに似てる気がした。
『叶わない相手だが、俺にも好きな人がいる。気持ちがほかにあるので、恋人にはなれないと思う。体だけの関係になるかもしれないが、それでも良ければ』
メッセージの内容も、ほかの人とは違ってた。慰める言葉もないし、俺なら君を愛してやれるよなんていう空々しさもない。正直すぎるメッセージに、ちょっと笑った。
新しい恋という俺の望みとは違うけれど、それでもいいか。この人なら、なんとなく安心できる気がした。だからその人にだけ、よろしくお願いしますと返信した。
名前はTの一文字。冨岡のT、なんてね。あるわけないけど、似たところがもう一つと思ったら、少しだけワクワクした。
ちなみに俺のハンドルネームはぶどうパン。センスの欠片もない名前だ。ほかの投稿者からもずいぶん浮いてる。けれども、本名は絶対にNGだし、俺の名前をもじるにしてもちょっと微妙。パン屋にしようかなと思ったけど、それじゃ個人情報に近いかなぁと悩んだ結果、連想ゲームのように出てきたのが、義勇さんがいつもお昼に食べてるパンだったんだから、俺もかなり終わってる。
Tさんはほかの人と違って、その後も俺を誉めそやすような言葉を書き込むことはなかった。待ち合わせを決める連絡も、端的な素っ気ない文章ばかりなのが、ますます義勇さんみたいで、もしかしたらこの人のことを好きになれるかもと期待した。Tさんにだって好きな人がいるんだから、やっぱり片思いになっちゃうかもしれないけどさ。それでも、義勇さんへの想いよりは、苦しくないだろう。
そんなこんなで、期待とちょっぴりの不安を抱えて臨んだ、約束の日。
待ち合わせ場所に現れたその人を見て、真っ先に浮かんだ一言は、そりゃ似てるはずだよ、だった。
驚いたのは俺だけじゃなく、義勇さんも同様だったらしい。茫然としてた。
変装のために前髪を下ろしてピアスを外した俺と同じく、義勇さんも、視力はいいくせにスクエアフレームの黒縁眼鏡なんかかけてる。髪はいつもの無造作なひっつめ頭じゃなく、ハーフアップだ。正直、格好良すぎて膝から崩れ落ちるかと思った。
目にしたとたんに、気分は偶然街で推しに出逢えたミーハーなファンと化した。心のなかで伏し拝みたくなるぐらいの私服姿に、心のなかでウチワなんか振ってみちゃったりして。
まぁ、ただの現実逃避だけれども。興奮もほんの一瞬だったしね。
だってまさか、叶わない恋を忘れたくてゲイの出会い系サイトに登録したら、当の本人と逢うことになりましたなんて、想像の範疇を越えすぎてて理解が追い付くわけないじゃないか。
言い訳がぐるぐると頭を回る一方で、義勇さんがゲイなら、もしかして俺にもチャンスがあるのかと、浅ましい期待も消せなくて。言葉をなくした俺を目を見開いて見つめていた義勇さんは、やがてぐっと唇を引き締めると、顎をしゃくって「来い」と言い放った。
義勇さんが怖い顔をするのなんて、ピアスをめぐる鬼ごっこで見慣れている。なのにその顔は、学校で目にするのとはどこか違っていて、そこで初めてひやりと背筋を汗が伝った。
「はい」
素っ気ない言葉に甘さはない。お金を渡されないのだけが、最後の砦。
恋人じゃないから、手を振り合ったりなんかしない。バイバイのキス? あるわけない。
キスはする。ホテルの部屋でなら。手なんか繋いだこともない。当たり前だ。
だってあの人は、俺の体にしか興味がない。ほかに好きな人がいるから。
人目をはばかり、最寄駅から一つ先の駅前で車を降りたら、今日の逢瀬もおしまい。朝がくればまた、こんな夜のことなんて素知らぬふりで、先生と生徒の顔で「ピアスを外せ」「嫌です」と、追いかけっこするんだろう。
乗り込んだ電車の窓を流れる夜景をぼんやり眺めて、溜息なんて吐いてみる。ラッシュ時を過ぎた車内は、疲れた空気が漂っている。それでも乗り合わせた人たちにだって、帰る場所は決まっているんだろう。
迷子みたいな気分でいるのは、きっと俺だけだ。
愛だ恋だじゃないくせに、優しくなんて抱かないで欲しい。
今日もあの人の手や唇は優しかった。まるで愛しい恋人みたいに俺を抱くから、哀しくなる。
好きな人の身代わりでしかないことぐらい、嫌になるほどわかっている。だからあの人は、俺を優しく抱いてくれるだけだ。承知してるとも。絶対に不満なんて口にはしないし、成り代わろうとなんて思っちゃいない。
ただ、あの人の優しさこそが哀しいんだなんてこと、あの人はきっと気づかない。
「義勇さんの、馬鹿……」
呟く言葉を音にはしない。吐息だけで綴った名前は、口には出せないから。
夜のあの人に名前はない。俺にも名前がないように。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
始まりは、姦しい声での女子の噂話。
『トミセンお見合いするんだって』
聞えた瞬間に、想像していた以上のショックを受けた。
だって好きだった。ずっと前から。
義勇さんが店の常連さんでしかなかったころから、ずっと、ずっと、好きだった。義勇さんが教師になると知って、毎日義勇さんを見られるなんて不純な理由で受けたキメツ学園。通ってみれば凄く楽しくて、義勇さんのことがなくてもここにして良かったと思った。
高等部に上がってからは、竹刀を持った鬼の形相の義勇さんに負いかけられたりもしてるけど、それさえ本当は嬉しかった。
このままでいいと思ってたんだ。嘘じゃない。だって告白する勇気なんてないし、実るわけもない恋だ。
でも、見ていられるだけでいいなんて、欺瞞だったって思い知った。義勇さんの隣に誰かが立つところなんて見たくない。俺のほうが絶対に、その誰かより義勇さんのことが好きに決まっているのに。
ぐつぐつと胸のうちで煮え立つ嫉妬や、どうしようもない哀しさに、かなり自暴自棄になって登録したのは、ゲイ専用の出会い系サイト。
忘れようと思ったんだ。普通に彼女を作るには、義勇さんのことが好きすぎて、無理だろうなって確信もあった。新しい恋を探すなら、ひとかけケラでもいいからあの人に似たところがある人にしたい。男の人が好きなわけじゃないけど、女の子に対してそんな動機で接するのは、ためらいもあった。
男ならいいのかって話じゃないだろうと、自分でも思う。そんな理由で相手を探すなんて、大変失礼な話だ。けれど、似たところから入ったとしても、いずれその人を好きになれればいいんじゃないかとも思った。でないときっと、ほかの誰かじゃ好きになることすら難しい。それに、大人の男の人なら、こんな理由だろうと受け入れてくれる人がいるかもって気もしたし。
目立つピアスを外して、目元を隠して前髪を下ろした自撮りの写真をアップしたら、通知がどんどんきてちょっと怖くなった。
優しい言葉をかけてくれる人も多かったけど、あからさまにいやらしい言葉を書き込む人もいる。返事をする間もなく増えてく通知に、後悔し始めたとき、その人の書き込みに気づいた。
似てる、と、思った。
癖の強い長い黒髪を一つに結んだ、年上の人。ほかの人の写真と同様に、顔はよくわからないけど、なんとなく義勇さんに似てる気がした。
『叶わない相手だが、俺にも好きな人がいる。気持ちがほかにあるので、恋人にはなれないと思う。体だけの関係になるかもしれないが、それでも良ければ』
メッセージの内容も、ほかの人とは違ってた。慰める言葉もないし、俺なら君を愛してやれるよなんていう空々しさもない。正直すぎるメッセージに、ちょっと笑った。
新しい恋という俺の望みとは違うけれど、それでもいいか。この人なら、なんとなく安心できる気がした。だからその人にだけ、よろしくお願いしますと返信した。
名前はTの一文字。冨岡のT、なんてね。あるわけないけど、似たところがもう一つと思ったら、少しだけワクワクした。
ちなみに俺のハンドルネームはぶどうパン。センスの欠片もない名前だ。ほかの投稿者からもずいぶん浮いてる。けれども、本名は絶対にNGだし、俺の名前をもじるにしてもちょっと微妙。パン屋にしようかなと思ったけど、それじゃ個人情報に近いかなぁと悩んだ結果、連想ゲームのように出てきたのが、義勇さんがいつもお昼に食べてるパンだったんだから、俺もかなり終わってる。
Tさんはほかの人と違って、その後も俺を誉めそやすような言葉を書き込むことはなかった。待ち合わせを決める連絡も、端的な素っ気ない文章ばかりなのが、ますます義勇さんみたいで、もしかしたらこの人のことを好きになれるかもと期待した。Tさんにだって好きな人がいるんだから、やっぱり片思いになっちゃうかもしれないけどさ。それでも、義勇さんへの想いよりは、苦しくないだろう。
そんなこんなで、期待とちょっぴりの不安を抱えて臨んだ、約束の日。
待ち合わせ場所に現れたその人を見て、真っ先に浮かんだ一言は、そりゃ似てるはずだよ、だった。
驚いたのは俺だけじゃなく、義勇さんも同様だったらしい。茫然としてた。
変装のために前髪を下ろしてピアスを外した俺と同じく、義勇さんも、視力はいいくせにスクエアフレームの黒縁眼鏡なんかかけてる。髪はいつもの無造作なひっつめ頭じゃなく、ハーフアップだ。正直、格好良すぎて膝から崩れ落ちるかと思った。
目にしたとたんに、気分は偶然街で推しに出逢えたミーハーなファンと化した。心のなかで伏し拝みたくなるぐらいの私服姿に、心のなかでウチワなんか振ってみちゃったりして。
まぁ、ただの現実逃避だけれども。興奮もほんの一瞬だったしね。
だってまさか、叶わない恋を忘れたくてゲイの出会い系サイトに登録したら、当の本人と逢うことになりましたなんて、想像の範疇を越えすぎてて理解が追い付くわけないじゃないか。
言い訳がぐるぐると頭を回る一方で、義勇さんがゲイなら、もしかして俺にもチャンスがあるのかと、浅ましい期待も消せなくて。言葉をなくした俺を目を見開いて見つめていた義勇さんは、やがてぐっと唇を引き締めると、顎をしゃくって「来い」と言い放った。
義勇さんが怖い顔をするのなんて、ピアスをめぐる鬼ごっこで見慣れている。なのにその顔は、学校で目にするのとはどこか違っていて、そこで初めてひやりと背筋を汗が伝った。
作品名:その関係に名前はまだない 作家名:オバ/OBA