約束はいらない
「長男って立場に縛られず生きてほしいんだそうだ」
「縛られてる、わけじゃ、ないです」
「葵枝さんからすれば、そうは見えないんだろう。長男だからなんて理由で、お父さんとの大事な思い出の詰まった店を継がれるのはごめんだとも言ってたぞ?」
苦笑してる気配がする。顔はまだ上げられない。
「店は本当にパン屋が好きで、パンを愛してる子がいればその子に継いでもらうし、いなければ自分の引退と同時に閉めるそうだ。あの店は、葵枝さんたちご夫婦の夢の店で、子どもを縛る場所じゃないと言っていた。俺も……おまえの我慢で成り立つ幸せならほしくないし、約束なんかでお前を縛りたくはなかったんだが」
頭から手が離れたと思ったら、こたつの上で握りしめてた手が、そっと温もりに包み込まれた。
「指を出せ」
そろりと顔を上げて、恐る恐る見上げた義勇さんの顔は、小さく笑っている。持ち上げられた左手に、銀色の輪っかがはめられた。
薬指に鈍く光る、銀紙の輪っか。指輪なんてごたいそうなものじゃなく。多分これ、チョコの包み紙だ。さっきまでゴソゴソとなにかしてたのは、これを作ってたのか。
「本物は、おまえが二五になるまでお預けだ。だがこれは、約束の指輪じゃない。どちらかといえばおまじないみたいなもんだな。いつまでもこんなふうに一緒にいられますようにっていう、他愛ないまじないだ」
「なんで、二五……?」
「社会を知っていろんな人に出逢って、世界が広がれば、おまえの心も変わるかもしれない」
「そんなことないですっ!」
思わず食ってかかったら、左手をぎゅっと握られた。義勇さんの顔にはやっぱり小さな笑み。どこか切なげな苦笑だ。
「おまえが二五になったら、俺は三五のおじさんだ。おまえはきっといろんな人に好かれるだろうしな。こんなおじさんはごめんだと、フラれる可能性もあるだろう?」
「あるわけないでしょっ! そんなもん!」
「うん。そうならいいと思ってる」
大きな両手に包み込まれた左手に、義勇さんはこつんと額を当てた。
「約束は、して、くれな、っですか?」
しゃくり上げるのが止まらないから、言葉は途切れ途切れになった。涙もまだ止まらない。約束だと言ってくれたのなら、絶対に守るのに。なにがあっても。
「約束なんてもので縛るのはごめんだ。そのときのおまえの、自由な意思で選ばれたい。そう願うのは無謀か?」
ブンブンと首を振ったら、義勇さんは小さな声をあげて笑った。
「ほ、ホント、は、俺も、先生に、なりたく、て」
「うん」
「義勇さん、と、一緒にいたい、のも、あるんです、けどっ、義勇さんみたいに、生徒に一所懸命な、先生、いいなぁ、って。初等部、の、先生とか、なりたいなぁ、って」
でも、教員免許なんてとってない。家を継ぐのが当たり前だと思ってたから、夢見ることすらしちゃいけない幻だと、諦めていた。本当は先生に憧れてたんだなんて、口にすることだって一度もできなかった。
「民間企業から教員への転職も、ないわけじゃない。アルバイトしながら通信制大学で必要な単位をとって、教員免許を取得した人もいる。おまえにだってできる」
「でも、一緒にいたいなんて、そんな理由」
「おまえに同じ学校に通ってみたかったのになんて言われたことが、教職を選ぶきっかけになった俺には、耳が痛いな」
それでも今は一生教師をつづけるつもりでいるぞと、義勇さんは小さく笑う。
夢見てもいいんだろうか。いや、夢なんかじゃない。夢なんていう甘いだけのきれいごとじゃなくて、果たすべき目標で、幸せになるための必須条件。苦くても、つらくても、毎日噛みしめて飲み込んで、いつか終わるその日まで。大変なこともあったけど、一緒にいられて幸せだったねと笑いあう、遠い未来のために。
「約束じゃ、なくても、い、です。でも、ずっと、好きで、いて」
「うん。俺も、ずっと好きでいてもらえるよう、頑張る」
左手の薬指にはめられた、銀紙の指輪。甘ったるすぎる外国旅行の土産のチョコレート。三日後の義勇さんの誕生日も、こんな何気ない日常のなかで過ぎていくんだろう。何年も、何年も。繰り返し。
約束なんかいらない。毎日、毎年、約束じゃなくそのときそのときの素直な心で、好きって笑いあう。
苦いビターのチョコの包み紙を、泣きながら撚って、義勇さんの左手の薬指に巻いた。
「春になったら……もう少し、広い部屋に引っ越そうか」
「学校の、近くがい、です」
「そうだな。おまえが教師になったら、ふたりで毎日通うんだから」
窓はガタガタ揺れている。外は寒いけど、隙間風も吹き込むけれど、ふたりでいるから温かい。
冷めきったコーヒー。甘ったるすぎるチョコレートは残り三分の一。ときどき交じる、ビターな苦さ。全部、全部、飲みこんで。今日も、明日も、明後日も、約束はせずに、ふたりで生きてく。