約束はいらない
あのとき、担任だった義勇さんも、俺の味方をしてくれなかった。
進路希望の用紙を見たときも、露骨に眉をひそめて「本当にこれでいいのか? ちゃんとお母さんと相談したのか?」と、何度も念を押してきた。義勇さんは、きっと母さんの希望が俺の大学進学だと、知っていたんだろう。
どうしてそんなに俺を大学に行かせたがったのか。母さんも義勇さんも、今も理由を話してくれない。答えは自分で見つけなさい。母さんはそう言ったし、義勇さんも「おまえ自身が納得できなきゃ意味がない」と、答えてはくれなかった。
納得してないというなら、大学に通う今の状況そのものと言えなくもない。それでも、こんなふうに同棲できるのは大学に進んだからだ。家で働いていたのなら、義勇さんと暮らすことなんてできなかった。専門学校だって、今ごろは卒業して家に帰っていただろう。
卒業が近づいた今になって思うのは、ふたりは俺に猶予をくれたんだってこと。
学生っていうのは不思議だ。体はもう大人だし、成人したから法的にも責任をともなう生活を送っているのは間違いない。それなのに、学生だというだけで、まだまだ子どもでいられるような気がしてしまう。
でもそれはたった四年。四年間だけの期間限定な自由時間。長男だから俺は家を継ぐ。それは定められた未来で、大学を卒業したらいろんなことが変わるはずだったのだと、気がついたのは最近だ。
卒業したら、家を継ぐ。それはすなわち、同棲を終えて家に戻るということだ。
ゾクッと背筋がわれ知らず震えて、チョコをまた口に放り込んだ。精神安定剤としては甘ったるすぎるはずのチョコレートは、ビターだった。いっそ苦いと言っていいほどのチョコに、思わずむせそうになる。
「おい、大丈夫か?」
「はい。チョコ、苦いの交ざってました」
これ、と手にしたままの包み紙を見せれば、義勇さんは箱のなかを見まわして、同じ包みのチョコをつまみ上げた。
「そんなに苦いのか?」
「んー、そうでもない、かな? 甘いと思ってたら苦かったんで、ビックリしちゃいましたよ」
おどけて笑ってみせれば、義勇さんも小さく口角を上げた。
こんなふうにふたりで過ごせるのは、いつまでだろう。
「就職は決まりそうなのか?」
わずかな笑みにぼんやりと見惚れていたら、聞きたくない言葉が義勇さんの口から飛び出した。
思わず眉を下げて黙り込む。ポンポンと頭を軽く叩かれて、ちろりと上目遣いに見つめれば、義勇さんは表情を引き締め、先生の顔になった。
「決まらないのは、やりたいことが明確じゃないせいじゃないのか? 書類を出した会社はどれも、業種がバラバラだっただろう」
「でも……とにかく働かなきゃいけないし。どんな仕事でも、雇ってもらえるなら真面目にやります!」
「それは当たり前だろう」
「イタッ」
ピンッとおでこを指先で弾かれて、つい唇を尖らせる。
「やりたいことはないのか」
「そういうわけじゃ……ないんです、けど……でも」
憧れなら、ある。でも、やりたい、やってみたいで、なれるような職業でもないし、そんな資格だって取っていない。なによりも、就職したとしても俺はいずれ家を継ぐのだ。足かけでやれる仕事じゃないのに、やりたいだけで口にするのはためらわれた。
「就職先は諦めずに探しますけど、しばらくはアルバイトでつなごうと思ってます。いいですか?」
「俺の許可を得るようなことじゃないだろう」
そっけない声だけれど、無関心なわけじゃない。わかってる。なのに、疲れた心にはグサリと刺さった。
「……義勇さん、春になったら、どうするんですか?」
「春?」
「部屋、更新するのか、引っ越すのか」
唐突な話題の変化に、義勇さんの眉がわずかにひそめられる。今聞くことか?と、瞳が言っている気がした。
「引っ越すなら、アルバイト先もそっちに近いほうがいいし!」
就職先の候補も、志望動機はどれも通いやすさだ。仕事の内容なんてどうでもよかった。どんな仕事だって頑張ると言ったのも嘘じゃない。
義勇さんと一緒にいられる時間が、あまり減らないように。
そんな本気の志望動機なんて、口にできるわけもなく。お手本のような上っ面だけの志望理由は、面接官にはバレバレだったんだろう。書類選考を通っても、面接で落とされるのも当然だ。
そしてそれは、義勇さんにも悟られてしまったらしい。
「通いやすさは十分志望動機にはなるが……アルバイトならともかく、将来のことを考えたらもう少しやりがいなんかも考えたほうがいい」
らしくないなと言われた瞬間に、カッと頭に血がのぼった。
「俺らしいってなんですかっ!? このうえなく俺らしいですよ! 俺がどうしても叶えたい望みなんて、義勇さんと一緒にいたい、それだけなんだから!」
母さんが譲らないんだからしかたがない。家族全員が賛成だから。そんなの本当は言い訳だ。家に戻って、逢えない時間のなかですれ違っていくのが怖かった。
さっきのチョコと同じだ。甘いと思っていたのに、現実は苦かった。
告白が受け入れられて、甘いだけの恋人の時間がおとずれるのだと思っていたけれど、現実は苦さがつきまとう。
忙しすぎる義勇さんとは、一緒に過ごせる時間は少ない。同棲したってそれはあまり変わらなかった。
わかってる。義勇さんだって努力してくれてるんだ。仕事をどうにかやり繰りして、なんとか俺と過ごす時間を作ってくれていることぐらい、ちゃんとわかってる。
でも、どんどん欲張りになるんだ。怖くなってくる。一年ごとに俺たちも年をとる。義勇さんはもう三二歳になる。結婚しないのかと周りから言われだしてもおかしくない。
俺だってもう学生じゃなくなる。期間限定の自由時間はもう終わりだ。
理解のある家族のもとで、義勇さんと離れて暮らすか。一緒にいられても、義勇さんとの関係を隠して、何食わぬ顔で社会に出て働くのか。
どちらも選べないし、選びたくない。
長男なのに、自分の都合やわがままだけで、将来なんて選べるわけないってわかってるのに、選びたくなくて駄々をこねているようなものだ。
「……葵枝さんとは、ちゃんと相談したのか?」
「せ、先生みたいなこと、言わないでっ」
今ここにいるのは冨岡先生じゃなくて、恋人の義勇さんなのに。俺だってもう生徒じゃない。甘やかしてほしいなんて言わないけど、今は先生の顔なんて見せてほしくない。
とうとう涙がこぼれて、こたつの上にぽつりぽつりと小さな水滴が散る。
こんなみっともなくて煩わしいこと、したくなかった。だけど涙は止まらなくて、思わずこたつに突っ伏して顔を隠した。
ポンッとまた頭に触れた大きな手。くしゃくしゃと髪を撫でる手は、やさしい。そのやさしさに、ますます涙があふれた。
「おまえに同棲を切り出す前に、葵枝さんと話した。俺たちのことと……おまえの将来のことを」
静かな声に、知らず肩が揺れた。初耳だ。やけにすんなり許可を貰えたけれど、そういうことだったのか。俺の口からは、家族には今も、義勇さんとの関係ははっきりとは言っていない。知られているんだろうなとは思っていたけれど、まさか義勇さんがバラしていたとは。