お膳立ての采配
秋の日は暮れるのが早い。夕日が沈みゆき、山の稜線が黒く染まるころ、稽古を終えた義勇は炭治郎を伴い水屋敷へと戻った。
想いを告げあいふたりが恋仲となって、そろそろひと月になる。稽古中は厳しい顔をくずさない義勇も、屋敷へと戻ればまとう空気は至極穏やかだ。惚れた相手と毎日過ごす喜びは、朴念仁と揶揄される義勇をも浮かれさせる。夕餉はなににしましょうかと笑う炭治郎に、小さく笑い返すぐらいには、ともにいる時間にも慣れてきた。
まとわりつかれることに以前は辟易したものだが、今では、尻尾を振る子犬のように侍られるのがうれしくてたまらないのだから、我ながら現金なものだ。
恋仲となってみれば、炭治郎の一挙手一投足に心弾み、キュウッと胸が甘くうずいたりもする。恋を知る前とは、まったくもって自分は変わってしまった。
もちろん、大義を忘れたことなどないし、胸に抱いた覚悟は変わらずいささかの怯みもない。けれども、こんな時間がつづけばいいと願う心もまた、真実だ。
いや、このままというのも困るか。
ふと浮かんだ近ごろ頭を悩ませている懸案に、ちらりと傍らをうかがい見れば、炭治郎はブツブツ呟きつつ献立を考えている。小さく動く唇から、義勇は目が離せない。
「んー、ナスがあるから煮びたしにして……主菜はなにがいいですか?」
「なんでもいい」
「そういうのが一番困るんですよ?」
「おまえが作るものは全部うまいから、なんだって文句はない」
他愛ない会話だ。義勇にしてみれば当然のことを言ったまでのことである。だが、炭治郎にとっては違ったらしい。
「えっと……うれしい、です。義勇さんに喜んでもらうのが、俺、一番幸せですから」
モジモジとうつむく炭治郎の頬を染めるのは、差し込む夕焼けか、それとも含羞ゆえか。紅く染まるその頬は、あどけなさを残してまろい。触れたらさぞや柔らかく、手にしっとりと馴染むのだろう。
知らず見惚れて黙り込んだ義勇を訝しんだか、炭治郎がそろりと視線をあげて、上目遣いに義勇を見た。
沈黙が落ちる。見上げてくる夕焼けよりも赫い瞳が潤んでいる……ような、気がする。ただの願望だろうか。いや、そうとばかりは言えまい。
こくりと、われ知らず義勇の喉が小さく鳴った。今、腕をとり引き寄せても、きっと炭治郎は拒まないだろう。抱きしめて、それから。
思いつつ義勇は、そっとささやいた。
「炭治郎……」
答えるようにパチリと大きな目がまばたき、そして。
「水柱様、おいでですか? 修繕した隊服をお届けにまいりました」
唐突に聞こえてきた声に、パッと炭治郎は身をひるがえした。
「はーい、今行きます!」
躊躇なく玄関に向かう炭治郎に、差し伸べかけた義勇の腕がぱたりと落ちた。ポツンとひとりきり座敷に取り残されて、なんなら肩もがっくりと落ちる。
まただ。またなのかっ。いったいこれはなんの試練なんだ!?
思わず床に伏せたくなるが、それも当然だろう。なにせ、炭治郎と恋仲になってから、ずっとこんな調子なのだ。接吻できそうな雰囲気になるたび、必ず邪魔が入る。
この前は稽古の帰り道。土手の木陰で抱き寄せようとしたら、道行く犬に吠えたてられた。その前は縁側での談笑中、義勇の頬についた茶菓子の欠けらを、炭治郎が微笑みながらとってくれたとき。思わず炭治郎の手を取り見つめあったとたんに、突然寛三郎が「お館様のお呼びじゃ」と、明後日の方向へ飛んでいこうとして追いかける羽目になった。
いつでもそんな具合で、これはと思う雰囲気になるたび、なにがしかに妨害される。甘い空気など霧散して、接吻どころではなくなるのだ。
思えば初めてそんな空気になったときから邪魔されどおしだ。失敗、また失敗と、接吻未遂を繰り返し、三度目の正直と顔を近づけたときなど、唇が触れそうになった瞬間に炭治郎がくしゃみした。あれは、ひどかった。
もしかして、血鬼術にでもかかっているのだろうか。でなければ、いくらなんでも妨害される確率が高すぎる。そんな馬鹿馬鹿しいことを、割合本気で義勇は考える。
だが、もちろんそんなへまをした覚えはない。
本当になんだというのだ。いったい俺がなにをした。
どっぷりと落ち込む義勇をよそに、戻ってきた炭治郎は、呑気に笑っている。
「義勇さん、この隊服は箪笥にしまっとけばいいですか?」
衒いなく聞く炭治郎には、先ほどまでの色めいた情緒になど頓着した様子はない。もしかしたら、甘やかな空気などはなから感じていなかった可能性もある。
なんでおまえは残念だと思わないんだ。ちょっとばかり恨みがましく思って、義勇は無言で炭治郎を見据えた。
恋仲、の、はずなのだが。
いっそ自分の勘違いだったと言われるほうが信じられるほどに、炭治郎は、ケロリとしている。
初心なのは知っていたが、まさか、恋仲になっても今までと同じように、ともに食事したり談笑するだけのつきあいがつづくと、思い込んでいるわけじゃあるまいな。
じとっと見据えても、炭治郎はパチクリとまばたきし、小首をかしげるばかりだ。
「どうしました? あ、お腹空いたんですね! ちょっと待っててくださいね。これをしまったらすぐに夕餉にしますから」
合点がいったと言わんばかりに笑う炭治郎に、腹のうちに苛立ちが生まれ、知らずこめかみがピクリと引きつった。
食いたいのは飯じゃない。おまえだっ。
腹立ちをこらえて嘆息し、義勇は座り切って胡坐をかいていそうな目で、じっと炭治郎を見つめた。
義勇の不機嫌さには気づいたようだが、理由はさっぱり思いいたらないらしい炭治郎はと言えば、困り顔で「待ちきれませんか? なにか小腹ふさぎになるものあったかなぁ」などと、呑気に呟いている。
もういい。雰囲気などかまってられるか。こうなれば実力行使と、義勇は犬の子でも呼ぶようにちょいちょいと炭治郎を手招きした。
「なんですか?」
「目を閉じろ」
素直に寄ってきた炭治郎に命じれば、これまた逆らいもせず、炭治郎はそくざに目を閉じる。危機感など微塵もない。これはもう本当に、接吻うんぬんなどまるきり頭にないに違いない。
俺がどれだけお膳立てに苦心してきたか思い知るがいいと、いっそ不穏なくらいの言葉を脳裏に浮かべつつ、目を閉じた炭治郎の顔を憮然と見下ろす。
義勇は炭治郎の肩にそっと手を乗せた。ピクリと揺れた肩に、わずかばかり不満が晴れる。一歩近づけば、義勇が近づいたのがわかったのだろう、炭治郎の顔が小さく上向いた。
ささやかな動きにあわせて、ごく薄く唇が開かれた。目を奪われたまま、義勇は、ゆっくりと顔を近づける。
あぁ、やっとだ。ようやくおまえと接吻できる。
今までの失敗が走馬灯のように脳裏をよぎり、深い感慨が義勇の胸に満ちる。歓喜に打ち震えそうになる体を抑えつつ、唇を触れあわせようとした瞬間。
「あのぉ、隊服が皺になっちゃうんでしまってきてもいいですか?」
絶句。義勇がビシリと音がしそうなほどに硬直したのは言うまでもなく。ギョッと見開いた目が、すぐさまギンッとつり上がった。
「今すべきことはそれじゃない!!」
「ひぇっ!」
想いを告げあいふたりが恋仲となって、そろそろひと月になる。稽古中は厳しい顔をくずさない義勇も、屋敷へと戻ればまとう空気は至極穏やかだ。惚れた相手と毎日過ごす喜びは、朴念仁と揶揄される義勇をも浮かれさせる。夕餉はなににしましょうかと笑う炭治郎に、小さく笑い返すぐらいには、ともにいる時間にも慣れてきた。
まとわりつかれることに以前は辟易したものだが、今では、尻尾を振る子犬のように侍られるのがうれしくてたまらないのだから、我ながら現金なものだ。
恋仲となってみれば、炭治郎の一挙手一投足に心弾み、キュウッと胸が甘くうずいたりもする。恋を知る前とは、まったくもって自分は変わってしまった。
もちろん、大義を忘れたことなどないし、胸に抱いた覚悟は変わらずいささかの怯みもない。けれども、こんな時間がつづけばいいと願う心もまた、真実だ。
いや、このままというのも困るか。
ふと浮かんだ近ごろ頭を悩ませている懸案に、ちらりと傍らをうかがい見れば、炭治郎はブツブツ呟きつつ献立を考えている。小さく動く唇から、義勇は目が離せない。
「んー、ナスがあるから煮びたしにして……主菜はなにがいいですか?」
「なんでもいい」
「そういうのが一番困るんですよ?」
「おまえが作るものは全部うまいから、なんだって文句はない」
他愛ない会話だ。義勇にしてみれば当然のことを言ったまでのことである。だが、炭治郎にとっては違ったらしい。
「えっと……うれしい、です。義勇さんに喜んでもらうのが、俺、一番幸せですから」
モジモジとうつむく炭治郎の頬を染めるのは、差し込む夕焼けか、それとも含羞ゆえか。紅く染まるその頬は、あどけなさを残してまろい。触れたらさぞや柔らかく、手にしっとりと馴染むのだろう。
知らず見惚れて黙り込んだ義勇を訝しんだか、炭治郎がそろりと視線をあげて、上目遣いに義勇を見た。
沈黙が落ちる。見上げてくる夕焼けよりも赫い瞳が潤んでいる……ような、気がする。ただの願望だろうか。いや、そうとばかりは言えまい。
こくりと、われ知らず義勇の喉が小さく鳴った。今、腕をとり引き寄せても、きっと炭治郎は拒まないだろう。抱きしめて、それから。
思いつつ義勇は、そっとささやいた。
「炭治郎……」
答えるようにパチリと大きな目がまばたき、そして。
「水柱様、おいでですか? 修繕した隊服をお届けにまいりました」
唐突に聞こえてきた声に、パッと炭治郎は身をひるがえした。
「はーい、今行きます!」
躊躇なく玄関に向かう炭治郎に、差し伸べかけた義勇の腕がぱたりと落ちた。ポツンとひとりきり座敷に取り残されて、なんなら肩もがっくりと落ちる。
まただ。またなのかっ。いったいこれはなんの試練なんだ!?
思わず床に伏せたくなるが、それも当然だろう。なにせ、炭治郎と恋仲になってから、ずっとこんな調子なのだ。接吻できそうな雰囲気になるたび、必ず邪魔が入る。
この前は稽古の帰り道。土手の木陰で抱き寄せようとしたら、道行く犬に吠えたてられた。その前は縁側での談笑中、義勇の頬についた茶菓子の欠けらを、炭治郎が微笑みながらとってくれたとき。思わず炭治郎の手を取り見つめあったとたんに、突然寛三郎が「お館様のお呼びじゃ」と、明後日の方向へ飛んでいこうとして追いかける羽目になった。
いつでもそんな具合で、これはと思う雰囲気になるたび、なにがしかに妨害される。甘い空気など霧散して、接吻どころではなくなるのだ。
思えば初めてそんな空気になったときから邪魔されどおしだ。失敗、また失敗と、接吻未遂を繰り返し、三度目の正直と顔を近づけたときなど、唇が触れそうになった瞬間に炭治郎がくしゃみした。あれは、ひどかった。
もしかして、血鬼術にでもかかっているのだろうか。でなければ、いくらなんでも妨害される確率が高すぎる。そんな馬鹿馬鹿しいことを、割合本気で義勇は考える。
だが、もちろんそんなへまをした覚えはない。
本当になんだというのだ。いったい俺がなにをした。
どっぷりと落ち込む義勇をよそに、戻ってきた炭治郎は、呑気に笑っている。
「義勇さん、この隊服は箪笥にしまっとけばいいですか?」
衒いなく聞く炭治郎には、先ほどまでの色めいた情緒になど頓着した様子はない。もしかしたら、甘やかな空気などはなから感じていなかった可能性もある。
なんでおまえは残念だと思わないんだ。ちょっとばかり恨みがましく思って、義勇は無言で炭治郎を見据えた。
恋仲、の、はずなのだが。
いっそ自分の勘違いだったと言われるほうが信じられるほどに、炭治郎は、ケロリとしている。
初心なのは知っていたが、まさか、恋仲になっても今までと同じように、ともに食事したり談笑するだけのつきあいがつづくと、思い込んでいるわけじゃあるまいな。
じとっと見据えても、炭治郎はパチクリとまばたきし、小首をかしげるばかりだ。
「どうしました? あ、お腹空いたんですね! ちょっと待っててくださいね。これをしまったらすぐに夕餉にしますから」
合点がいったと言わんばかりに笑う炭治郎に、腹のうちに苛立ちが生まれ、知らずこめかみがピクリと引きつった。
食いたいのは飯じゃない。おまえだっ。
腹立ちをこらえて嘆息し、義勇は座り切って胡坐をかいていそうな目で、じっと炭治郎を見つめた。
義勇の不機嫌さには気づいたようだが、理由はさっぱり思いいたらないらしい炭治郎はと言えば、困り顔で「待ちきれませんか? なにか小腹ふさぎになるものあったかなぁ」などと、呑気に呟いている。
もういい。雰囲気などかまってられるか。こうなれば実力行使と、義勇は犬の子でも呼ぶようにちょいちょいと炭治郎を手招きした。
「なんですか?」
「目を閉じろ」
素直に寄ってきた炭治郎に命じれば、これまた逆らいもせず、炭治郎はそくざに目を閉じる。危機感など微塵もない。これはもう本当に、接吻うんぬんなどまるきり頭にないに違いない。
俺がどれだけお膳立てに苦心してきたか思い知るがいいと、いっそ不穏なくらいの言葉を脳裏に浮かべつつ、目を閉じた炭治郎の顔を憮然と見下ろす。
義勇は炭治郎の肩にそっと手を乗せた。ピクリと揺れた肩に、わずかばかり不満が晴れる。一歩近づけば、義勇が近づいたのがわかったのだろう、炭治郎の顔が小さく上向いた。
ささやかな動きにあわせて、ごく薄く唇が開かれた。目を奪われたまま、義勇は、ゆっくりと顔を近づける。
あぁ、やっとだ。ようやくおまえと接吻できる。
今までの失敗が走馬灯のように脳裏をよぎり、深い感慨が義勇の胸に満ちる。歓喜に打ち震えそうになる体を抑えつつ、唇を触れあわせようとした瞬間。
「あのぉ、隊服が皺になっちゃうんでしまってきてもいいですか?」
絶句。義勇がビシリと音がしそうなほどに硬直したのは言うまでもなく。ギョッと見開いた目が、すぐさまギンッとつり上がった。
「今すべきことはそれじゃない!!」
「ひぇっ!」