午後4時のパンオショコラ
「うわっ!! え? え? なに?」
飛び起きた炭治郎がきょろきょろと周囲を見回すのに、イラッとする。自分も起き上がり、義勇は不機嫌な声で唸るように言った。
「なんでそこにいる」
「え、あっ、冨岡さん! おはようございます、気分はどうですか?」
「最悪だ」
言った途端に盛大に慌てだし、救急車呼びますと立ち上がろうとした炭治郎に、深く溜息をつく。
「そうじゃない。昨日より体は楽になった」
「本当ですか? 無理してませんか?」
「ない。それより、おまえはなんでそんなとこで寝てるんだ」
エアコンは利いているようだが、それでもなにもかけずに座ったまま眠っているなど、シャワーで体を温めた意味がないではないか。夢じゃなかったのなら、昨夜の炭治郎の濡れた髪だって現実だ。義勇の言いつけを守って、きちんと髪を乾かしていたのならいいのだけれど。やけにそればかりが気にかかる。
「……すいません、あの、禰豆子から冨岡さんがかなり具合が悪そうだったって聞いて、つい……ポイントカードに住所が書かれてたので来ちゃいました! ごめんなさいっ!!」
勢いよく土下座した炭治郎の謝罪は、質問の意図からすれば的外れだが、そう言えばそもそもの疑問点はそこだったなと気づき、次いで義勇はその言葉の意味にぽかんと口を開けた。
「ポイントカード……」
「あの、スタンプが溜まって引換券として回収したやつです……冨岡さんがずっと持ってたんだって思ったら、その、捨てるのもったいなくて……本当にごめんなさい!」
「おまえ……個人情報保護法を知ってるか?」
「知ってます! あ、あの、でもですね、お客様の住所は年賀状を送るのに使うだけで、ほかの人のポイントカードは責任もって廃棄してますし、冨岡さんのポイントカードも無くしたり落としたりしないように宝箱にしまってありましてっ…………本当にすいませんでした」
しゅんと肩を落としてうつむく炭治郎に、義勇はもう一度嘆息すると、もういいと言いながらベッドを下りた。
「と、冨岡さん? あの、まだ寝てたほうが……」
「昨日からシャワーも浴びてなくて気持ち悪い」
「駄目ですよ! まだ熱も下がってないかもしれないのに、シャワーなんて!」
キッと眉尻を上げて叱る炭治郎に、義勇も盛大に眉をしかめた。
「このまま眠るなんて冗談じゃない」
もうあの男の感触は消え去っているが、やはり体は洗い清めたい。ふと歯に挟まっていた毛の感触まで思い出し、ゾッと背が震えた。歯も磨きまくろうと、心密かに義勇は決意する。いずれにせよ、寝汗がひどかったようで、このままでは気になって眠れそうにないほど肌がべたついてもいた。
立ち止まることなく部屋を出ようとした義勇の足を止めたのは、物理的な抑制だった。
「駄目ですってば! 気になるなら俺が拭きますから!」
ガシリと義勇の足にしがみついて言う炭治郎に、義勇は冗談じゃないと慌てて炭治郎の腕を振りほどこうとしたのだが、炭治郎も引く気はないようだ。
ホテルを出る際に身支度したときには、とくには見受けられなかったが、目の届かない場所には噛み跡や内出血が残されているかもしれない。その手の知識に疎い炭治郎でも、さすがにキスマークぐらいは聞いたことがあるだろう。わからなくても、これどうしたんですかなどと聞かれでもしてみろ、なんと答えればいいというのか。
しばらく攻防戦は続いたが、根負けした義勇が自分で拭くということで、炭治郎も一応の納得を見せた。歯磨きは諦めるしかない。
湯とタオルを用意しに炭治郎が部屋を出た途端、深い溜息が零れたのはしかたないだろう。あの押しの強さはいったいなんなんだ。第一、炭治郎は自分を避けていたのではないのか。店で義勇に示した態度はなんだったというのか。
思い返して、またどろりと心の底で澱みが揺れ蠢いた。溝浚いは完全に失敗だ。澱みはまったく消え去っていない。酷使した体は痛むし風邪は引くしと、まさに踏んだり蹴ったりだ。
顔を見るのも二度とごめんだが、あのテク無し遅漏のサディスト野郎には、もう一発ぐらいお見舞いしてやっても罰は当たらないだろう。
苛立ちを持て余していると、炭治郎が湯気の立つ洗面器を手に戻ってきた。
「背中拭けますか?」
「大丈夫だ。いいから出てろ」
素っ気なく言い捨てれば、炭治郎は少し寂しげに眉を下げたが、素直に部屋を出て行った。
パタンと音を立ててドアが閉まったのを確認して、義勇は服を脱ぎ洗面器に沈むタオルを絞ると体を拭いた。熱くないよう気を遣ったのか、湯の温度はちょうど良く、肌を拭き清めると先ほどまでとは異なる溜息が知らず口をついた。
炭治郎が家のなかにいるのに下着まで脱ぐのはためらったが、一番清めたい場所をそのままにもできない。なんだか思春期のガキみたいだ。思いつつも、ドアを気にしながら手早く済ませる。新しく取り出した下着と部屋着に着替えたところで、ドアがノックされた。
「もう入っても大丈夫ですか?」
「……あぁ」
応えを返したとほぼ同時にドアは開き、炭治郎が入ってくる。手に持ったお盆にはマグカップと小鉢が乗っていた。
「すいません、勝手に台所借りちゃいました。あ、ちゃんと布団に入ってくださいね」
歩み寄りながら炭治郎が世話焼きらしくうながしてくる。ここで反論したところでまたもめるだけだろう。少しばかり億劫に思いつつも、義勇は素直にベッドへと戻った。
「風邪薬用意したので、その前に少しでいいですからこれ食べてください」
「……すりおろしりんご?」
「はい。本当はお粥作りたかったんですけど、寝てる最中に冨岡さんお腹鳴らしてたから、すぐに食べられるほうがいいかと思って」
からかうふうでもなく言われた言葉に、義勇は思わず言葉に詰まった。寝ながら腹の虫を鳴らすなんて、赤っ恥もいいところじゃないか。
義勇の狼狽には気づかなかったのか、炭治郎はベッドの傍らに正座して、すりおろしりんごを掬ったスプーンを「はいアーン」と差し出してくる。
「……自分で食える」
「あ……そ、そうですよね! いつも禰豆子たちが風邪ひくとやってたもので、つい……ごめんなさい」
謝る炭治郎の顔に見える自己嫌悪の色から、義勇は思わず視線を逸らせた。
炭治郎が自分の言葉で一喜一憂するたびに、義勇の感情も合わせて揺れる。それが義勇を苛立たせる。平常心を保とうと、黙々とスプーンを口に運んでいると、それをじっと見ていた炭治郎が意を決したように口を開いた。
「あの、冨岡さん……冨岡さんが店に来なくなってたのって、恋人ができたからですか……?」
「は?」
思いがけない言葉に、思わずぽかんとしてしまう。
恋人? 誰に? そんなもの生まれてこのかたいたことはないが。
怪訝に思っていると、炭治郎は覚悟を決めたという顔で、言い募ってくる。
作品名:午後4時のパンオショコラ 作家名:オバ/OBA