午後4時のパンオショコラ
「薬、飲んでくださいね……またのご来店、お待ちしてます……」
炭治郎の声も静かだった。諦めだったのか、期待だったのか、それは義勇にはわからない。わからなくていいと思う。だから義勇は小説を書いている。
炭治郎が部屋を出て行く。しばらくすると、玄関の引き戸が開閉する音が聞こえた。
薬を飲まなければ。頭の片隅でちらりと思う。炭治郎が用意してくれたマグカップの白湯は、もうすっかり冷えているだろう。それでも炭治郎が義勇のために用意したものだ。入れ直すなんて考えられない。
絆されているとでも言えばいいのだろうか。元々人として好ましい少年だった。そんな子が一途に想ってくれるのだから、気にかかるのは当然だろう。
それでも応えることができないのは、錆兎への恋心があったからだ。
恋する相手は一人でいい。もしも万が一、錆兎への恋を捨てて新しい恋をするのなら、きっと錆兎の面影を持つ人になるのだろうと思っていた。諦めようと捨て去ろうと、錆兎以外に恋なんてできない。だからきっと、錆兎の代わりに錆兎に似た人を選んで好きなふりをするのが、自分にとっての新しい恋になるのだと思い込んでいた。
けれどきっとそんな日は来ない。錆兎は錆兎だ。どんなに似た人だろうと、錆兎の代わりにはなれない。
だから代わりに小説のなかで、恋をした。小説のなかで、義勇は何度も錆兎と恋をした。片想いも、両想いになれるのも、小説でなら自由だ。
違う人生を、幾度も義勇は綴る。錆兎には向けられない嫉妬も劣情も、小説には素直に綴った。自分の代わりに生きる人を書きたかった。一つひとつの言葉は、義勇が命を与えてやらなければ、ただの言葉の羅列にしかならない。小説という形にして初めて、義勇が口に出せない想いも、苦しみも、認めたくない穢れですら、人の目に触れることを許された。
義勇の心だけじゃない。モデルにした義勇の周りの人々や手紙をくれる読者たちもまた、義勇の想像のなかで、義勇が綴る言葉の一つひとつで、違う命を吹き込まれイキイキと動き出す。それがたまらなく好きなのだと、気づいたのは多分、幼いあの子の手紙を読んでから。
錆兎が、炭治郎が、言った通りだ。結局は、自分は人が好きなのだ。
自分がその輪に入れなくても、笑顔を見たり会話が聞こえたりするだけで、ふわりと心が浮き上がって、その人たちの人生を思い浮かべてしまう。知っている人が少ないから、どうしても類型的になりがちなのは困りものではある。だが、笑っているその人がなにを思い、なにに哀しみ、なにを求めるのかを想像しているだけで、その人の人生をともに歩んでいるような気にさせてくれるから、人を見ているのが好きだった。
セックスの相手と抱き締めあうのが嫌なのは、恋してないからだけじゃない。互いに欲を晴らす道具でしかないと思いたかったからだ。人だと思ってしまえば、そんな身勝手な行為につき合わせることは、義勇にとって苦痛でしかなくなる。抱き締めて温もりや鼓動を感じたら、今自分がただの穴や棒でしかないと思っている相手は、人になってしまうから、抱き締めあいたくなどなかった。
なんて身勝手で、汚らわしいんだろう。
そんな自分が、炭治郎の想いに答えていいのか、まだ分からない。けれど、きちんと考えなければならないと思った。
たとえ絆されているだけだとしても、義勇の心は炭治郎に向かっている。錆兎の代わりじゃない。炭治郎は誰の代わりにもなれないし、ならない。炭治郎だから、好きだと思う。誰の代わりでもなく炭治郎だから、愛おしいと感じるのだ。
それでもまだ認めきれずにいるのは、自分の臆病さゆえだ。人に近づくのは少し怖い。自分が人に好かれる質ではないことぐらい、二十年以上生きていれば察しもする。それでも人が好きだから、小説を書いている。
他人が考えていることはわからない。だから想像する。想像した人たちの心を言葉にして、自分の想いも言葉にして、生み出した愛しい人たちの人生を紙面の上でともに歩む。
そんな自分の背を、間違ってないよと押してくれる人たちがいるから、今も小説を書いている。
ふと、受け取って以来、そのまま置きっぱなしにしていた手紙の束を思い出した。あの子からの手紙もあったのに、すっかり忘れていたなんて薄情な話だ。
申し訳なさに突き動かされて、義勇は紙袋を取りに茶の間に向かった。
紙袋を手にベッドに戻り、封筒に入ったままの手紙を一通一通取り出しては、読み進める。初めて手紙をくれる人もいれば、何度か書いてくれている人もいた。
それぞれ自分の言葉で義勇に心を届けてくれる。ときおり、義勇の不甲斐ない悪癖を叱咤したり、自分の恋の秘密を打ち明けてくれたりする言葉もあって、義勇はそのたび心のなかで送り主へと言葉をかけた。
わかるよ。つらいよな。がんばって。ありがとう。ごめんなさい。がんばるから。
手紙をくれる人たちが、真滝勇兎ではない冨岡義勇を好きになってくれるかはわからない。それでも義勇の本を読み、わざわざペンを取り手紙を書いてくれるだけで、冨岡義勇という男を肯定してもらっている気になる。
少しずつ凪いでいく心に安堵しながら、次に手にした封筒の宛名を見た義勇は、すぐにあの子からだと気づいた。手紙に綴られる文字と同じ筆跡で書かれた、真滝勇兎様の文字。
封筒から取り出した便せんは、いつもよりもかなり枚数があった。
この子は筆まめらしく、いつもそれなりの枚数を書いてくれるのだけれど、今回は格別多い。
なにか変わったことでもあったのだろうか。見ず知らずの名前も知らない子ではあるが、義勇にとっては特別な子だ。
気になりつつ手紙を読めば、いつもと同じく、本の感想が興奮も露わな文字で書き連ねられていた。
作品名:午後4時のパンオショコラ 作家名:オバ/OBA