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桜が謳うサンサーラ

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 西の果てに沈む日が、空を茜色に染めていく。
 盆をとうに過ぎ、木々の葉も夕焼けと変わらぬ色になろうかという時期だ。
 薄明(はくめい)の街道を、義勇は、ゆっくりと歩む。一刻も早くと進みたがる意思とは裏腹に、義勇の足取りは遅々としていた。
 以前ならば、飛ぶように駆けることができた。だが今では、刀を下げていたころのようには歩けない。
 義勇は先だっての冬に、二十四になっていた。
 過ぎる年月(としつき)は義勇の体から生命力をうばいつつある。どれだけ気が急こうと、歩みは老人のようだった。

 ざりっと足をするように歩むたび、土ぼこりが舞う。ざりっ、ざりっと音を立てて、義勇は歩いていく。
 傍目には疲れきった者の足取りだが、それでも確固たる意思を持つ歩みだった。
 義勇の髪も肌も垢じみて汚れ、もうずいぶんと水浴びひとつしていないことを、周囲に知らしめていた。辺りには数えきれないほどのハエが飛びまわり、うわんうわんと異様な羽音をひびかせている。
 ハエは義勇が発する異臭にひかれ、集まってくるようだ。
 いや、異臭などという生易しいものではない。
 鼻の曲がりそうな強烈な刺激臭は、離れていてさえ目鼻を突き刺すほどだ。
 往来の人々は咳き込み、自然とあふれる涙に苦しんでいる。バタバタと逃げだし、物陰でえずく者さえいた。
 誰も彼もが異常な臭いにおののき、嫌悪をあらわにしている。
 腐臭は義勇が背負う大きな桶が原因のようだ。しかしもはやそれは義勇自身にも染みつき、体臭と変わらぬありさまだった。
 平生ならば人目をひくほどの秀麗さも、この異様な悪臭のなかでは、まじまじと見つめる者もいない。義勇が歩を進めるたび、周囲から人が逃げていく。
 義勇は背負子(しょいこ)の綱をギュッとにぎり直した。片腕で均衡をたもつのも、もう慣れた。グイッと揺すりあげれば、とたんにまとう腐臭がいや増した。
 辺りにただよう強烈な腐臭に、人々は戦々恐々とした様子を隠しもしない。
 そんな往来の人々を尻目に、義勇は恥じ入るでもなく顔をあげていた。恐れられ、嫌悪をあらわにされることなど、意に介した様子はない。
 とはいえ、猜疑の視線は厄介ごとにつながることも知っている。茫(ぼう)とした表情ながら、瞳だけは爛(らん)と燃えたたせ、義勇は一刻も早く街道を抜けるべく、歩を進めた。
 それでも足取りは、腰の曲がった老爺(ろうや)と大差ない。鬼殺隊の柱として、山野を駆けめぐっていたころの面影など、その姿には露と見られなかった。

 官憲を呼ばれる前に人通りを抜けなければならぬというのに、このザマか。
 生命力を失っていく体というのは、これほどまでに己が意のままにならぬのか。

 いらだちが義勇の胸中に満ちる。人の通わぬ山道ばかりを行くわけにもいかず、時折こうして街道に出るたびに、義勇は腹立たしさをおぼえた。
 けれどもその憤懣(ふんまん)には、幾ばくかの優越感もひそんでいる。
「……大丈夫だ。おまえはなにも心配しなくていい。誰にもおまえはわたさない」
 背負子にくくりつけた桶にむかって、小さく言い聞かせる声は、優しく穏やかだったが、しわがれて水気のないひびきをしていた。
 その声で、炭治郎と、愛おしげに名を呼ぶ。応(いら)えはない。
 だが、義勇は気にしなかった。しかたのないことだと、義勇は理解している。
 背に負った炭治郎は、もはや言葉を持たない。けれども義勇ただひとりのものだった。
 義勇にとっては、それだけでよかった。
 もう炭治郎はほかの誰にも笑いかけることはないし、誰かの手をとることもない。誰も炭治郎を好意の目で見ることはなく、義勇以外には誰ひとりとして炭治郎を抱きしめたりはできないのだ。
 なにより、義勇のそばから二度と離れない。炭治郎は常に義勇とともにある。

 あぁ、幸せだな。なぁ、炭治郎。

 胸のうちだけでつぶやいた義勇の口元に、うっすらと笑みが刻まれた。
 義勇は足を止めることなく歩む。うつろに見える群青の瞳には、だかしかし、強い決意の光が隠れている。
 街道を行き交う人々は、一様に鼻を押さえ顔を覆い、去っていく義勇から空恐ろしげに目をそむけていた。
 初秋の黄昏に、ヒグラシの鳴き声がひびいていた。



 無惨が塵となって消えたあと、残された者たちにとって失った命を嘆き悼む時間は、あまりにも少なかった。
 市井の人々に知られぬうちにおとずれ終わった未曾有の危機が、鬼殺隊からうばったものは多い。しかしそれを嘆き、立ち止まってばかりもいられなかった。
 無惨がもたらした被害は甚大であり、齢わずか八歳のお館様が指示するなか、妹君たちをはじめ運良く生き残った者たちはみな一様に、目のまわるような事後処理に追われることになった。
 事実をうそ偽りなく述べたところで、あのおぞましいねじれた生命のことなど、誰が信じようか。
 仲間を多く失い、命をかけて守ったはずの人々から、疑いをあらわに非難の目を向けられる。そんな理不尽な仕打ちのなかでも、生き残った者たちはよくやったと言わねばなるまい。
 どれだけ苦境に立たされようとも、生者は生き抜かねばならないのだ。亡くなった者たちの意志をつなぎ、託された者は生きてゆかねばならない。
 義勇や炭治郎も、それは変わらなかった。
 重篤な状態だったのは、なにも義勇と炭治郎だけではない。
 蝶屋敷は収容人数をはるかに超える傷病者をかかえ、ともすれば、事後処理にたずさわった者たちよりも過酷な日々を過ごした。
 看護の手はいくらあっても足りず、あの悪夢のような激戦の一夜を生き延びながら、蝶屋敷で息絶えた者も少なくはない。
 敬愛する主を失い、それでも懸命に傷病者の看護につくした少女たちが、心に負った悲しみはいかばかりだったろうか。まだ年若いというのに、蝶屋敷の者たちはみな、ぐっと唇を噛みしめ患者の前では涙を見せず、必死に治療をつづけた。
 そんな少女たちにとってもっとも気がかりだったのは、一度も目を覚ますことなく眠りつづける炭治郎の容体だったろう。
 死闘の末に炭治郎が流した血液は、おそらくは生存者のなかで一番多かった。ひとり、またひとりと意識を取り戻す隊士たちのなかで、炭治郎だけは目を覚まさず、焦燥が募る日々だったに違いない。
 応急処置すらほどこすいとまがなかったことを、誰も彼もが悔やんでいる。少女たちもそれを知っているから、炭治郎の生命力が死の顎門(あぎと)に打ち勝つのを、ただひたすらに祈るよりほかなかった。
 なにより少女たちが、そして多くの隊士たちが、心を痛め見ていられないと目をそらせたくなったのは、炭治郎の傍らの寝台に横たわる義勇の姿だっただろう。
 義勇も炭治郎同様に重篤だったが、それでもさすがは柱だと、周囲が感嘆する早さで目を覚ました。
 それに気づいたのは、ふたりにつきっきりだった禰豆子である。
 意識を取り戻したそのとき、朦朧とした義勇が、自分の名を呼んでいるのが禰豆子だと認識できていたかは、定かではない。
 ほかの誰かであっても、義勇の問いかけは同じだっただろう。
 炭治郎は無事か。
作品名:桜が謳うサンサーラ 作家名:オバ/OBA