桜が謳うサンサーラ
声を出すだけでもつらいだろうに、ただそれだけを口にした義勇に、禰豆子の顔に泣きだしそうな笑みが浮かんだ。
生きています。そうしぼり出すように言った禰豆子に、義勇の瞳に一瞬輝きが戻り、そして、禰豆子は見た。
安堵の光がたちまちかき消えて、恐慌に見開かれた義勇の瞳を。
義勇の群青色の瞳には、隣の寝台で眠る炭治郎の、土気色した横顔だけが映っていた。
それからあとの義勇が見せた一連の行動を、悲痛な姿を、禰豆子や蝶屋敷の少女たちは、長く忘れることができなかった。
乾ききった唇で炭治郎の名だけをつぶやきつづけ、駆けつけた人たちの手を振り払い起き上がった義勇は、大きな音を立て寝台から転び落ちた。
当然のことながら、怪我は治ってなどいない。相当な激痛が走ったであろうに、義勇はかまわず隣の寝台で眠る炭治郎に腕を伸ばそうとした。
そこに自分の右腕がないことに気づき、刹那目をすがめる。だが、すぐさま力の入らぬ体で這いずり、義勇は残された左腕で炭治郎に触れようとした。
安静にと叫ぶ声など、義勇の耳には入っていなかっただろう。血の気のない炭治郎の横顔だけを一心に見すえ、義勇は必死に炭治郎を求め呼ぶ。それを押しとどめることは誰にもかなわず、義勇の左手が炭治郎の残された右手をとった。
冷えた手をにぎりしめ、義勇は、はらはらと大粒の涙をこぼす。
炭治郎、炭治郎と、その一言しか知らぬげに、炭治郎の名だけを呼びつづける。
どれほどの人々が言葉を尽くし言い含めても、義勇は寝台に戻るどころか、けっしてその場を動こうとはしなかった。
誰にも止められない。それをみなが悟るのは早かった。
ふたりの寝台をピタリと寄せ、義勇が横たわったまま炭治郎の手をにぎれるようにするまで、義勇はその場で炭治郎の名を呼びつづけていた。
目覚めて以来、幾日経っても、常に義勇の瞳はなんの反応も見せぬ炭治郎に向けられている。
乾きひび割れた唇からは、炭治郎の名しか出てくることがない。うつろな目からは絶えず涙がこぼれ落ちていた。
一瞬たりとも炭治郎から目を離すまいと、義勇は炭治郎を見つめつづける。
まるで自身の命数を削るかのように、食事すらろくにとらない。意識を失うように眠っては、半刻(一時間)と経たずに目を覚ます。
すまない、ごめんと泣きながら炭治郎に詫びて、そうしてまた、炭治郎の名を繰り返し呼ぶのだ。
誰もがみな、炭治郎より先に義勇が逝くことを危惧していただろう。もしも炭治郎がこのまま目を覚ますことなく亡くなったのなら、その瞬間に義勇も息絶えると、誰もが疑わなかった。
禰豆子の泣きながらの叱咤も、蝶屋敷の少女たちの懇願も、お館様の命であってさえ、義勇の耳には届かない。
あのときの義勇は、まるでそれしかできぬからくり人形のようであったと、思い返すたび誰もが言う。
義勇がただ泣きながら炭治郎に呼びかけつづけるのを、見ていることしかできぬ、誰にとってもあまりにもつらい日々だった。
そんな苦しいばかりの日々が終わったのは、月が丸く輝く真夜中のことであった。
静かな夜だった。
蝶屋敷にいるほとんどの者は寝静まり、室内には昏々と眠りつづけている炭治郎と、義勇のほかには誰もいない。
しんと静まりかえった室内で、義勇はまんじりともせず炭治郎を見つめていた。
目を離せば炭治郎が消えてしまう。そんな恐れが義勇に目を閉じることを拒ませた。
不意に、炭治郎のまぶたが小さく震えた。
それに気づいた義勇は、息を止め、炭治郎をいっそう凝視した。
体を固くし見守る義勇のまなざしの先で、ゆっくりと炭治郎の目が開かれていく。
そうしてうっすらと開かれた炭治郎の目に、義勇が見たものは、やつれきり生気を失った瞳をした自分の姿だった。
声にならぬ声が、義勇さん、とつづる。
義勇の目が見開かれ、唇がわなないた。
炭治郎の手をにぎったまま、義勇は衰えた体をどうにか起き上がらせ、炭治郎の額に己の額を押し当てた。
炭治郎、義勇さんと、かすれた声で呼びあうふたりを見た者は誰もいない。
間近で見交わした瞳に、ふたりがいったいなにを見たのかを知る者もない。
呼びあう声やにぎりあう手、見つめる瞳に、こめた想いなど誰も知らない。
互いだけがふたりの胸のうちを知り、そして、それだけでいいと微笑んだ。
深い想いは密やかにふたりの胸に秘められたまま、近い別れを知っていた。
多くの人に見送られ、炭治郎が禰豆子とともに雲取山に帰ったのは、それから三カ月後のことだった。
梢にはばまれ月明りさえろくに差さぬ山道を、義勇は背に負った炭治郎とともに一歩一歩登っていく。
背にした桶からただよう腐臭は多くの虫を呼び寄せ、義勇はそれらを払いのけながら、一心に名も知らぬ山を登っていた。
たびたび義勇は炭治郎に話しかけた。
逢えなかったあいだのことや、柱稽古の思い出話など、話はつきることがない。以前とはまるで逆だ。
ともに過ごした記憶のなかでの会話といえば、炭治郎が絶え間なくしゃべり、義勇はときどき相づちを打つのが常だった。口下手で言葉足らずな義勇の意も、炭治郎ならば、自慢の鼻で酌んでくれたものだ。
今の炭治郎は、明るく笑いながら義勇に話しかけたりはしないし、相づちすら打つことはない。
けれども義勇は気にしなかった。言葉足らずで誤解される心配もないのだから、それでいい。
義勇は息を乱しながらも、炭治郎に語りつづけた。
なにしろ義勇が炭治郎と再会したのは、ほんの一週間ほど前のことだ。炭治郎が雲取山に帰ってからの三年間、義勇は一度も炭治郎と逢ってはいない。てんで代わり映えのない日々を過ごした三年とはいえ、話題ならばたんとある。
追手や官憲の目をのがれようと、あわただしく先を進むばかりの短い旅のなかでは、ゆっくりと話すこともかなわなかった。
義勇はつらい息すら忘れ、訥々と話しつづけた。
亡くなった鎹鴉のことや、左腕で自炊した失敗談。
さすがに食事に困るようになり、しかたなし買い求めた野菜を丸かじりしているところを、近隣の農家の人の好い女房に見られ、あきれられたこと。
その女房が菜(おかず)を分けてくれることになったのはいいが、旦那が、他人に飯をくれてやるような余裕があるのかと文句を言いだし、自分の目の前で夫婦げんかが始まってしまって往生したと、義勇は苦笑した。
無表情のままオロオロと困惑する義勇を、通りすがりの老爺がゲラゲラと笑い、いつものこった気にしなさんなと、代わりに仲裁に入ってくれたこと。
そのときばかりは心底ホッとしたと、義勇は物言わぬ炭治郎へと語る。
田畑を荒らすイノシシを追い払う手伝いをしたこともあった。それ以来、不愛想な自分にも親しく声をかけてくれる者がいくらかいたと語る義勇の声は、少しばかり自慢げだったかもしれない。
親しくなったなかには、強いね、すごいねとはしゃぎ、手放しでなついてくれた子どもらもいたんだぞと、義勇は微笑む。