思い出よりも、ずっと、ずっと
子分その三と善八を守って、伊之助が山のなかの古い家で暮らすようになってから、季節がちょうどひと回りした。家にきたときと同じ花が咲いたから、間違いない。
暦を見ろよと善八はブチブチ言うけど、そんなものなくても暮らしはまわる。馬鹿馬鹿しいと伊之助は思う。
最初の半年ほどは岩五郎も一緒に暮らしていた。その半年で、炭焼きのイロハを伊之助たちは仕込まれた。
七面倒くさいと言うなら、そっちのほうがよっぽど面倒ではある。山にいれば木の実やら山菜、狩った獣で腹は満たされるのだ。仕事なんてする必要はない。
けれども、岩五郎の家に住むということは、仕事を継ぐということだと善八があんまり口うるさく言うから、しぶしぶと伊之助も習った。じっと火を見張るのは、最初は退屈だと思ったけれど、火は生き物なんだと岩五郎に言われてから、少し面白くなってきたと思う。きちんと見守っていないと、火は暴れ出したり息絶えたりもする。
パチパチと燃える火をひとりで見ていると、いろんなことを思い出した。尊敬という感情を初めて抱いた煉獄や、気遣いや労りの言葉をくれたふさ。一緒に飯を食った仲間たち。しのぶと指切りしたことやおぼろな母の面影を思い出したときには、キュッと胸が痛くなりもしたけれど、悪い気分じゃない。火は不思議だ。
じっとしているのは苛々する。けれども、火を見張るのは今じゃ嫌いではない。毎日はごめんだけれど、交代でなら我慢できぬものでもなかった。
でも炭を売りに行くのは苦手だ。腰を低くして、客に買ってくれてありがとうなんて礼を言うのは、苛々する。だからそういうのは岩五郎や善八がやればいいと思う。だけどみんな一緒なら、少しぐらい我慢してやってもいい。そう思っていた。
みんなで笑って暮らした半年は、とんでもなく楽しかった。たびたび胸がホワホワしたりもする暮らしだった。ずっとこんなふうがいい。言わなかったけれど、そう思っていたのに。
なのに岩五郎は、伊之助と善八が炭焼きを覚えると、ひとりで山を下りてしまった。
「義勇さんと一緒にいたいんだ」
そう言って岩五郎は、手土産の栗やらキノコやらをたんまり持って、半半羽織のとこに行っちまった。栗もキノコも一番多く見つけてやったけれど、やっぱりムカつく。
岩五郎と半半羽織には痣がある。半半羽織の痣は見えなくなったけど、見えないからって命の刻限に変わりはないんだよと、岩五郎は静かに笑った。
善八は寂しいと泣いたし、子分その三は泣きだしそうな変な顔をしたあとでカラッと笑い
「義勇さんがふらっとどっかに行っちゃわないように頑張ってよ、お兄ちゃん」
と岩五郎の背中を叩いていた。
そうして岩五郎は山を下りた。郵便配達員がえっちらおっちら持ってくる文には、半半羽織に帰れって怒鳴られたことから、粘り勝って一緒に暮らしだしてからのアレコレが、いつも楽しそうに書かれている――らしい。
伊之助は文字が読めなかった。そんなもの読めなくていいと思っていた。
毎回、善八が読み上げてくれる手紙を子分その三と聞くのは、ワクワクするけど少し悔しい。子分その三だって文字は読める。伊之助と違って、善八に代筆させなくてもちゃんと自分で返事を書いているのだから確実だ。
自分だけ、岩五郎の手紙が読めない。返事も書けない。悔しくて、伊之助はこっそり字を覚えようとしている。善八たちには内緒だ。とくに善八に知られるとニヤニヤされるだろうし、俺が教えてやるよと偉そうにされるだろう。絶対そうに決まってる。だから伊之助は、ふもとに住んでいる三蔵とかいう爺さんに字を習っている。
「やい、ジジイ! 俺様に字を教えやがれ!」
初めてひとりでふもとに行ったとき、戸を開けるなり開口一番怒鳴った伊之助を、三蔵はぽかりと叩いた。しわだらけの拳は、ちっとも痛くなかった。
「まったく、口の利き方をきちんとせんか。村のもんに嫌われるぞ」
顔をしかめつつも筆と硯を取り出した三蔵に、ホワホワとさえした。
炭焼き仕事をしない日に伊之助は、雪を蹴散らしてふもとまで欠かさず通う。今ではもう、ひらがななら読めるし書けるようになってきた。ときどき間違えることはあるけれど。
よく頑張っているなと猪頭を撫でる爺さんには、毎度毎度、ホワホワさせんじゃねぇと怒鳴ってしまう。爺さんもそのたび、おまえは口の利き方がなっとらんと叱ってくるけれども、いつもふたり分の飯を用意しているから、怒ってはないんだろう。見ているだけで寒いと文句を言いつつ、無理やり伊之助の首に巻かれた襟巻は、真新しい匂いがした。
自分で返事を書く! と宣言して、年の瀬に初めて岩五郎に宛てた手紙は、紙いっぱいに書いた「げんき」の一言だ。いろいろ教えてやりたいことはあったし、文句もいっぱいある。でも、筆を執ったらそれしか書けなかった。
それだけかよと言いながらも善八はなんだかうれしそうだったし、すごいね親分と笑う禰豆子と一緒になって、伊之助の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。やっぱり胸がホワホワして、うるせぇと怒鳴りながらも、伊之助も得意満面で笑った。
そうして、小さな山の家で暮らしだしてから季節をひとまわり。また訪れた春のとある日に、岩五郎の好物だっていうタラの芽やらなんやらをたんまり持って、みんなで山を下りた。桜が舞うなかをワイワイと騒がしくしながら山道を歩き、汽車にも乗った。
岩五郎と半半羽織が暮らしている家に、初めてみんなで遊びに行くのだ。
ふたりが住む町は、善八が言うには新宿とかいうらしい。雲取山の村とくらべたらすげぇデカい町で、洋風な建物も多い。朝早くについた駅舎は、雌どもがぞろぞろ歩いていた。
「煙草の専売局の女工員さんたちかな。きれいな人がいっぱいだぁ」
善八が言った。鼻の下が伸びてやがる。子分その三にバチンと音がするぐらい背中を叩かれて、痛いって喚きながらも、やきもち? え、禰豆子ちゃんやきもち焼いてくれたの? と、くねくね喜ぶのが、気持ちワリィ。
プンスカしてる子分その三と、くねくね脂下がった善八に、うんざり苛々しながら向かった岩五郎たちの家は、古びた小さな長屋だった。岩五郎の手紙で知ってたけど、善八は、元柱が本当にこんな汚い長屋に住んでんの? って疑ってた。子分その三にまたぶたれて謝り倒してたけども。
どの家だろうとみんなでキョロキョロ見まわしてたら、玄関先に木札をぶら下げてる家を見つけた。木札には黒々と墨でなにやら書いてあるけれども、伊之助には読めなかった。伊之助はまだ漢字は読めない。けれど岩五郎の手紙に、半半羽織は家で仕事をしていると書いてあったから、もしかしたらこれが看板なのかもしれない。
「おい、これじゃねぇか?」
「あ、本当だ。代書屋って書いてある。ここだよ」
木札の文字を読んで、子分その三が明るく言う。俺様の読みどおりだぜと、ちょっぴり伊之助は得意になった。
代書屋というのは、字が書けない奴らの代わりに手紙やらを書く仕事だと、岩五郎の手紙には書いてあった。半半羽織が? と、みんなで顔を見あわせたその手紙には、義勇さんはすっごく頑張って字を練習したんだ、本当にすごいんだと、何枚もの紙に書き連ねてあった。
暦を見ろよと善八はブチブチ言うけど、そんなものなくても暮らしはまわる。馬鹿馬鹿しいと伊之助は思う。
最初の半年ほどは岩五郎も一緒に暮らしていた。その半年で、炭焼きのイロハを伊之助たちは仕込まれた。
七面倒くさいと言うなら、そっちのほうがよっぽど面倒ではある。山にいれば木の実やら山菜、狩った獣で腹は満たされるのだ。仕事なんてする必要はない。
けれども、岩五郎の家に住むということは、仕事を継ぐということだと善八があんまり口うるさく言うから、しぶしぶと伊之助も習った。じっと火を見張るのは、最初は退屈だと思ったけれど、火は生き物なんだと岩五郎に言われてから、少し面白くなってきたと思う。きちんと見守っていないと、火は暴れ出したり息絶えたりもする。
パチパチと燃える火をひとりで見ていると、いろんなことを思い出した。尊敬という感情を初めて抱いた煉獄や、気遣いや労りの言葉をくれたふさ。一緒に飯を食った仲間たち。しのぶと指切りしたことやおぼろな母の面影を思い出したときには、キュッと胸が痛くなりもしたけれど、悪い気分じゃない。火は不思議だ。
じっとしているのは苛々する。けれども、火を見張るのは今じゃ嫌いではない。毎日はごめんだけれど、交代でなら我慢できぬものでもなかった。
でも炭を売りに行くのは苦手だ。腰を低くして、客に買ってくれてありがとうなんて礼を言うのは、苛々する。だからそういうのは岩五郎や善八がやればいいと思う。だけどみんな一緒なら、少しぐらい我慢してやってもいい。そう思っていた。
みんなで笑って暮らした半年は、とんでもなく楽しかった。たびたび胸がホワホワしたりもする暮らしだった。ずっとこんなふうがいい。言わなかったけれど、そう思っていたのに。
なのに岩五郎は、伊之助と善八が炭焼きを覚えると、ひとりで山を下りてしまった。
「義勇さんと一緒にいたいんだ」
そう言って岩五郎は、手土産の栗やらキノコやらをたんまり持って、半半羽織のとこに行っちまった。栗もキノコも一番多く見つけてやったけれど、やっぱりムカつく。
岩五郎と半半羽織には痣がある。半半羽織の痣は見えなくなったけど、見えないからって命の刻限に変わりはないんだよと、岩五郎は静かに笑った。
善八は寂しいと泣いたし、子分その三は泣きだしそうな変な顔をしたあとでカラッと笑い
「義勇さんがふらっとどっかに行っちゃわないように頑張ってよ、お兄ちゃん」
と岩五郎の背中を叩いていた。
そうして岩五郎は山を下りた。郵便配達員がえっちらおっちら持ってくる文には、半半羽織に帰れって怒鳴られたことから、粘り勝って一緒に暮らしだしてからのアレコレが、いつも楽しそうに書かれている――らしい。
伊之助は文字が読めなかった。そんなもの読めなくていいと思っていた。
毎回、善八が読み上げてくれる手紙を子分その三と聞くのは、ワクワクするけど少し悔しい。子分その三だって文字は読める。伊之助と違って、善八に代筆させなくてもちゃんと自分で返事を書いているのだから確実だ。
自分だけ、岩五郎の手紙が読めない。返事も書けない。悔しくて、伊之助はこっそり字を覚えようとしている。善八たちには内緒だ。とくに善八に知られるとニヤニヤされるだろうし、俺が教えてやるよと偉そうにされるだろう。絶対そうに決まってる。だから伊之助は、ふもとに住んでいる三蔵とかいう爺さんに字を習っている。
「やい、ジジイ! 俺様に字を教えやがれ!」
初めてひとりでふもとに行ったとき、戸を開けるなり開口一番怒鳴った伊之助を、三蔵はぽかりと叩いた。しわだらけの拳は、ちっとも痛くなかった。
「まったく、口の利き方をきちんとせんか。村のもんに嫌われるぞ」
顔をしかめつつも筆と硯を取り出した三蔵に、ホワホワとさえした。
炭焼き仕事をしない日に伊之助は、雪を蹴散らしてふもとまで欠かさず通う。今ではもう、ひらがななら読めるし書けるようになってきた。ときどき間違えることはあるけれど。
よく頑張っているなと猪頭を撫でる爺さんには、毎度毎度、ホワホワさせんじゃねぇと怒鳴ってしまう。爺さんもそのたび、おまえは口の利き方がなっとらんと叱ってくるけれども、いつもふたり分の飯を用意しているから、怒ってはないんだろう。見ているだけで寒いと文句を言いつつ、無理やり伊之助の首に巻かれた襟巻は、真新しい匂いがした。
自分で返事を書く! と宣言して、年の瀬に初めて岩五郎に宛てた手紙は、紙いっぱいに書いた「げんき」の一言だ。いろいろ教えてやりたいことはあったし、文句もいっぱいある。でも、筆を執ったらそれしか書けなかった。
それだけかよと言いながらも善八はなんだかうれしそうだったし、すごいね親分と笑う禰豆子と一緒になって、伊之助の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。やっぱり胸がホワホワして、うるせぇと怒鳴りながらも、伊之助も得意満面で笑った。
そうして、小さな山の家で暮らしだしてから季節をひとまわり。また訪れた春のとある日に、岩五郎の好物だっていうタラの芽やらなんやらをたんまり持って、みんなで山を下りた。桜が舞うなかをワイワイと騒がしくしながら山道を歩き、汽車にも乗った。
岩五郎と半半羽織が暮らしている家に、初めてみんなで遊びに行くのだ。
ふたりが住む町は、善八が言うには新宿とかいうらしい。雲取山の村とくらべたらすげぇデカい町で、洋風な建物も多い。朝早くについた駅舎は、雌どもがぞろぞろ歩いていた。
「煙草の専売局の女工員さんたちかな。きれいな人がいっぱいだぁ」
善八が言った。鼻の下が伸びてやがる。子分その三にバチンと音がするぐらい背中を叩かれて、痛いって喚きながらも、やきもち? え、禰豆子ちゃんやきもち焼いてくれたの? と、くねくね喜ぶのが、気持ちワリィ。
プンスカしてる子分その三と、くねくね脂下がった善八に、うんざり苛々しながら向かった岩五郎たちの家は、古びた小さな長屋だった。岩五郎の手紙で知ってたけど、善八は、元柱が本当にこんな汚い長屋に住んでんの? って疑ってた。子分その三にまたぶたれて謝り倒してたけども。
どの家だろうとみんなでキョロキョロ見まわしてたら、玄関先に木札をぶら下げてる家を見つけた。木札には黒々と墨でなにやら書いてあるけれども、伊之助には読めなかった。伊之助はまだ漢字は読めない。けれど岩五郎の手紙に、半半羽織は家で仕事をしていると書いてあったから、もしかしたらこれが看板なのかもしれない。
「おい、これじゃねぇか?」
「あ、本当だ。代書屋って書いてある。ここだよ」
木札の文字を読んで、子分その三が明るく言う。俺様の読みどおりだぜと、ちょっぴり伊之助は得意になった。
代書屋というのは、字が書けない奴らの代わりに手紙やらを書く仕事だと、岩五郎の手紙には書いてあった。半半羽織が? と、みんなで顔を見あわせたその手紙には、義勇さんはすっごく頑張って字を練習したんだ、本当にすごいんだと、何枚もの紙に書き連ねてあった。
作品名:思い出よりも、ずっと、ずっと 作家名:オバ/OBA