「それは選択の」
夕闇、宵月、天の鳥。緑の森の中に忍び、遠き星を透かし見る。
彼は死ぬのだよと彼女に言った。彼女は静かに笑っていた。
彼は死ぬのだよと彼女に言った。彼女は困ったように、しかしそれは悪戯を咎める時の
ような苦笑で、とても静かに笑っていた。黄昏の空に見る美しい星の輝きの名に相応しい、
この世の美を凝らしたような人だった。だが、それは彼にとって特に特別な意味を持たない。
彼女自身にとっても、己のその外見が特に意味を持たないように。
「それを知らないわけはないでしょう、知らないですませる事などできない事ですもの!
大体それを貴方に言われたくはないわ、必滅の定めのひとを愛するという事について」
鈴を振るような、或いは小夜啼鳥の鳴くような、おそらく遠い太古にこの世で初めて人
間に恋をしたエルフの乙女が囁いた声ととても似た声で、彼女は笑ってそう言った。 あ
あでもあなたたちは狡いわね。 きらきらとした宝石にも似た瞳が悪戯そうに輝く。
「貴方がたはあの子の事を愛するだけ愛して、そうしてすべて思い出にしてしまうつもり
なんですもの。お父様も、お兄様達も。どうせ失えない事がわかっていて、思い出に殉じ
る事になるに違いないのに、それでもそれをあの子には言わないのね!
それのせいであの子は確かに安堵しているけれど、けれどそれはとても狡い事よ」
黒髪の美しい人だった。アルウェン=ウンドミエル。宵の空に見上げる星。暗闇の夜に
かける希望の星。そして彼女はその希望をこそ、愛していた。
「だって、貴方がたを置いていく事を一番気に病んでいるのは、やっぱりどうしたってあ
の子なのだもの」
だから貴方がたはあの子が死ぬまで、あの子に嘘をつきつづけるのよ?あの子の死など
気に留めないと、そうあの子に宣言して。ああ、それは何て嘘。
「だから私が一番素直なのよ」
そういって彼女は、楽しそうにくすくすと笑った。緑葉の名を冠するエルフは肩をすく
めた。金の髪がさらりと揺れた。
「そりゃ、そうなのかもしれませんけどね。けれど正直に言ったところで、今貴女ご自身
が言ったように、それは結局あの子が思い悩むだけじゃあありませんか。残される事が決
まっている者の悲しみなど今更伝えて何になります?それこそそれが我等エルダールに約
束された恩寵であり、最大の罰則だというのに」
どうせ置いていかれるのはいつだって自分たちなのだ。それは他種族が聞けばさぞかし
憤慨されるような言葉だったろう。それこそドワーフあたりに聞かれれば、エルフの傲慢
と言われるのは必至だったのかもしれない。だが実際、それはそれ以外どんな言葉によっ
ても表される事がないのだ。彼ら以外他の何人も、死を免れる事はできないのだから、逆
に言えば彼らは決して死によって逃れる事はできない。太陽と月と、この世の初めに作ら
れた星々が消えてなくなるまで、彼らはどこにも逃げる事ができない。
「だから私は決めたのよ。共に終わりになってしまえばいいと」
清々しいほどの笑顔で、彼女は言った。運命を決めた者だけの持つ超越した眼差しだっ
た。 エルロンド卿はこの瞳を見て、悲しんだのか喜んだのか? レゴラスはそんな事を
少し考えてみた。わからなかった。喜ぶことはなかったかもしれない。だが、崇敬をもっ
て己の娘を見つめた可能性は、大いにある。 いまだかつて果してどれだけのエルの長子
が、その選択を行えただろう?
それは長い星々の時代にもその後を占める太古にすらも、ほとんど現れなかったような
快挙であり。英断であり。そういうことで。
けれどその偉大さをそのまま認めるのは、少しばかり癪なような気がレゴラスにはした。
なんと言っても、それは―――、―――確かに誰もが眉をひそめ、けれど同時に羨むよう
な事に違いないからだ。少なくとも、あの希望を目にした事がある者ならば。
「そんなのは卑怯だ」
私にだってできるのに、一人でそれを選ぶなんて狡い。
そう口を尖らせて言ってみた。理不尽な台詞だとわかってはいた。
「あら、貴方にはできないわよ」
さらりとそう言われた。あやすような口調はまるで、星々の時代から生きてきた最も古
いエルダールのもののようだった。ありとあらゆる高貴な血を引く、中つ国きっての最高
の姫君。
「だってたったひとりの人間――別にエルダールでも構わないけれど――の為に命を捧げ
る事ができるのは、やっぱりいつだって別のたったひとりなのよ。少なくともエルダール
はそうだと思うわ。フェアノールがフィンウェの為に安楽の地を捨てたように、
ルシアンがベレンに全てを捧げたように、ベレグがトゥーリンの刃に死したように。
私達は結局、他人が愛したものの為に己の愛まで捧げる事はできないようになって
いるんだと思うのよ」
愛を重ねるという事ができないのね。彼女は笑って、さらりとそう奇妙な事を言った。
愛を分散させる事、それこそがイルーヴァタルがエルダールに与えた特性なんではない
かしら。
「まあ、そうでなければ確かに、誰かたったひとりの死によって、ばたばたとエルダール
が死んでいく嫌な光景が見られる羽目になるものね?」
肩をすくめる彼女の前で、なるほどと彼は納得した。
「でも、だからと言って」
彼はそれでも反論を企てようと、言葉をつごうとした。今更自分の言葉がどう響こうと、
彼女が己の決定を覆す事などありえないとはわかっていた。彼女は自分の運命を選択し
た。それはもう、この世界の運命そのものと結びつき、まるでこの世の初めから決まって
いたかのような様相を呈しているのだ。だがそれをそのまま認めてしまうのは、随分と羨
ましい事に見えたのだ。それが如何に苦難の道を示していようとも、永遠の別離を意味し
ようとも。だからレゴラスは反論する。
「だからと言って、貴女までも死を選ばなくとも、アルウェン」
「あら、それなら貴方は」
片目を瞑って、姫君は言う。彼らがこうして会話を交わす間柄になってから、どれほど
の年月が経っているのか、彼らは決して数える事はない。エルフにとって一度決まった物
事や関係はあらかじめ記入された歴史のようなもので、それが変化を持つ事などないから
だ。もうじきこうした会話が行われなくなるなどと、そんな事は信じられなかった。彼女
自身にとってもそれは同じだろう。彼らはもう既に悠久の時にも似た時間、こうして話を
続けている。だが彼女はもうじき、彼とどころか彼女の兄弟とも父とも祖父母とも、彼女
の知る誰とも会話を交わす事ができなくなるのだ。もうじきと言ってもそれは人間の感覚
では長い年月の事なのかもしれない。だが永久を生きるエルダールにとって、それは瞬き
の間に等しい。
しかし彼女は、それを選んだ。
「貴方は世界が灰色になって、それでも生きる事ができるというの?」