アイスソーダ
「そこのレンジャーさん、これから帰るところですか?」
そんな風に声をかけられて、うっかり振り向いてしまったのはハジメの落ち度と言っていい。突然のことで声が判別できなかったのと、こうした呼びかけの後に何か頼みごとをされることも多く、殆ど条件反射だった。一度振り向いてしまえば相手の思うツボで、その先にうさんくさい満面の笑みを認めた時、ハジメは露骨に顔を顰めた。
ハジメは相手を認識してしまうと、それがどれだけ嫌いな相手だろうと無視できない方だ。既に相手の存在を知っているのに、なかったことにするという切り替えが上手くできない。そうしたハジメの性質を、向こうも見抜いているのだろう。だんだん振り返らせる手口が巧妙になってきている気がする。
「あんたどんだけ暇なんだよ」
「頑張ってくれたレンジャーさんのおかげでね。責任取って少しぐらい付き合ってくれてもいいと思わないか?」
「あんたが暇になったのは自業自得だろ。それに僕はあんたと違って忙しいんだよ。ムウマ、知らない変な人に寄ってっちゃダメだ」
言っても聞きはしないハジメのパートナーは、ふわふわとアイスの肩口にまで漂いそこで姿を消したり現わしたりを何度か繰り返した。そして、喉の奥でクククと含み笑いする。機嫌がいい時のムウマの仕草だ。その頭をアイスが撫でたりするものだから、また機嫌よくアイスの手に額を擦りつけたりしていた。普段はハジメ以外にあんな顔見せないくせに。ポケモンだろうと結局、女の子は顔のいい男が好きということか。ムウマが遺跡で悪戯を仕掛け、付きまとっていたあの探検家の人も、顔は整っていたと思いだす。
「聞いたぜ。お忙しいレンジャーさんは働き過ぎだってんで強制的に休暇とらされたんだろ?」
「……何であんたがそんなこと知ってるんだよ」
「しかもいつも頼ってくる市民の皆さんも、今日に限って他のレンジャーに依頼済み、せっかく制服着て来たのに無駄になっちまったな?」
「だから、何であんたがそんなこと知ってるんだ!」
ハジメがきつく問いただすと、アイスは芝居がかったぐらい大仰に肩をすくめた。
「僕も善良な市民なんだから、市民の方々に聞いたに決まってるだろう?」
何が善良な市民だ、とハジメは斜め下に吐き捨てた。どうせムウマをたぶらかしたように、その辺の女性をつかまえて聞き出したに決まっている。外面がいいと警戒されなくて得なものだ。ついでに女性に受ける顔だと更に得だ、と嫌味っぽくハジメは思う。ハジメなんて「かっこいい」に類する言葉は、レンジャースクールの後輩(それも男女入り混じり)にしか言われたことがない。あとは「可愛い」か「小さい」か「坊や」だ。別に、僻んでいるわけじゃない。
「いつもは忙しいけど、今日は暇だろ」
アイスが癇に障るニヤニヤ笑いを浮かべて言う。何故かムウマまで、ニヤニヤ笑っている。彼女はハジメの味方のはずなのに、今日はアウェーの気分らしい。そうしたパートナーの気まぐれさが、今は無性に恨めしかった。
「……何で今日に限って僕に頼まないのかまで、聞いた?」
「教えたら俺が何か得するか?」
憎たらしい。ハジメはひとり握り拳に力をこめ、我慢だ我慢、と自分に言い聞かせた。
「人目のあるところなら、暇潰しに付き合ってやる」
「人聞きの悪い。まるで俺が薄暗いところにでも連れ込もうとしてるみたいじゃないか」
「それぐらい警戒されてるのを察しろよ。僕のこといくつだと思ってんだか知らないけど」
ヤミヤミ団だとか何度か敵対したのだとかを抜きにしても、完全に子ども扱いしている相手の前にこう何度も現れたら、裏の理由を勘繰りたくなるのも当然だろう。何せハジメは組織のこと以外で、こうも粘着される心当たりがない。これでハジメが女の子だったならともかく、れっきとした男だ。真意の見えない相手に、暇潰しにしては多い頻度で絡まれて、はいそうですかとのこのこ無邪気に付いて行けるほど無邪気な年齢でもない。
「レンジャーの割に根性捻くれてるな、お前のパートナーは」
「余計なお世話だ。ムウマ、変な人にホイホイ同意しちゃいけません」
「へぇ、知らない人、ではなくなったんだな」
からかいの言葉を無視して、ハジメはわかりやすく不機嫌な表情を作った。ムウマにまで頷かれては立つ瀬がない。
「お前に気を遣ってるんだよ」
話の飛んだ先が見えずにアイスを見上げると、やはり笑い含みの目と視線がぶつかった。青い青いと思っていたが、その瞳の色まで青い。頭と頭の距離が出会った頃と全く変わらず、見上げる形なのが癪なのさえ、アルミアのお城の時と同じなのを思い出した。あの時も青いと思って、その青い男が青い石を諦める代わりに別の青いものをやるなどと言い出したから、ハジメは頭がこんがらがりそうだったのだ。あの時と似た感触の混乱が、ハジメの中に去来していた。
アイスが何を考えているかなど、初めて会った時から今まで、ハジメが理解できたことはない。
「せっかくの休みなんだから、レンジャーさんが一日ちゃんと休めるように、だとさ」
先ほどハジメが尋ねたことへの答えらしいと、ここでやっと気付いた。どうして今日に限って、ハジメにだけ誰も依頼しようとしないのか。答えを得て、ハジメは頭を抱えて座り込みたいような気分になった。点滅を繰り返しながら近付いてきたムウマが、ハジメの肩のあたりで止まる。
「……ありがたいけど、嬉しくない」
「贅沢なヤツだな。そういうことだ、行こうぜ」
当たり前のように手を取られて、驚くと同時に思わず振り払っていた。何のつもりだと睨みつけると、払われた手をふらふらと振りながら、アイスが苦笑する。わざとらしい笑い方だと思った。
「人目のあるところなら、付き合ってくれるんだろ?」
「だからって、男と手を繋ぐ趣味なんかないよ」
「ああ、妹専用か? 寂しいな、12やそこらだからって、そろそろ他に目を向けないと視野が狭まるぜ」
「僕は16だ!」
こう訂正するのも何度目か。わかっていて言ってくるのだから、どうしようもない。しかもだんだん、年齢が下がってきている気がする。足を踏んづけてやりたいような気分は内心溢れていたが、そこをぐっと堪えて早足に歩き出す。乱暴な足音にアイスが笑う気配がするのが、また腹立たしかった。
そんな風に声をかけられて、うっかり振り向いてしまったのはハジメの落ち度と言っていい。突然のことで声が判別できなかったのと、こうした呼びかけの後に何か頼みごとをされることも多く、殆ど条件反射だった。一度振り向いてしまえば相手の思うツボで、その先にうさんくさい満面の笑みを認めた時、ハジメは露骨に顔を顰めた。
ハジメは相手を認識してしまうと、それがどれだけ嫌いな相手だろうと無視できない方だ。既に相手の存在を知っているのに、なかったことにするという切り替えが上手くできない。そうしたハジメの性質を、向こうも見抜いているのだろう。だんだん振り返らせる手口が巧妙になってきている気がする。
「あんたどんだけ暇なんだよ」
「頑張ってくれたレンジャーさんのおかげでね。責任取って少しぐらい付き合ってくれてもいいと思わないか?」
「あんたが暇になったのは自業自得だろ。それに僕はあんたと違って忙しいんだよ。ムウマ、知らない変な人に寄ってっちゃダメだ」
言っても聞きはしないハジメのパートナーは、ふわふわとアイスの肩口にまで漂いそこで姿を消したり現わしたりを何度か繰り返した。そして、喉の奥でクククと含み笑いする。機嫌がいい時のムウマの仕草だ。その頭をアイスが撫でたりするものだから、また機嫌よくアイスの手に額を擦りつけたりしていた。普段はハジメ以外にあんな顔見せないくせに。ポケモンだろうと結局、女の子は顔のいい男が好きということか。ムウマが遺跡で悪戯を仕掛け、付きまとっていたあの探検家の人も、顔は整っていたと思いだす。
「聞いたぜ。お忙しいレンジャーさんは働き過ぎだってんで強制的に休暇とらされたんだろ?」
「……何であんたがそんなこと知ってるんだよ」
「しかもいつも頼ってくる市民の皆さんも、今日に限って他のレンジャーに依頼済み、せっかく制服着て来たのに無駄になっちまったな?」
「だから、何であんたがそんなこと知ってるんだ!」
ハジメがきつく問いただすと、アイスは芝居がかったぐらい大仰に肩をすくめた。
「僕も善良な市民なんだから、市民の方々に聞いたに決まってるだろう?」
何が善良な市民だ、とハジメは斜め下に吐き捨てた。どうせムウマをたぶらかしたように、その辺の女性をつかまえて聞き出したに決まっている。外面がいいと警戒されなくて得なものだ。ついでに女性に受ける顔だと更に得だ、と嫌味っぽくハジメは思う。ハジメなんて「かっこいい」に類する言葉は、レンジャースクールの後輩(それも男女入り混じり)にしか言われたことがない。あとは「可愛い」か「小さい」か「坊や」だ。別に、僻んでいるわけじゃない。
「いつもは忙しいけど、今日は暇だろ」
アイスが癇に障るニヤニヤ笑いを浮かべて言う。何故かムウマまで、ニヤニヤ笑っている。彼女はハジメの味方のはずなのに、今日はアウェーの気分らしい。そうしたパートナーの気まぐれさが、今は無性に恨めしかった。
「……何で今日に限って僕に頼まないのかまで、聞いた?」
「教えたら俺が何か得するか?」
憎たらしい。ハジメはひとり握り拳に力をこめ、我慢だ我慢、と自分に言い聞かせた。
「人目のあるところなら、暇潰しに付き合ってやる」
「人聞きの悪い。まるで俺が薄暗いところにでも連れ込もうとしてるみたいじゃないか」
「それぐらい警戒されてるのを察しろよ。僕のこといくつだと思ってんだか知らないけど」
ヤミヤミ団だとか何度か敵対したのだとかを抜きにしても、完全に子ども扱いしている相手の前にこう何度も現れたら、裏の理由を勘繰りたくなるのも当然だろう。何せハジメは組織のこと以外で、こうも粘着される心当たりがない。これでハジメが女の子だったならともかく、れっきとした男だ。真意の見えない相手に、暇潰しにしては多い頻度で絡まれて、はいそうですかとのこのこ無邪気に付いて行けるほど無邪気な年齢でもない。
「レンジャーの割に根性捻くれてるな、お前のパートナーは」
「余計なお世話だ。ムウマ、変な人にホイホイ同意しちゃいけません」
「へぇ、知らない人、ではなくなったんだな」
からかいの言葉を無視して、ハジメはわかりやすく不機嫌な表情を作った。ムウマにまで頷かれては立つ瀬がない。
「お前に気を遣ってるんだよ」
話の飛んだ先が見えずにアイスを見上げると、やはり笑い含みの目と視線がぶつかった。青い青いと思っていたが、その瞳の色まで青い。頭と頭の距離が出会った頃と全く変わらず、見上げる形なのが癪なのさえ、アルミアのお城の時と同じなのを思い出した。あの時も青いと思って、その青い男が青い石を諦める代わりに別の青いものをやるなどと言い出したから、ハジメは頭がこんがらがりそうだったのだ。あの時と似た感触の混乱が、ハジメの中に去来していた。
アイスが何を考えているかなど、初めて会った時から今まで、ハジメが理解できたことはない。
「せっかくの休みなんだから、レンジャーさんが一日ちゃんと休めるように、だとさ」
先ほどハジメが尋ねたことへの答えらしいと、ここでやっと気付いた。どうして今日に限って、ハジメにだけ誰も依頼しようとしないのか。答えを得て、ハジメは頭を抱えて座り込みたいような気分になった。点滅を繰り返しながら近付いてきたムウマが、ハジメの肩のあたりで止まる。
「……ありがたいけど、嬉しくない」
「贅沢なヤツだな。そういうことだ、行こうぜ」
当たり前のように手を取られて、驚くと同時に思わず振り払っていた。何のつもりだと睨みつけると、払われた手をふらふらと振りながら、アイスが苦笑する。わざとらしい笑い方だと思った。
「人目のあるところなら、付き合ってくれるんだろ?」
「だからって、男と手を繋ぐ趣味なんかないよ」
「ああ、妹専用か? 寂しいな、12やそこらだからって、そろそろ他に目を向けないと視野が狭まるぜ」
「僕は16だ!」
こう訂正するのも何度目か。わかっていて言ってくるのだから、どうしようもない。しかもだんだん、年齢が下がってきている気がする。足を踏んづけてやりたいような気分は内心溢れていたが、そこをぐっと堪えて早足に歩き出す。乱暴な足音にアイスが笑う気配がするのが、また腹立たしかった。