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「小夜鳴鳥」

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 星明りの下で彼女は踊っていた。その星の光も霞むような強い光だった。ともすれば幽鬼かと見紛う頼り無い風体とは裏腹に、その瞳の中の光はどんなエルダールにもついぞ見たことのない美しいものだった。物言わぬ他の獣たちと同じ、彼女を見て他に何も含まない、ただ彼女の踊りと歌に酔い痴れ見守る穏やかで強い瞳。王も神々も王国も魔術も血筋も、何一つ関わりのない純粋な憧憬。彼女がここで踊る理由。


 ああ、またあの幻だ。


 彼女はそう思った。あえて振り返ろうとは思わなかった。彼女はただ静かに踊り、穏やかに歌いつづける。かさりと微かな音をさせて、憔悴したような青白いそのひとは再び昨夜と同じように彼女を見ていた。旅装束に包まれた身は窶れていたが、それでも尚威厳にも似た力を感じさせる程度にはよく鍛えられていた。だがそれは決して重々しくはない。
むしろまだ若木のような印象を、その姿は彼女に与えた。彼女の踊る、白く輝く草原を囲む小さな獣達の円にそのひとは静かに混ざる。その瞳は彼女の記憶の中にあったものよりよほど美しく、強くきらめいていた。青灰色の星の瞳。なんて眼差し。純粋で優しく、それでいて熱情的な。

 消えなければいい。幻でなければいい。あんな人を私は知らない。あんな眼差しを私は知らない。いまだかつて父王の白い宮殿の中のどんなエルダールも持ちえなかった、あの純粋さを私は知らない。私の歌を静かに聞くどんな獣も持ちえなかった、あのおとなしい激しさを私は知らない。夜毎に踊るこの誰も知らない舞いと歌の、唯一の観客になってくれればいい。ああけれど、それはきっと。

 白い宮殿は白い籠。ネルドレスの隠れ王国とその守護の魔術。小さな籠。籠の中の籠から出ても彼女はやはり籠の中。安楽で平和で幸福な、愛された籠の中の。


 熱い戦慄にも似た何かが、彼女の背を駆け登っていった。それに名付けるべき名を彼女は知らず、彼女はそれを恐怖と錯覚した。優雅に舞っていた手足が急に硬直する。彼女は自分でもその感覚に戸惑っていた。既に生きてきた年月は幾星霜を数えていたが、それでも彼女はエルダールとマイアの歴史から考えれば年少に過ぎない存在なのだから。遅々とした変化以外を知らない隠れ王国の住人に、その感覚の名を答える事ができたものがどれほどいただろう。そして実際、結局、その感覚はすべてその個人だけのものなのだから。
彼女は先程まで軽やかに踊っていた四肢を翻し、彼女を隠し優しく包む森の中へと駆けだした。どんな子鹿よりも優雅で、吹き抜ける風よりも素早い動作だった。






 けれど、その時。





「―――……ああ、ティヌヴィエル、ティヌヴィエル!麗しい小夜啼鳥、
どうか去って行かれますな!どうか、どうか」



 泣くような、悲鳴のような、叫びのような、嘆願のような。けれどそれは歌うような。ああそうだ、と彼女は何かを思い出した。どんな鳥も、その歌は多かれ少なかれその恋の為に歌われるのだと。悲哀も歓喜も何もかも、悲鳴のように嘆願のように祈りのように、それは歌い継がれるのだ。彼女は振り向いた。彼がそこに立っていた。泣きだすような、倒れ付すような、祈るような、けれどやはり―――純粋で優しく熱情的な、彼女の知らない星の眼差しで。


 彼女は彼の眼差しをしっかりと己の瞳で受け止めた。星の色だった。その一瞬に、まるで―――千年の歳月が流れ果て、彼女は己が老練で老獪などんなエルダールより長く生きたような錯覚を覚えた。それは彼の側にも同じだったのではないかと、その時も後からも彼女は考える。彼もやはり、彼女と同じように、お互いの眼差しを逸らそうとはしなかったのだから。

 夜だった。守られた森のはずれの川のほとりで、星明りが彼女達を照らしていた。これがそうだと、彼女は思った。彼女の母が昔笑って、彼女の質問に答えた答えの意味。



 (どうして かあさまは 最果てのくにに かえらなかったの?)



 それは、と。 マイアールであり神のひとりである森の守護の魔術を行使する魔術師本
人である偉大な、けれどつましい妃であるメリアンは娘に微笑んで答えた。



 (あなたのお父様の、瞳を覗き込んだ時、すべてはくるりとひっくりかえったの)










 千年の時も短く感じ一秒の瞬間も長く感じるような、世界すべての土台が根本から自分
の中で作り替えられる、その眼差しのこと。




「――……ティヌヴィエル」
 震える声で、けれど歓喜の滲む声で、彼はそっと彼女を呼んだ。


「ええ」
 自分でも思いがけないほど強い声で、まるで宣誓する時に使うような声で、彼女は彼の
瞳を見つめたままに小夜啼鳥と呼ぶ声に答えた。





「ええ、そうです。私はあなたの小夜啼鳥。この小さな鳥籠の中、あなたに歌を聞かせる為に、毎夜毎夜踊りつづけた、小さな小さな小夜啼鳥。今この瞬間、そうであることが私にもわかる。エルダールに許された先見の力など無くとも」

 彼女はそっと、その真っ白な手を伸ばした。木々の間から零れた星々の銀の光が、静かに彼らを照らしていた。窶れた風情の、けれど今はもう決して青白くはない、丈高い純粋な瞳の青年が彼女を見ていた。彼女は静かに微笑んだ。彼は、おずおずと手を伸ばし、傷どころかしみひとつない彼女の銀色の手に触れた。彼の手は剣を持つ者の傷と節とに彩られ、決して優雅とは呼べないものだったが、日々を懸命に生き延びる者の手だと彼女は思った。


 彼が彼女の手をとって、静かに――ーけれど深く握った時、彼女は再びあの戦慄に似た熱が彼女の体の中を走り抜けるのを感じた。だがそれはもう彼女にとって恐怖ではなかった。


 彼は音もなく星辰の明かりに照らされる樹木の回廊の中跪き、まるで壊れ物を扱うように優しく彼女の手を引き寄せ、そこにそっと、軽く、口づけた。





 ……愛しい、ティヌヴィエル。








 そう彼はエルフの耳にも聞き取れるか聞き取れないかというほど小さく、うっとりと、
けれど何かを誓うような誠実さで囁いた。






 ありとあらゆる光も闇も安楽も戦乱も彼女の中で色を変えて、新しい世界が訪れた事を、彼女はやはり彼と同じように静かな歓喜に打ち震える胸の中で確認した。


















ティヌヴィエル、ティヌヴィエル。籠の中の小夜鳴鳥よ。いまやあなたは自由の身なのだ。
あなたは世界を手に入れたのだ。







作品名:「小夜鳴鳥」 作家名:風牙瑠璃