天空天河 二
五 旧情
馬車で来ると、思いの外、蘇宅から靖王府は遠く感じた。
──林殊であったなら、馬で、一駈けで来られるのに、、。
いや、、蘇宅の裏庭からなら、壁を一越えで、、。
、、、それよりも、、、ふふふ、、、もっと手軽で便利な物が、、、。
景琰は知っているだろうか、、クスクス。──
長蘇は、蘇宅から靖王府に向かう馬車の中で、一人含み笑いなど、、、。
金陵に来る途中、助けてもらった礼をしに、靖王府に向かっていた。
既に靖王府には、礼物を贈っておいたが、やはり長蘇が直接、礼を言う必要があった。
必要と言うか、『行きたい願望』を、正論化させたと言った方が、正しいだろう。
靖王府の武人達には、既に、廊州の酒を扱う店から、良い酒を王府に送ってもらった。店からは何も連絡が無いので、靖王府では、気持ち良く受け取ってくれたのだろう。
悩み所は靖王への謝礼だった。
靖王の欲しい物は、知っている。
喜ぶ物を贈ってしまっては、『何故知っているのか!』と薮蛇になりかねない。
長蘇の思惑としては、それも悪くは無いのだ。
『靖王に帝位を掴ませる』提案をしてしまえば良い。
靖王を押し上げ、皇太子に据えんとしているのだ。凡百(あらゆる)靖王の事を、知っていても不思議は無い。
──私が梅長蘇として名乗り、訪れる訳にはいかない。
靖王府の者は、もう私を、梅長蘇と、知っているのだろうが。
白々しいが、あくまで書生の『蘇哲』なのだ。
書生らしい贈り物を、だから兵書を持って来た。
『攻撃』の兵書の一部分。
懐柔、謀、等の考え方の部分だ。
景琰が最も嫌う部分。
景琰はどう受け取るか。ふふふ、、。──
受け取った靖王が、困るのか、怒り出すのか、どんな顔をするのか、想像しながら、手土産代わりの兵書の包みを、膝の上に乗せた。
馬車を降り、堂々たる靖王府の門の前に立てば、懐かしさで、長蘇の胸は締め付けられる。
ややもすれば、うっかり涙さえ溢れそうになるのだ。
──ある程度、私の心が、感傷的になるのは覚悟していたが、、、。
こんな場所で涙すれば、妙な噂が立つ。
忘れてはならぬ、人が見ているのだ。
決して、林殊の感情を出してはならぬ。
皆、私を、謀に長けた、江左盟の惣領、『梅長蘇』だと疑わないのだから。──
嘗て、林殊であった頃、、、
靖王にこの王府が下賜されると、林殊は羨ましがり、靖王府に入り浸った。
靖王府の表門、柱も屋根も、全てその頃のまま。
長蘇は、感傷的な感情が溢れ出し、『林殊の心』を隠すのに酷く苦労している。
靖王府の門衛に名を告げると、門衛から、贈った酒の礼拝を受け、少々、待つ様にと、言われる。
約束もせず、突然の訪問だったのだが、贈った酒の力が効いている様だ。
中から案内の兵が現れ、長蘇は後に続き、靖王府の門を潜り、石畳を歩いていく。
正面には、応接の間が有る、一際高い建物が見えた。
中庭への回廊から、屋根越しに空を見た時、梅長蘇の仮面が外れかかり、苦労をした。
──あの日々と同じ空が、、ここに、、。──
何も知らぬあの頃の、甘酸っぱい記憶と、地獄を見て、現在ここに立つ、長蘇の目に映る空が、、
──同じ青(いろ)の、、、。
天はあの日と同じなのに、、、
この靖王府も、あの日のまま、、、。
、、、私だけが、、、。──
呪われたとしか思えぬ境遇を、怨む心が、むくむくと顔を出す。
「蘇哲殿。」
立ち止まって空を見上げていると、戦英が回廊の奥から早足で、こちらに来た。
戦英が呼ぶ声で、長蘇は我に返る。
「殿下が書房にてお待ちです。どうぞこちらへ。」
ここまで案内してきた侍衛と入れ替わり、戦英が回廊の先に立っていて、拱手をしていた。
「先日はお心付け頂き、ありがとうございました。王府の者は、皆喜んでおります。」
長蘇は穏やかにに微笑み、拱手を返す。
平静を装うのに必死だった。
──ぞっとした。──
長蘇に沸き起こったのは、黒い怨念の様な感情。
梅嶺を下り、風雲を決意しても、これ程の恨みは抱かなかった。
──、、のに、、何故、今、、。
『魔』が私の心に、入ろうとした、としか思えぬ。
飛流にすら侵入を許さなかったのに、、、。
今更、妙な『魔』なぞを入れてたまるか。──
『魔』は、金陵のそこかしこに、居るのだろう。
小さな『魔』が、宿主を探して彷徨っている。
──景琰が心配だ、、。
あいつは大丈夫なのか?。
景琰とて、不遇な運命を背負っている。
嘆いて、恨んで当然だ。
先日、私が助けてもらった折は、景琰の中に『魔』は居なかった。
この靖王府の配下も、景琰への処遇に不満がある筈だ。
心して見なくては、、、。
差し当たり、この戦英は大丈夫な様子だが。
探る段取りを考えねば。──
そんな事を考えつつ、、。
──書房なぞ、、目を瞑ってても行けるぞ。──
困ったことに、長蘇の心はうきうきと浮き立って、、。
──やめろ、、、落ち着け落ち着け、、。
戦英に、不審に思われるぞ。──
「おいっ!!、覗き見なぞ!。靖王府の武人たるものが!、はしたない。散れッッ!!。」
戦英の怒号が響き、長蘇はどきりとする。
戦英の言葉の先を見れば、わらわらと逃げて行く、兵士の後ろ姿。
「蘇哲殿、、失礼しました。
書生の来客が珍しい様で、、お恥ずかしい限りです。」
靖王府の者は皆、蘇哲が梅長蘇だということを、知っているのだ。江左盟という大きな江湖の勢力の惣領を、一目見たいと、隠れて覗き見たのだ。
戦英が拱手して謝った。
「どうぞ謝罪なぞ、お止しに。私は畏まられる人間では、無いのですから。」
笑いながら、長蘇は手を差し伸べ、戦英の拱手を解いて、どさくさに紛れ、戦英と接触した。
──戦英は大丈夫だ。戦英の中に『魔』は居ない。──
安心した長蘇は、満面の笑みを戦英に向ける。
その無防備な微笑みに、戦英は目が離せなくなってしまう。
戦英は長蘇に、酷く違和感を覚えていた。
戦英はとうに、蘇哲が江左盟の惣領、梅長蘇である事を知っていたのだ。
江左盟と言えば、数年前から、飛ぶ鳥を落とす勢いで、江湖の勢力を大きくしている。
江左の梅郎なる、謎めいた人物が、組織を取り仕切っている。
靖王府の配下の中で、その手の事に詳しい者に、江湖の噂話を聞けば、、、、武侠の門徒を一声で動かす江左盟の宗主は、頭脳明晰の順位、琅琊榜貴公子榜の頂点に立つ男だと。貴公子榜ならば、頭脳だけでは無く、見目も麗しい。
泥濘に嵌った馬車を助けた折、蘇哲は一人では歩けず、靖王に添われて馬車に乗ったのだ。
靖王からは病弱らしいと、聞かされたが。
病弱な者が、どうやって、あの大きな江左盟を取り仕切っているのか、、、と。
「ふふふ、、、。」
長蘇が、戦英の考えを、見透かしたように笑った。
今度は戦英がどきりとする。
只者では無い。
やはり、見かけ通りの人物では無いのだと、思った。
この様な人物を、靖王と付き合わせて良いものかどうか、、、、、、
、、、等々々々々、、、延々と悶々と、戦英の心配事は続く。