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消えてしまう前に

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   消えてしまう前に
              作 タンポポ


       1

 それまでの世界は、まさに私にとって、揺り篭(かご)だった。
 それがどんな事なのか、私には、到底、まだわからない。

「何も、驚かなくていいの」

 何かに憧れを抱いたあの頃の遠い遠い妄想のように、思うようには、掴めない。
 すくったとき、指先の隙間から零れ落ちてしまう、あの砂礫(されき)のように、それはとても難しかった。

「ただ普通にしていれば、何もないから。安心していいのよ」

 未来というそんな形さえないものが、とても怖く感じた。
 未来とは恐怖の事をいうのかと、私は思った。
 不安にはならない。大きな存在であるお母さんが居てくれるから、私は何も心配しない。

「すぐ終わっちゃうから、あやめが悩む時間なんてないの」

 お母さんの手は、とても柔らかくて、そして優しかった。

「嫌じゃないのう?」
「うん。全然、嫌じゃないよ」
「苦しくもない?」
「苦しくもない。なあんにも、怖い事なんてないから。ちょっとだけ、面白いの」

 まるで魔法のようだった。優しい声でそう言われると、それは魔法のようにばらばらと崩れて、急に優しい感覚へと形を変えた。
 それからはすぐに、未来が元の形に戻ったような気がした。何も、怖くない。未来は普通に、私のもっとずっと先にあるのだから。
 心配しなくていいと、お母さんがそう言ってくれたのだから。

「お母さんも、お母さんのお母さんも、そうだったのよ」
「みんな?」
「そうよう」
「じゃあ平気だね」

 もっと勉強をして、お菓子を食べて、友達と遊んで、それから、好きな人に告白をして……。私は大人になるんだ。大人になったら、芸能人になってるかな。好きな人と結婚をして、幸せになれてるかな。
 それまでの世界と、これからの世界は、何も変わらないんだ。
 未来は怖いものじゃないんだ。

「おやすみなさい」
「おやすみ。いっぱいいっぱい、楽しい夢を、見てねあやめ」

       2

 一枚、また一枚と、壁に掛けてあるカレンダーが剥がれていく。楽しかった夏と、詰まらなかった秋が終わって、壁のカレンダーには、いつしか雪景色が描かれていた。
 朝起きると、私は反射的にカレンダーを見てしまう。破り捨てたカレンダーは、もうないはずなのに、それをつい、探したくなってしまうんだ。
 少しだけ、私はそれが淋(さみ)しかった……。
 休日に悲しいメロディの音楽を聴いていると、つい泣きそうになってしまう。溜息を吐いて、そのまま考え耽(ふけ)ってしまう事もあった。そんな感覚は、どうなのだろう。私はできる事ならこんな感覚はあまり経験したくはなかった。
 人を好きになる事は、まともな感覚なのだろうか。私はあまり好ましくない。
 こんなに理不尽な気持ちを味わうものが、人を好きになるという事ならば、私は人を好きになんてなりたくない。
 こんな気持ちは、記憶と一緒に捨ててしまいたい。だけれど、そんな事は、どうやら出来ないみたいだった。それが人を好きになるという事なんだろう。
 四年前には、まだまだ楽しいと思っていたんだ。その全てが私には新鮮だった。何にとらわれることなく、ただ自然に、ただ普通に、私は人を好きになっていた。
 一年前にも、雪が降っていた。私はその時だって、何も知らずに、気付かぬうちに、何もわからなぬうちに、もう好きになっていたんだ……。
 どうすればいいのだろう……。破り捨ててしまったカレンダーは、もう元には戻ってくれないのだから。過ぎた日も、元には戻らない。私は、もう、自然ではいられない……。
 自分でもよくわからない。こんなに変な気持ちでは、涙さえも流れてはくれない。それは私にとって、今までのどんな事よりも辛い事だった。
 過去の経験には当然ない。おそらく絶対に、これからも経験する事はない、ただ変なだけの、そんな気持ちだった。
 私はカレンダーを見つめる。いつだって、ただ何をするわけでもなく、見つめるだけだった。無力すぎる私にはそんな事しかできない。
 カレンダーを見つめて、何を後悔する事も、何を悲しむ事も、できはしないんだ……。
 ただたぶん、好きなんだろう。と、そうしてこのめちゃくちゃな淋しさを実感するだけだった。
 このカレンダーも、あと少しで、破り捨てなければならない。
 その時、もしかすれば、私は涙を流せるのかも知れない……。

       3

 毎週何日かの午前一時、それが俺の唯一(ゆいいつ)の生き甲斐(がい)だった。人生とはどんなものか。日頃からそんな大そうな事を考える奴じゃなかった俺は、それまでの成り行きで己の人生を見つめてきた。
 それなりに価値のある人生。程ほどに楽しめて、程ほどに困難がある。それでいいというよりは、そんなものだろうと思っていた。この先長い時間があるのだから、今のうちに。などとは、一度も考えたことが無かった。特別な何かなんて必要なかった。必要だとは到底思えなかった。
 大きな企業に就職して、海外出張に溜息を吐く。眼忙(めまぐる)しいスケジュールに嫌気をさしながら、何千人の前でスピーチする。疲労を感じながら、自分の人生に大きな誇りを持つ。俺にはどれも息苦しく感じた。それは、俺には必要ない。いや、できっこないんだ。
 そんなふうに、俺は自分をすんなりと受け入れ、認められた。
 彼女と会うまでは……。

「おはよっ。まずいよ、俺、今月の給料じゃのりきれないかもしれない」
「いきなりなに?」
 彼女は、そうやっていつもまったりと笑う。
「車、買っちゃったからさ……」
「え。もう買ったの? 結局買う事にしたんだ」
「うん。新車でも買わないと、なんか単調な毎日でさ、やってらんないよ」
「ふふふ」

 俺は彼女と出逢った事で、ようやく、これまでの人生と、この毎日に愚痴を言えるようになった。ようやく、人生は捨てたものじゃないと、そう気が付けたんだ。
 会社と自宅の往復時間にだって、俺は当然の疲労だというそんなつまらない理解を示していた。忙しいの少し手前には、やはりそれなりの疲労が溜まる。ならば、無理をして有意義な時間を作る必要はない。早く自宅に帰って休めばいい。そんな事を本気で思っていた。それが楽だった。楽は怖い。楽は十年もそこに依存させてしまうほどに、それなりに有意義ともいえる時間だった。
 十年なんて、本当にそんな感覚でしかなかった。高校を卒業して、進学の進の字も悩まずに俺は就職した。それだけだ。それだけで俺は十年を終わらせてしまっていたんだ。

「オープンカーって、好き?」
「え?」
「あのさ、ほら、屋根がない車のこと」
「ふふ。それは、私も知ってる」
「あは、そうか。はは」
「ふふふ」
「あの、好きかな? オープンカー」
「うん」
「好きかぁ……。迷ったんだけどさ、雪が降りそうなのに、オープンカーっていうのもどうかと思って……」
「どんな車を買ったの?」
「ん? ああ、結局普通のワゴン。それが無難かと思ってさ。俺の安月給じゃオープンカーなんて、中古のポンコツもいいところなんだけど」
「ふふふ」
作品名:消えてしまう前に 作家名:タンポポ