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消えてしまう前に

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 この公園で彼女を見つけた時には、もう、何もかもが馬鹿らしくなった。どうして質の良い車に乗っていなかったのか。どうしてもっといいスーツを買わなかったのか。どうして、もっと格好つけて家を出てこなかったのか。頭の中は大混乱だった。
 一目惚れというには、時間があったのかも知れないが、運命だとは、しっかりと受け止めていた。
 毎日を当たり前に過ごす会社通いの日々。昼休みには、煙草を買いに出る。社内にも自販機はあるが、何となく、俺はいつも気分転換に外に煙草を買いに行った。それは自分自身のSOSだったのかもしれない。特別な何かのない毎日とは、やはり、それなり以外のなにものでもなかった。
 俺は彼女を見つけた。少し若い格好をしていたが、一目で同じいくらいの年頃だとわかった。いや、もう、その瞬間に、俺は彼女を知ろうと無意識に頭を動かしていたのかも知れない。
 自販機は眼の前にあったが、気が付かないふりをして、彼女が立っている、その近くにある自販機まで歩いた。俺の事なんて誰も見ていないのに、小さな演技をしながら、俺は自販機を見つけたような素振りをした。
 彼女は煙草屋の婆さんと世間話をしていた。麦わら帽子のような、白い大きな帽子をかぶって、暖かそうな白いロングコートを着ていた。婆さんに微笑んでいるその横顔は、まさに、女神のようだった。
 自販機から煙草を取り出しながら、風邪をひいている演技のつもりで軽く咳をしてみたが、彼女は俺に気が付かなかった。

 会社に戻った後は、少しだけ憂鬱(ゆううつ)になった。それからまた何も変わらない毎日を過ごしながら、俺はその毎日の昼休みに、あの煙草屋に通うようになったんだ。
 だけど彼女は、それから一度しか、姿を見せなかった。また彼女を見つけたその日、彼女は婆さんと世間話をしながら、辛そうに、何度も咳をしていたんだ。自販機から煙草を取り出しながら、俺はすぐに彼女の身体は弱いのだろうと、そう想像していた。
 それからは、もう、その想像しか残らない毎日だった。病院をこっそりと抜け出しているのだろうか。結婚しているのか、していないのか。何処に住んでいるのか。どんな生活を送っているのか。仕事はしているのか。できないのか。思い浮かべる勝手な想像は、全てに根拠がなく、確証の持てる想像は唯一、華奢(きゃしゃ)な笑顔でおっとりと喋る、とても儚(はかな)い、あの横顔だけとなっていた。
 そして、気が付くと、俺は彼女を見つけていた。その頃にはもう勝手な想像が膨らんでいて、彼女は不治の病で死んでしまったのではないかと思っていたぐらいだった。
 彼女はこの公園で本を読んでいた。二回だけ見た、あの帽子はかぶっていなかった。コートも別のやつを着ていた。前髪が眉にかかるか、かからないかの所で綺麗に揃っていて、その女神のような静かな表情は、膝に置いた本を読んでいた。
 海賊が財宝を発見した、そんな気持ちになっていた。諦めかけていた財宝を、ようやく見つける事ができた。その日も雪が降りそうな、そんな冷え込んだ昼だった。考えてもみれば、そんな日に、病気の人間が外出できるわけはないのだ。本なんかは家の中で、もしくは、病院で読めばいい。
 俺はどうしようもなく、可笑しくてしようがなかった。馬鹿馬鹿しい、実に自分が馬鹿なのだと心で笑っていた。彼女は元気で、そこに座っているじゃないか。また会えたじゃないか。
 その感情こそが、生きる価値なのだと、俺は彼女に出会えた事で知ったんだ。

「寒いよな、最近さ」
「寒くなってきたね」
「ワゴンで良かったかもしれない。オープンカーに屋根を付けたんじゃ、あんま意味ないもんな?」
「そうね」
 この清楚(せいそ)で、優しい笑い方を好きになったんだ。
「ワゴンを買ったから、今度どこかに行かないとな」
 なかなか距離は縮まないが、俺は、たまにこうして彼女と喋れるこんな静かな昼休みだけで、満足している。
 だが、もう、何年もそうしているのだから、彼女の方も、多少ぐらいは、痺れを切らしてくれているだろうか。
「使ってやらないと俺のワゴンが泣くよ」
「そうね」
 座っている、そのベンチの距離さえもが、まだ一人分も遠い。
「どこに行けばいいのか……。とにかく使わなきゃな、もったいない」
「行きたい場所は、ないの?」
「俺は……、ないんだけど…」
「ないのか……。でも、それじゃもったいないよね。せっかく買ったんだし」
「だからさ」
 この後は、どうしてすんなりと出てこないんだろう。
 彼女だって、こんな時はいつも黙って待っていてくれるのに……。
「だからぁ……」
「うん…」
 年下が今更ネックになってるのか……。それだって、彼女とは一つしか違わない。なのに、そのまま何年も、俺はこのままで……。何をやっているんだろう。
 それなりの人生を送ってきたせいで、納得はしているものの、何もできないまま、とうとう三十になってしまった。彼女はもう三十一だ。
 リードしてもらうには、一歳というリードが薄すぎる。そうでなくとも、もう立派な大人なんだ、一歳違い程度で主導権を女性に委ねる問題じゃないだろう。
「なんかないかな……。筒井さんって、行きたいところなんか、ないの?」
「私は、どこに行っても、楽しいけどね」
「そっか」
「うん」
 この……、綺麗な横顔に、いっつもやられてしまうんだ……。どうして、俺はここぞという時の勇気が足りないのだ。どうして、筒井あやめは、こんなにも綺麗なんだ。
 これじゃ……、何にもできないじゃないか……。
 そこそこにはもう仲がいいのに。
 友達以上なのはもう当然なのに。
 何年間、俺は彼女とこうしてここで会ってるんだ。
 何年間、彼女は俺に会いにこの公園に来てくれてるんだよ。
 彼女だって、俺だって、気持ちはもうわかってるじゃないか。
 最高の関係じゃないか。
 どうして、勇気が足りないんだ。
「そろそろか……」
「また、今度ね…」
「ああ。あ、じゃあさ」
「うん」
 いっつもだぜ……。
 足りないものは勇気だけなのに、それが決定的に足りない……。
 ここ以外の場所で、昼休みにじゃなく、会いたいんだよ――。
「…また、今度な」
「うん。お仕事、頑張ってね」
「はいよ、筒井さんも、風邪ひかないようにな」
 ようにな、じゃないだろう……。
「うん」
「じゃあな」
「うん」
 いっつもだぜ……。

       3

 日捲りカレンダーの方が良かったかもしれない。同じ雪景色の描かれたカレンダーは、辛いような気がする……。毎日その絵が変わらないのは、こたえるかもしれない。
 いつ、ぱっと、終わってしまうのかもわからないのに……。その季節が終わるまで、私はこのカレンダーの、同じ雪景色を見なくちゃいけない。その時には一日でも早く忘れたいのだと思う。たぶん私は、その時そう思っているだろう。
 同じカレンダーを見ながら、全く違う、その変な気持ちを味わいたくない。カレンダーも同じ、全くが同じ毎日なのに、私は、その時になれば、そんな気持ちを味わうのだろう。
 今よりも、もっと……。
作品名:消えてしまう前に 作家名:タンポポ